宮下規久朗氏のカラヴァッジョ新著を読む。
宮下規久朗
『一枚の絵で学ぶ美術史 カラヴァッジョ《聖マタイの召命》』
ちくまプリマー新書
2020年2月刊
カラヴァッジョ
《聖マタイの召命》
1600年
サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂コンタレッリ礼拝堂
「マタイはどこか」
「キリストが指しているのは誰?」
テーブルにいる五人の男のうちマタイは誰?
・長くそう思われてきた、中央の自らを指差す髭の男か?
・1980年代後半から提唱され論争となっている、左端のうつむく若者か?
イタリアでは、マタイは髭の男との認識が一般的であるらしい。
宮下氏の著書(巻末の読書案内)によると、2018年にイタリア人の研究者がマタイは左端の若者との説を提唱する書籍を出したところ、イタリアでかなり叩かれたそうです、とのこと。
手元にあるイタリア人によるカラヴァッジョの邦訳本でも、マタイは髭の男とされる。その理由は。
「この(髭を生やした)男は、呼ばれているのが自分であることを確かめるように、左手で自分の胸を指差しているからである」
(ステファノ・ズッフィ著『カラヴァッジョ―聖マタイ伝 (名画の秘密)』 西村書店)
「もし彼らのいう偽のマタイの指が、若者をさしているのであれば、その指に陰影ができるわけがなく、画面右側から入ってくる光に完全に照らされていなければならないはずだ。なぜなら、若者は髭の男性より前方に位置するからだ。手にある陰影は、むしろ男性が自分の胸に人差し指を向けて、キリストに「私に言葉をかけているのですか?」と尋ねていることを明らかにしているのである。」
(コンスタンティーノ・ドラッツィオ著『カラヴァッジョの秘密』河出書房新社)
左端の若者論者が自論説明に多言を要するのに対し、髭の男論者は、指差しがすべて。
指差しの感覚は、ひょっとするとイタリア人でないと分からないところがあるのかもしれない。
また、この論争を提起した研究者がドイツ人およびイギリス人であったこともイタリア人研究者には抵抗があるのかも。
須賀敦子氏は、エッセイ集『トリエステの坂道』所収された「ふるえる手」にて、1991年ローマ滞在時のカラヴァッジョ《聖マタイ伝》体験を語る。
200リラのコインを入れて照明を付ける仕組みを巡る件がたまらなく好み。
彼女は、マタイは髭の男だとして観ている一方で、左端の若者に別の観点から注目している。
「私は、キリストの対極である左端に描かれた、すべての光から拒まれたかのような、ひとりの人物に気づいた。男は背をまるめ、顔をかくすようにして、上半身をテーブルに投げ出していた。どういうわけか、そのテーブルにのせた、醜く変形した男の両手だけが克明に描かれ、その手のまえには、まるで銀三十枚でキリストを売ったユダを彷彿とさせるような銀貨が何枚かころがっていて、彼の周囲は、深い闇にとざされている。カラヴァッジョだ。とっさに私は思った。画家が自分を描いているのだ、そう私は思った。」
「左端にえがかれた人物は闇にとざされていながら、ふしぎなことに、変形した、醜悪なふたつの手だけが、光のなかに置かれている。変形はしていても、醜くても、絵を書く手だけが画家に光をもたらすものであることを、カラヴァッジョは痛いほど知っていたに違いない。」
(須賀敦子著『トリエステの坂道』所収「ふるえる手」河出文庫)
宮下氏の著書によると、美術家の森村泰昌氏は、本作品をもとに《自画像の美術史(カラヴァッジョ マタイとは何者か)》を制作しているが、マタイは左端の若者だと思うそうである。ただし、宮下氏の本を読んだ影響で、そのためそれ以外は考えられなくなったせいとのことである。
私的に気になるのは、テーブルにいる五人、誰が徴税人で誰が税を支払いに来た人なのだろう。
この舞台が屋内か屋外かは曖昧ではあるが、キリストたちが右手から来ているのだから、一番左手(一番奥)の者は徴税人ではないか。だからといって髭の男は徴税人ではないということではない。
ところで、宮下氏の新著では、カラヴァッジョの生年月日が1571年9月25日とある。その件についての説明はない。29日、30日、28日説は目にしたことがあるけど、新説であろうか。