東京でカラヴァッジョ 日記

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絶滅鳥ドードー、ドードーの画家ルーラント・サーフェリー

2022年04月17日 | 書籍
 ドードー。
 絶滅鳥として特別な存在であるらしい、飛べないハトの仲間。
 そのドードーが、江戸時代の日本に来ていた。
 
 
 新聞の書評で知った書籍を図書館から借りて、今般読了する。
 
川端裕人著
ドードーをめぐる堂々めぐり
正保四年に消えた絶滅鳥を追って
岩波書店、2021年11月刊
 
 
 ドードーは、インド洋のモーリシャス島のみに生息した鳥。
 
 モーリシャス島は、アフリカ大陸の南東海岸部から沖へ約400km離れたマダガスカル島(世界で4番目に大きい島)からさらに東約900kmに位置し、その面積は沖縄本島の1.5倍、四国の10分の1だという。
 2年前、その沖合で、日本の海運会社がチャーターした大型貨物船が座礁し、大量の重油が流出する事故があった。
 
 無人島であったモーリシャス島は、1598年、インドネシアを目指して航海中のオランダの艦隊に「発見」され、以降オランダの艦隊が寄港することが増える。
 1638年にオランダが植民を開始し、1710年に撤退、1715年にフランス領、1814年にイギリス領、1968年に独立。
 現在、イギリス領時代に移入したインド系住民が人口の過半数を占めるという。
 
 ドードーは、隔絶された孤島で天敵らしい天敵もなく生活していたが、1598年にその姿を人に見られてから、1世紀経たずして絶滅する。
 野生のドードーが最後に目撃されたのは1662年のことという。
 船員が捕獲した(食用とした)こともあるが、人が持ち込んだネズミやブタに雛・卵を捕食され、また人が行う開発により生活環境が破壊されたことが大きいらしい。
 
 著者は、そんなドードーを、日本国内(第1章)、ヨーロッパ(プラハ、コペンハーゲン、オックスフォード、ロンドン、第2章)、そしてなんとモーリシャス(第3章)まで追っかける。
 
 
 
 江戸時代の日本のドードー。
 
 1647年にオランダ東インド会社が長崎・出島に持ち込む。
 オランダ側の資料(オランダ商館長日記、会計帳簿)によると、出島に持ち込んで、一度は日本の藩主等に見せたことまでは分かるが、その後の行方は、売られたのか、誰かに贈られたのか、死んでしまったのか、分からない。
 一方、日本側の資料では、ドードーに触れたものは発見されていない。
 絶滅まであと15年、稀少化した時期のはずで、現に会計帳簿には「値段のつけられないもの」と記されているという。
 著者は、モーリシャスから生きて島の外に出た最後のドードーかもしれない、と想像している。
 
 
 印象に残る話その1。
 
 ドードーが日本に来ていたことは、2014年発表のオランダとイギリスの研究者による論文により知られることとなった。
 ただ、その典拠となった「オランダ商館長日記」は日本語訳があって、直近では2005年刊、その先行訳として1957年刊および1938年刊の3種の訳書があり、それぞれ「ドードー鳥」、「ドデール鳥」、「ドド鳥」と訳出されているという。
 きちんと調べて正しく訳出されていても、その言葉の意義に気づいて発信できる者(訳者というよりも読者)がいなかったということであるようだ。
 
 
印象に残る話その2。
 
 ルイス・キャロル(チャールス・ドジソン)が、自らの吃音(Do-Do-Dodgson)から、ドードーを自分の代理として物語に登場させたのと同様に、サフェリーも自分自身とドードーを重ね合わせていたのではないかというのである。
 サフェリーは多くの場合、動物たちをつがいで登場させているのだが、ドードーのみはたった一つの例外的なスケッチを除いて単独だった。また彼は肖像画を見る限り太っており、生涯結婚しなかったことから、単独で描かれる太ったドードーは彼の「シグニチャー・イメージ」、つまり署名のようなものだったのではないか・・・。事実、彼のドードーは署名の近くに配されていることが多い。
 
 「サフェリー」とは、オランダの画家ルーラント・サーフェリー(1576/78-1639)のこと。
 
 サーフェリーは、神聖ローマ皇帝ルドルフ2世(1552-1612、在位1576-1612)の最晩年、1605-12年、宮廷画家としてプラハで仕える。
 皇帝の死後は宮廷を離れ、各地を転々としたあとユトレヒトに落ち着いたという。
 たくさんの動物や鳥が画面一杯に集う作品(小さな人物も描くことで神話画・宗教画となることもある)で知られる。
 日本の美術館で作品を所蔵するところがあるか否かは知らないが、海外所蔵作品が出品される展覧会は結構見かける。
 直近では、2021年の府中市美術館「動物の絵」展に、次の作品が出品されている。
 
ルーラント・サーフェリー
《神の救済に感謝するノア》
1620-34年頃、52.7×98.5cm
ランス美術館
 
 
 また、サーフェリーは「ドードーの画家」とも呼ばれているという。
 彼の描いたドードーの姿が、近年に至るまでのドードーのイメージを決定づけたとされるためである。
 
 私的にも、サーフェリーは、鳥類学や「不思議の国のアリス」や「ドラえもん」に縁のない私にドードーの名を初めて認識させてくれた。
 海外美術館コレクション展で、サーフェリー作品の解説にドードーのことが説明されていたのである。
 ただ、その場では、絵のなかのどれがドードーなのか確実には分からなかった(その後も、2017年の国立科学博物館「大英自然史博物館展」に行って、始祖鳥は見ても、ドードーに関する展示はスルーする程度の関心で推移)。
 
 サーフェリーがドードーを初めて作品に描きこんだのは、宮廷画家時代の1611年頃だという。
 プラハの宮廷で飼育されていたのか剥製なのかのドードーを画家は見たと考えられている。
 画家は、宮廷を離れて以降も、ドードーを描き込んだ作品を制作する。
 たくさんの動物・鳥のなかの一羽という作品が基本だが、単体で描いた作品も残す。
 大英自然史博物館が所蔵するその作品の太ったデフォルメされたドードーが、近年に至るまでのドードーのイメージを決定づけたという。
 
ルーラント・サーフェリー
《ジョージ・エドワードのドードー》
1626年頃、82×102cm
大英自然史博物館
 
 
 これだけ描いているのだから、サーフェリーはドードーに思いを持っていたことは確かだろう。
 ただ、ルイス・キャロルの逸話を、時代も文化も職業も異なるサーフェリーにも適用するのはいかがなものか、話としては面白いけど。
(その頃はまだドードーは生息しているし、19世紀的な匂いがして、広く受け入れられている話ではないだろうけど)。
 
 ルドルフ2世のプラハ宮廷の「驚異の部屋」には、サーフェリーが宮廷画家になる前、オランダ艦隊による「発見」の4年後となる1602年頃には、ドードーがいたらしい。
 そのドードーを描いた、知られているなかでは最古の彩色画である油彩画がある。
 作者不詳だが、アントワープ出身のヤコブ・ヘフゲナル(jacob hoefnagel、1573-1632頃)など諸説があるという。
 サーフェリーのドードーと比べてスリムなドードー。
 そのモデルは、その形態から劣化の進んだ剥製だったのではないかともされているという。
 
 
(参考)インド・ムガル帝国の宮廷で1624-27年頃に描かれたドードー(エルミタージュ美術館蔵)
 
 
 今後、私がドードーに関して鳥類学的な興味を持つことはないとしても、サーフェリー作品を見たときはドードー探しがお決まりとなるだろう。
 
 出島のドードーの行方が判明する日が来るだろうか。
 来るとすれば、それはどこかの藩に関する文書記録の発見によってなのか、出島でのドードーの骨の発掘によってなのか。
 それとも、ドードーの絵の発見によってなのか(さすがにそれはないか)。


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