東京でカラヴァッジョ 日記

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ゴッホ《郵便配達人ルーランの肖像》&《ルーラン夫人の肖像》- ボストン美術館の至宝展(東京都美術館)

2017年07月24日 | 展覧会(西洋美術)

ボストン美術館の至宝展
東西の名品、珠玉のコレクション
2017年7月20日〜10月9日
東京都美術館

 


《郵便配達人ルーランの肖像》と《ルーラン夫人の肖像》 が並ぶ。

 


フィンセント・ファン・ゴッホ
《郵便配達人 ジョゼフ・ルーラン》
1888年、81.3×65.4cm
油彩、カンヴァス


フィンセント・ファン・ゴッホ
《子守唄、ゆりかごを揺らす オーギュスティーヌ・ルーラン夫人》
1889年、92.7×72.7cm
油彩、カンヴァス

 

   ルーラン夫人の肖像のほうがサイズがやや大きい。
   ルーラン氏の肖像は、左腕の描写の手直しの跡が見えるのが、ちょっと面白い。

 

 

ルーラン夫妻とゴッホ〈公式サイトより〉


   1888年2月、ファン・ゴッホはパリを離れ南仏アルルに移り住んだ。見知らぬ土地に暮らし始めたファン・ゴッホにとって、ジョゼフ・ルーランはモデルとなってくれる数少ない友人だった。ジョゼフの仕事は「郵便配達人」と紹介されることが多いが、実際にはアルル駅で郵便物の管理を担当していたとされる。ジョゼフばかりではなく、妻オーギュスティーヌ、長男アルマン、次男カミーユ、赤ん坊の末娘マルセルもファン・ゴッホのモデルとなった。20点以上も残される一家の肖像画は、画家とルーラン一家との親愛の情を映し出している。
   ルーラン夫妻は、精神的にもファン・ゴッホの支えとなった。1888年12月、ポール・ゴーギャンとの共同生活が破綻した際、ファン・ゴッホは自らの耳を切った。ジョゼフは入院した彼を定期的に見舞い、外出が許されたときには彼に付き添った(1/4、黄色い家で4時間過ごす)。パリに住む弟テオとも連絡を取り合い彼を支え、(1889年1月21日に)マルセイユに転勤したのちも交流は続いた。ファン・ゴッホは、テオ宛ての手紙に「ルーランはぼくの父親というほどの年齢ではないが、年長の軍人が年下の兵に接するような寡黙な厳しさと愛情を注いでくれる」とその存在の大きさを書き記している。

 

   ゴッホは、ルーラン氏を妹ヴィル宛ての手紙のなかで次のとおり評している。(みすず書房刊『ファン・ゴッホの手紙』より)


   今僕は黄色をつけた濃い青の制服姿の郵便夫の肖像と取り組んでいる。ほぼソクラテスみたいな頭部で、鼻はほとんどなきがごとく、大きな額、禿げた脳天、小さな灰色の目、血色のいい、ふっくらとした頬、ごま塩の大きな鬚、大きな耳。この男は大の共和主義者にして社会主義者、議論もなかなかりっぱで、博識だ。

 


   ジョゼフ・ルーランは、1841年生まれ(1903年没)なのでゴッホより12歳上、妻オーギュスティーヌ・ルーランは1851年生まれ(1930年没)なのでゴッホより2歳上となる。

 


   ゴッホは、ルーランの肖像画を6点残している。

 

ルーランの肖像画

・ボストン美術館(今回来日)1888.8
・デトロイト美術館 1888.8
・ヴィンタートゥール美術館 1888.11-12
・バーンズ・コレクション 1889.4
・クレラー・ミュラー美術館 1889.4
・ニューヨーク近代美術館 1889.4


   ボストン美版のみ全身像で、他の5点は胸から上の半身像である。


   これら6点の来日状況はどうか?


   ボストン美版は1978年にも来日したことは確認できたが、それ以降の来日状況は把握できていない。
   クレラー・ミュラー美版は直近では昨年(2016年)の東京都美他「ゴッホとゴーギャン展」で来日したが、それ以前も結構来日している印象がある。

   ヴィンタートゥール美版は2010年の世田谷美他「ヴィンタートゥール美術館展」で、バーンズ・コレクション版は1994年の国立西洋美の伝説の「バーンズ・コレクション展」で初来日している。
   デトロイト美版やニューヨーク近代美版は、把握できていない。

 

 

   ゴッホは、ルーラン夫人の肖像画《子守唄、ゆりかごを揺らすルーラン夫人》を5点残している。

ルーラン夫人の肖像画

・クレラー・ミュラー美術館
・メトロポリタン美術館
・シカゴ美術館
・アムステルダム市立美術館
・ボストン美術館(今回来日)


   会場内解説によると、これら同様の構図である5点のうち、ボストン美版が一番最後に制作されたが、他の4点の制作順はハッキリとしていないようだ。

   これら5点は短期間、1888.12〜1889.3の4カ月の間に制作されたらしい。

   ゴッホが1888.12.24に有名な事件を起こしたとき、一作目は未完成の状態にあった。1/22、一作目の制作再開。1/28に二作目、1/30に三作目、2/3に四作目、3/29に五作目(ボストン美版)制作を開始。これらを並べて制作順番を想像する、そんな贅沢な鑑賞をしてみたいものだ。


   ゆりかご5点以外にも、ゴッホがルーラン夫人を描いた作品が存在する(子供とともに描かれた作品など)。


フィラデルフィア美術館蔵


オスカー・ラインハルト・コレクション蔵

 


   ゆりかご5点の来日状況はどうか?

 

   ちょっと追いきれない。

   追いきれないが、印象に残るのは、2003年の損保ジャパン美の「ゴッホの花」でのシカゴ美版の来日。ゴッホ美の《ひまわり》と損保ジャパン美の《ひまわり》を組合せての展示が行われた。


ゴッホの花
ゴッホと同時代の画家たち
ひまわりをめぐって
2003年9月20日〜12月14日


〈損保ジャパン美HPより〉

   「三幅対」とは、もともとは礼拝用の三連祭壇画を意味する。一般的に中央にメインの作品を、 そして両脇に翼と呼ばれるパネルを配する。ゴーギャンがアルルを去った後、ファン・ゴッホはゴーギャンの部屋を飾っていた2点の《ひまわ り》を、そのころ取り組んでいた「ルーラン夫人」の肖像画と組み合わせて飾ることを思いつく。
初めは、全部で7〜9点になる構成をイメージ、あるいは4点の《ひまわり》の間に2点の《ルーラン夫人》 を並べるなど、様々な組み合わせを試みているが、最終的には、《ルーラン夫人》を中央に2点の《ひまわり》を左右に配置する案を、弟テオ宛ての手紙の中で述べている。
   このテオに宛てた手紙によれば、こうして並べることで一組の「三幅対」が出来上がるだけでなく、色彩は輝きを増し、作品の本来の意味を理解することが出来る、と述べている。ファン・ゴッホの「三幅対」の計画は、書簡の中に、スケッチと共に説明されているのみで、実現には至っていなかった。
   2001年、シカゴ美術館で開催された「ゴッホとゴーギャン:南のアトリエ展」の会場で、ファン・ゴッホの《ルーラン夫人(揺り籠を揺する女)》の両脇に2点の 《ひまわり》が展示され、ファン・ゴッホが夢見た「三幅対」が実現した。今回の展覧会では、この「三幅対」が、日本では初めて再現される。

 

   波瀾万丈、周りに迷惑をかけてばかりのトラブルメーカーのゴッホ。そのゴッホの伝記の中で、ルーラン一家との交流は、ホッとさせてくれるエピソード。実際のところルーラン夫妻はどう思っていたのだろうか?



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