オーストリア外交官の明治維新―世界周遊記 日本篇アレクサンダー・F.V. ヒューブナー新人物往来社このアイテムの詳細を見る |
昭和63年7月20日初版 新人物往来社 市川慎一、松本雅弘(訳)
著者はアレクサンダー・F・V・ヒューブナー。
1844年ライプツィヒ駐オーストリア総領事を振り出しに、1851~1859までナポレオン三世治下のパリでオーストリア大使を務め、1865~1867のローマ教皇庁駐在オーストリア大使を最後に外交官生活を引退。
1871年5月14日アイルランドのクィーンズタウンから世界一周旅行に出発。リバプール、ニューヨーク、ワシントン、シカゴ、ソルトレイク、サンフランシスコ、横浜(1871(明治4)年7月24日)、長崎(10月2日発)、上海、北京、天津、香港、広東、マカオ、マルセイユ(1872年1月10日)。
ヒューブナーは明治4年に三条実実、岩倉具視、大久保利通、徳川慶喜に直に会っている。また明治天皇との会見も明治4年9月16日に実現。この記録は日本側の「明治天皇記」に残されている。
この本はヒューブナーの世界周遊記第2部日本編の全訳になる。
底本は第6版Prpmenade autour du Moude 1871 par M.le Baron de Hubner 2vols.
初版は1873年刊。パリの国立図書館に第2部日本編のみがマイクロフィルム化されており、これを入手して参照。
フランス語原稿は初版刊行の1873年から1877年までに六度版を重ねたことからも明らかなように、当時のヨーロッパの読書界で洛陽の紙価を高らかしめた書物であった。
(以上、p272の訳者後書きから)
ヒューブナーはメッテルニヒの腹心。皇帝フランツ・ヨゼフ一世の側近。オーストリア・ハンガリー帝国の外交官。男爵。
駐仏公使時代にはクリミア戦争を終結するパリ条約(1856)にオーストリア全権として署名。警察大臣も1859年につとめている。ヴァチカン文書館所蔵の外交書簡をもとに「シクストゥス五世伝」八折判三巻の著作(1870、仏オ伊三国で同時刊行)もある。
新井白石クラスの文人政治家が引退後、日本に来たことになる。
幕末維新期に日本で活躍した凡百の外交官に比べたら段違いの大物。
(以上、巻頭の井田進也 東都大学教授)
日本人に対し厳しいことも書いているが超一流の外交官とは、こうもニュートラルな目で外国を観察できるものなのかと感心した。江戸と明治のはざ間にこういう人物が日本に来て直に見て記録を残していたことを幸いに思う。
幕末期に日本に来て記録を残したヨーロッパ人は少なくない。その多くが日本に対し好意的な記録を残しているように思う。当時のヨーロッパよりも好意的な記述もある。それは何故かといえば、当時の日本の統治者たちの政策の成功、日本独自の文化・文明のありかたによるところも多いのだとは思う。しかし、一つ注意しなければならないことは、ユーラシア大陸、日本もイギリス同様その一つの世界に入っていると考えれば、同時に進行する時間の中で既にヨーロッパが失ってしまった時代をまだ日本が誤差として持っていた、それを失った側のヨーロッパ人が見たということかもしれない。ヨーロッパの産業革命前の落ち着いた世界を日本に見たということだ。
幕末という時代の後、日本は急激にヨーロッパの文明を取り入れて行き一気に産業革命後の世界に突入する。日本人は自ら言語・文体・思考までヨーロッパの影響を受け変えていった。ヨーロッパの影響を受けた現代日本人の思考の中で幕末期の日本を捉える資料として、ヒューブナーのような一流の人物の記録はとっつきやすく読みやすく理解しやすい貴重な資料だと思う。
以下、メモより。
--↓------------------------------------------------
目次
第1 横浜
第2 吉田
第3 箱根
第4 江戸
第5 大阪
第6 京都
第7 琵琶湖
第8 長崎
p48 富士吉田
アルプスの高原地方の趣を保っている。
ウンターヴァルデン州(スイス)そのもの。
p47 同行の青年たちが澄んだ冷水の中に飛び込もうとした。突然、住民たち全員が男も女も娘も子供もみんな顔を出した。すると、めったにないことだが、我々についている面白がりやの役人たちはそっと姿を消してしまった。そこで公衆道徳のために監視するお鉢が私に回ってきた。水浴場にただ一本通じる土手の上に、私は長い竹で武装して立つはめになったのである。
p53 一軒家の茶屋
礼法どおりに玄関の間の小机に大きな剣がもたせかけられているのに気づいた。つまりここには侍、両刀を差した男たちがいるというわけだ。
p54 茶屋の主人が間に入って極めて丁重な態度で侍たちに近寄り、いろいろ甘言を弄して彼らを家の中に引き取らせてくれた。
p56 ベアトの写真
p57 読者諸氏にはこういういわく言いがたい幸福感を思い描くことがおできになるだろうか。つまり、しのつく雨が絶え間なく朝から晩までどしゃぶりに降って快い涼しさをふりまいているなかで、自分の力を元気を意識しながら庭に向かってぱっと開け放れた瀟洒な部屋で、とても綺麗な畳に寝転がっているという幸せを。
p62 日本の農民には美的感覚を育む余裕がヨーロッパの農民よりあるようだ。そう、というのも日本の農民はヨーロッパの農民ほど仕事に打ちひしがれていないからだ。
p80 江戸
下肥を畑に運ぶ人間の存在も忘れないでいた方が良い。もしこれに出会ったら、顔をそむけ走るにかぎる。それでも溝から立ち上がる悪臭からは逃げられないだろう。こういうこともあるにはあるが、しかし、清潔さという点から見ると江戸に比肩しうるような大都市はアジアにはまったくないのである。いや、ヨーロッパでもほとんどないだろう。
p81 この歴史の古い日本においては人々は富裕も貧窮も知らず、みんな中流を保っているのだ。私は乞食をほとんど見かけなかったけれど、東海道にはいたから、おそらく江戸にもいるのだろうが、それほど目立つ存在ではなく、私の気づいた乞食たちもむしろ仕事をしているようだったし、そんなに惨めな感じはしなかった。
p100 9月6日 今夜、晩餐会で西郷と知り合った。彼は薩摩公の平侍から九州第一の実力者の一人に成り上がった人物だ。西郷はヘラクレス像のように巨大な体躯をしている。彼の眼は知性の光を放ち、顔立ちは精力のことを示している。
p121 横浜のベアト
日本人は写真技術にも熟達しており、これはまたたく間に日本に根付いて、こんにちではヨーロッパ人がただ一人もまだ訪れたことがないような地方でも行われているのである。
p126 江戸 9月15日 八百善
イギリスのコーヒーハウスの江戸版。刺身、煮魚、蒸し魚、吸い物、煮凍(ジャムと書かれていた)、蕎麦(バーミセリと書かれていた)
p129 9月16日 天皇の謁見 睦仁(むつひと)
大政大臣三条、岩倉、木戸、大隈、板垣。今の地位になる前は侍か郷士。
P143 9月19日 太平洋汽船会社 コスタ・リカ丸 江戸から兵庫、長崎
p144 一等船室にも若干の日本人がいry。外国船の甲板に足を踏み入れるやいなや、彼らは礼儀作法から解放される・・・彼らは耐え難い連中と化すのだ(注に中国人と同じとある)
p168 京都御所
我々は内部を見られなかった。天皇の庭園まで。全ては主の不在をはっきりと物語っていたのだ。小さな池は枯葉と植物とで覆われ、雑草が小径にはびこり、家屋の前に並べられた若干の鉢植えだけが庭師がいることを示していた。歴代の将軍が営々と築いた江戸城の真に堂々とした庭園と、天子のこのみすぼらしい茶室の庭となんたる違いだろう。
p211 横浜の外交団体の司祭は「半世紀もしないうちに日本は恐らくキリスト教になることだろう」と私に言った。これもありうることだ。国民の偶像を乱暴にし破壊する刷新者たちは無を創り出せるかも知れないし、すでに見てきたように無から新しい渇望とか真理への欲求とかが飛び出すことがあるかもしれない。けれども急進主義への道、権利の軽視、ヨーロッパの文物の表面的な模倣、すべてを平均化しようとする傾向や権力の専制が若かき日本をキリスト教に導きうるとは私にはと到底思えない。
p221 キリスト教徒への迫害
権利問題に関していえば、外交官の介入に根拠を与えるべき名称を私は求めてみたが無駄だった。条約は外国人に門戸を開いた港におけるキリスト教の自由な宗礼を保証する。ところが現地人やキリスト教徒については一言も触れられていない(特命大使のエルギン卿とグロ氏はその存在さへご存じなかった)最後に言えば、日本政府は侮辱的宗礼を廃止するとするオランダ人との間に以前に結んだ誓約を守っている。
p224 この国と中国との間には、いつの時代でも常に交流があり、日本は中国で起こった大きな出来事の余波を幾度も受けてきた。朝鮮半島は、名目上は中国の皇帝の支配下に置かれ、また繰り返し日本軍に占領されてきたので、地理的にこのモンゴル系二大強国の橋渡しとなってきた。
p238 各村では尊重は各家長によって選出される。ヨーロッパにもこれほど自由な村組織の例はないほどだ。
p239 大名の途方もない収入は別として大金持ちもほとんどいなければ、貧乏人もほとんどいなかった。多くの階級が武装してはいたが、暴力行為は相対的にほとんどおこらなかった。日本の歴史は、中国において太平天国が犯したような残虐行為は経験しなかった。公共秩序が乱されることは日本ではめったになかった。他のいかなる異教徒国家においてよりも、生活と繁栄が保障されているのである。
p239 女性は他の異教社会においてよりも自由で尊重されているとはいえ、まだなお解放を待ち望んでいるのだ。
--↑------------------------------------------------
(2005年 西図書館)