ベノッツォ・ゴッツォリ(1420頃〜1497)は、フィレンツェの画家。
フラ・アンジェリコによるサン・マルコ修道院のフレスコ画装飾に助手として参画したとされる。
代表作は、1459-61年制作のフィレンツェのメディチ・リッカルディ宮殿マギ礼拝堂の《東方三博士の礼拝》。国際ゴシック様式の影響を受けた豪華絢爛な場面や、メディチ家やその周辺の人々の肖像を描き込んだことで有名である。
1464年、ゴッツォリはフィレンツェを出発し、トスカーナの「塔の街」サン・ジミニャーノに向かう。
同地のサンタゴスティーノ教会の内陣フレスコ画連作「聖アウグスティヌス伝」を制作するためである。
滞在中に、画家は2点の「聖セバスティアヌス」の追加注文を受ける。
当時、サン・ジミニャーノを襲った疫病(ペスト)対策としての「聖セバスティアヌス画」である。
当時のサン・ジミニャーノにおける疫病の状況。
1462年12月
疫病による死者が発生。それも聖職者。
1462年12月〜63年1月
政府は、疫病対策の一つとして、ピエーヴェ教会に、聖セバスティアヌスの絵画を設置することを決議。
1463年8月
疫病の終息を判断。
1464年6月
周辺都市にて同年3月に再発した疫病がサン・ジミニャーノに到来。死者が出始める。
政府は、ピエーヴェ教会に、聖セバスティアヌスの絵画を設置することを再決議。
1464年7月末
サン・ジミニャーノにおける疫病が終息。
大規模なものではなかったようである。
「疫病から免れることができたことへの感謝(奉納)」画
ゴッツォリ
《聖セバスティアヌス像》
サンタゴスティーノ教会、サン・ジミニャーノ
1464〜66年、527×378cm
「疫病から免れるための祈願」画
ゴッツォリ
《聖セバスティアヌスの殉教》
ピエーヴェ教会(当時)、サン・ジミニャーノ
1464〜65年、525×378cm
後者のピエーヴェ教会の《聖セバスティアヌスの殉教》。
「疫病から免れるための祈願」画。
2度目の疫病流行時の1464年6〜7月に、たまたまサンタゴスティーノ教会の仕事のため当地にいたフィレンツェの大家ゴッツォリに注文されたもの。
1度目の疫病時に決議しつつも疫病が終息したこともあって休止されていたことに対する批判/反省もあったのだろうか。2度目の疫病時には速やかに具体的な行動に移される。
1465年1月に完成。聖セバスティアヌスは、裸体で、体に多数の矢が突き刺っている、一般的な図像となっている。
もう一つのサンタゴスティーノ教会の《聖セバスティアヌス像》。
「疫病から免れることができたことへの感謝(奉納)」画。
2度目の疫病が終息した1464年7月末頃、サンタゴスティーノ信心会がゴッツォリに追加注文したもので1466年頃に完成したとされる。
この図像はなかなか興味深いもの。
上段
激怒中の父なる神。キリストは脇腹の傷口を示し、聖母マリアは何故か両胸を露わにして、とりなそうとするが、父なる神の激怒は収まらず、天使たちとともに疫病の矢を地上に降らせている。
中段
天使たちが「一所懸命」、天から降ってくる矢を砕いている。
下段
聖セバスティアヌスは、通常(裸体&突き刺さる矢)の姿とは異なって、着衣姿である。
そのマントを広げて、老若男女を矢から庇護している。「ミゼルコルディア(慈悲)の聖母」の構図と同じ。
ゴッツォリは1467年までサン・ジミニャーノに滞在し、サンタゴスティーノ教会の連作「聖アウグスティヌス伝」を完成させる。
その後も、1469〜84年、15年の歳月をかけてピサのカンポサントのフレスコ画制作という大事業を完遂させる(1944年の爆撃により破壊・破損)など活躍する。1497年にピストイアにておそらく疫病(ペスト)により70歳代半ばで亡くなっている。