カラヴァッジョ(本名ミケランジェロ・メリージ)は、1571年9月29日、ミラノに生まれる。
父フェルモ・メリージは、ミラノの侯爵フランチェスコ・スフォルツァ・ダ・カラヴァッジョ1世に仕える「マギステル(執事兼建築家)」。
侯爵が領地を持つミラノ近郊の町カラヴァッジョに多少の土地と家を持ち、比較的裕福であった。
フェルモは、最初の妻との間に娘マルガリータをもうけるが、妻に先立たれる。
1571年1月、侯爵立ち会いのもと、同郷のルチア・アラトーリと再婚する。そして9月末近くに生まれたのが、長男ミケランジェロである。
1572年に次男、その後も1男1女に恵まれる。
1576年夏、ミラノにペストが発生し、ロンバルディア中に拡大する。翌1577年になってもペストは猛威をふるい続ける。
1577年夏、メリージ一家は、ペストを逃れるため、ミラノを離れてカラヴァッジョへ避難する。
その甲斐なく、父フェルモはペストに罹患する。そして10月20日に亡くなってしまう。
その日に亡くなったのは、父だけではない。祖父ベルナルディーノ、そして叔父もペストで亡くなった。
長男ミケランジェロは当時6歳。
ペストは1578年まで続き、ミラノの人口の約5分の1(ミラノ市内で約17千人)の命を奪い、ようやく終息する。
このペスト大流行時のミラノ大司教が、カルロ・ボッロメーオである。
カルロは、1538年、イタリア・マッジョーレ湖畔の町アローナで貴族の家系に生まれる。
1559年、叔父がピウス4世として教皇になると、ローマに呼ばれ、21歳で枢機卿に叙される。いわゆる「ニポティズモ」である。
しかし、カルロは教皇のブレインの一人として活躍する。教皇は、1562年に10年以上ぶりにトレント公会議を再開させ、翌1563年に成功裡に終了させているが、カルロはそこで書記官を務めている。
1565年にピウス4世が亡くなると、カルロは教皇庁を去り、大司教に叙されていたミラノに戻る。そして、公会議によって求められた聖職会の改革や、文化事業、貧民への慈善事業、福祉事業など、社会の立て直しに取り組む。
1576〜78年のペスト大流行。
総督や富裕層がミラノを脱出するなか、ミラノ市中にとどまり、患者の救済のために献身的な努力を行う。
看護体制や患者の避難所を整備する。
誰も入りたがらない隔離病院を訪問し、患者を力づける。
深刻な飢餓に対応して、金銀の食器類を売って得た食料を配る。召使いにタペストリーで作らせた衣服も配る。
死者の埋葬に尽力する。
この大流行は神が下した天罰だとして、毎日贖罪の行列を行う。裸足で、首にはロープを巻き、実物大の十字架を運びながら、毎日街を練り歩く。
このような活動により、この時のペストは「聖カルロのペスト」と呼ばれるようになる。
1584年に死去。1610年に列聖。
大黒柱を失ったメリージ家。
前妻の娘を含めて幼い5人の子どもを抱えた母ルチアは、当時27歳。
夫の一族からしかるべき財産分与を主張し、実家からの支援も得て、なんとか子どもたちを養育しようとする。
1584年、ミケランジェロは、ミラノに出て画家になる決心をする。シモーネ・ペテルツァーノと4年間の徒弟契約を結ぶ。この時13歳。
1歳違いの弟ジョヴァンニ・バッティスタは、聖職者の道に進む。
もう一人の弟は、1588年に亡くなる。
1590年10月、母ルチアが亡くなる。
1592年5月、弟ジョヴァンニ・バッティスタ、妹カテリーナと遺産を分配相続する(その時、姉マルガリータはどうしていたのであろうか?)。そしてミケランジェロは、ミラノを出る。
やがてローマにやってくる。
それが、ミラノを出てすぐの1592年のことなのか。それとも、床屋の使用人ピエトロパウロの証言に従い1595年後半〜96年3月頃のことなのか。後者とした場合、ミラノを出てローマに来るまでの間、どこにいて何をしていたのか。
その後波乱万丈の人生を送るカラヴァッジョは、1610年7月、トスカーナ州のポルト・エルコレで亡くなる。38歳。
6〜7歳のとき以降、ペスト大流行に出会うことはなかった。