森幸一(編) 「味噌、醤油、酒の来た道」 小学館
⑥遺物からみた縄文の食生活 平口 哲史
以下、メモより
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韓国 盤亀台遺跡
蔚山湾大和江上流部
岸壁画
トラ、シカ、イノシシ、ヒョウ、キツネ、ウシ、ウマ、
イヌ、イルカ、クジラ、ウミガメ
無文土器時代 2000~3000年前
慶尚南道蔚州郡彦陽面大谷理
現在はダムの水面下
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■日本の縄文遺跡から出るイルカ漁との関連で紹介。
参考 http://www.kanazawa-med.ac.jp/~hum-sci/ceto-k14op.htm#SEC8
http://www.dolmen.or.kr/j_html/j_exp/sub01/j_exp01_03_08.html
⑦古代の日本海域の食物とその貢進 門脇 禎二
以下、メモより
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正倉院 請暇解(しょうかのげ): 休暇届願い
農繁期、衣服の洗濯、足腫病(かっけ)、下痢、赤痢。。。
生鮮食品が都には少ない
庶民の食生活は不明 おかゆ?
3回食は室町時代から
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■庶民の食生活は不明となっている。正直である。
参考 http://www.ooiri-co.com/rekisi%201-2.htm
⑧海と山の食分化 佐伯 安一
以下、メモより
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寛政3年(1791年)富山砺波郡十村
持高十石の農家
一石五斗で一反だから田の面積は六~七反
米は正月と盆だけ
あとは粟、稗、トチ、クズの根、団子、動粉(いるご:くず米を粉にして団子を作る)
ゾロ=粥
大根の葉も主食の扱い 茎桶(くきおけ)にためておく
富山:東側は呉東 西側は呉西
イルゴ=くず米の粉 ユリゴとも言う
西:イコ(煎粉)にして食べる 大麦の粉も混ぜる
東:コママ 飯の上にかける 飯が炊き上がる前に粉をのせて混ぜる
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■持高十石の農家
六~七反の田の面積は、一反=三百坪だから約1000㎡×6~7=6000~7000㎡となる。小学校の運動場くらいか。広そうに思えるがこれじゃあ専業農家では食えない。
今現在の話として計算すると、仮に一反から6~10俵(1俵:約60kg)の米の収穫があるとすると、六~七反の水田からは多く見て70俵の米がとれる。1俵が15000円~20000円で換金できるとすれば105万円~140万円の収入となる。
これじゃ今でも食っていけない。
■イルゴ
イコ(煎粉)だが、私の生まれ育った地方では煎った大麦の粉をイリコと言っていた。
富山地方の西も東も、イルゴと言う米の粉を飯にかけたり混ぜたりして食べるとなっているが、これは食べにくいモノだろうと思う。わざとこうして食が進まないようにしているのかとも思う。漁村では海草を飯に混ぜるというのがあったように聞くが、これもわざと食べにくくしているらしい。
糧飯(カテメシ)というのがある。大根の葉を飯に混ぜるのも、芋を混ぜるのも、栗を混ぜるのも、ヒジキを混ぜるのも皆糧飯である。米以外のもので飯の量を増やした飯のこと。米の量の少なさはその他のものを混ぜて補う。米の収穫の少なさは他のもので補うしかない。これ、昭和の初期(←戦争中ではない)、昭和30年代頃まで、もしかしたらつい最近まで日本各地の食事の普通の姿だったんじゃないかと思う。
■富山:東側は呉東 西側は呉西
越の国に呉がある。
続く・・・・。
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