東京でカラヴァッジョ 日記

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ムンクとニーチェ/退廃芸術とムンク

2018年11月27日 | 展覧会(西洋美術)
ムンク展-共鳴する魂の叫び 
2018年10月27日~19年1月20日
東京都美術館


1   ニーチェ

《フリードリヒ・ニーチェ》
1906年、201×130cm
オスロ市立ムンク美術館
 
 
   ドイツの哲学者ニーチェ(1844-1900)の肖像画。
   写真をもとに、「ツァラトゥストラの詩人」として描く。
 
   橋の上に立つニーチェ、手すりの角度や背景の色彩など、これは「叫び」「絶望」「不安」のエーケベルグ三部作の舞台に立たせているなあ、と面白く思う。
 
    ムンクにとってニーチェの著作は座右の書となっていたらしい。では、ニーチェの死後に描かれた本作は、オマージュとして自主制作されたとかというと、そうではなく、注文による制作。当時ムンクは肖像画家としても人気を博していた。
 
   注文者は、ニーチェの妹、エリザベート・フェルスター=ニーチェ(1846-1935)とある。そして、ニーチェの肖像画の次の絵に進むと、なんと、ニーチェの妹の肖像画、《エリザベート・フェルスター=ニーチェ》1906年、165×100.5cm、オスロ市立ムンク美術館、も展示されているではないか。
 
   西洋哲学史を飾る哲学者である兄の肖像画のみならず、自分の肖像画もセットで注文するとは、どんな女性なのだろう。
   ネット検索すると、びっくり、ニーチェ業界における超有名人で、尋常ならざる活動力の持ち主であったらしい。その活動力を、彼女の後半生は、尊敬する兄の普及に捧げる。遺稿の編集・出版(一部を歪めたとも)。『エリーザベト・ニーチェ─ニーチェをナチに売り渡した女』書籍邦訳が出版されるほどの活動。私がここでちょいと書けるような人物ではないことが分かる。
 
 
   やはりムンク、ニーチェ兄妹の肖像画の制作も、オスロ市立ムンク美術館所蔵の1組だけではなかった。もう1組が現在ストックホルムにあるようだ。
 
   色彩が違う。注文者に納品されたのはどちらだろうか?
 
《フリードリヒ・ニーチェ》
1906年、201×160cm
ティール・ギャラリー(ストックホルム)
✳︎本展非出品
 
 
 
2   退廃芸術
 
   1933年12月、ゲッベルスがムンクの70歳の誕生日を祝って、次のような祝電を送っている。
   北方=ゲルマンの大地から芽生えたムンクの作品は、私に、生の深い厳粛について語りかけてくる。彼の絵は風景も人間の描写も、深い情熱に満たされている。ムンクは自然を真実の姿で捉えて、アカデミックで形式的なものはすべて容赦なく黙殺しつつ、自然を像に定着せしめるよう努力をつづけている。北方の自然を力強く、独自の形で精神的に受け継いだ彼は、一切の自然主義から解放されて、民族主義的な芸術創造の永遠の基礎に立ち戻る。私はムンクの作品をこのように見、ドイツの芸術家全員の名において、偉大な北方的芸術家にその第七十回の誕生日にあたり、心からの祝福を送るものである
 
 
   1937年7月初旬、前月末付のゲッベルス名の通達により、「退廃芸術作品を展覧の目的で選び出して保全する権利」を与えられて組織された委員会が、美術館からの作品押収を開始する。ベルリン、ドレスデン、フランクフルト・・・。20以上の主要な美術館から合計約5千点の絵画、1万2千点の版画・デッサンが押収される。ミュンヘンの退廃芸術展開催中・後も継続的に押収は続けられる。
   ムンク作品については、ドイツ国内美術館から82点が押収されたとされる。
 
 
   1937年7月19日、ミュンヘンにて退廃芸術展が開催される。
 
   会場は、ミュンヘン大学付属考古学研究所の一建物内、まず2階に上がって横一列に並ぶ7つの部屋、1階に降りての2つの部屋からなっている。
 
   2階の最後の部屋・第7室にムンク作品が展示されたらしい。作品数・名は確認されていない。ノルウェー公使館が異議を申し立てたことにより、早くも開催初日に第7室が閉鎖されたからである。その後、翌日の晩に再開→その翌日に再閉鎖→第二週目以降はジャーナリストと特別の許可を得た者のみが入室、と推移し、それまでにムンク作品は撤去されたようである。
 
   1937年11月30日会期終了。その翌年から1941年まで13都市を巡回する。ムンク作品は含まれない。
 
 
   1938年5月、退廃芸術の産物の没収に関する法律が公布される。これまでの展覧会のために預かっていたという位置付けが、これ以降は収奪の法的根拠が整備されたことになる。
   押収された退廃芸術作品活用のための委員会が設置される。
   ひそかにあちこちに作品が売られるようになる。


   それより前、美術品収集好きのゲーリングは、押収した退廃芸術作品のなかから、代理業者を使って、自分用の作品を確保する。横取りした作品は13点。内訳は、ゴッホ4点、マルク3点、セザンヌとシニャック各1点、そしてムンク4点である。
   ムンクの4点は、「embrace」、「encounter by the sea」、「melancholy」、「snow shovelers」とされる。
 
 
   1939年6月30日、スイス・ルツェルンにて、退廃芸術作品125点のオークションが行われる。
   ムンク作品はその125点には含まれていない。当初の売却候補案には含まれていたが委員会協議で候補から外されたようである。
   外されたけれども、スイスの競売には出さなかったということであって、同年、ノルウェーにて競売を行い、14点の作品を売却している。地元の方が高く売れると見込んだのだろう。
 
 
   1940年4月、ドイツがノルウェーに侵攻する。ノルウェーに親ドイツ政権が立ち上がる。
   ムンクは政権の懐柔に応じず、ナチスによる作品の没収を恐れながら、アトリエに引きこもるように過ごす。
 
 
   1943年12月、80歳の誕生日を祝ったその1週間後、自宅の近くでレジスタンスによる破壊工作があり、自宅の窓ガラスが爆発で吹き飛ばされる。ムンクは凍える夜気に気管支炎を起こす。翌年1月23日に亡くなる。
 
 
   生涯80点を超える自画像を制作したとされるムンク、本作は最後に制作したとされる自画像。
 
《自画像/時計とベッドの間》
1940-43年、149.5×120.5cm
オスロ市立ムンク美術館
 
 
   ムンクの遺言書には、自分が所有する全ての作品をオスロ市に遺贈する旨が記載されていた。国に作品を遺贈し、国が征服されると、自分の作品がナチスに取られてしまうことを恐れたからとも言われている。
 
 
 
2の参照文献:関楠生著『ヒトラーと退廃芸術-「退廃芸術展」と「大ドイツ芸術展」』1992年、河出書房新社


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