松方コレクション展
2019年6月11日〜9月23日
国立西洋美術館
1959年にフランス政府から寄贈返還された松方コレクション。
1944年に「敵国人財産」としてフランス政府に接収されるまでは、パリのロダン美術館に保管されていた。
パリの松方コレクションの後見役であったのが、日置釭三郎である。
日置は、経費捻出のため、松方コレクションの一部を売却している。
「松方コレクション展」には、日置が売却した作品のうち3点が出品されている。
マネ
《嵐の海》
1873年、ベルン美術館
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/d8/c4618285774ac0ff038f00972d2222ac.jpg)
モネ
《エトルタの風景》
1884年、ルガーノ市立美術館
マティス
《長椅子に坐る女》
1920-21年、バーゼル美術館
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/d4/08f5535a2f90e1ef2b96d3a56771dcdc.jpg)
日置釭三郎は、1883年、島根県松江市に生まれる。
海軍機関学校を経て海軍士官となる。在仏日本大使館付武官を務めたこともあるようだ。海軍航空隊所属時に、航空機産業の将来性に目をつけた松方に飛行機操縦の腕を見込まれ、1916年1月、嘱託として川崎造船所に迎えられる。
1916年4月、松方の特別秘書として渡欧。フランスのサルムソン社に出向し、飛行機製造の技術の習得に励む。本業のかたわら、松方の美術品収集の手伝いもしていたようである。
その後、フランス女性と結婚。川崎造船所から離れ、そのままパリに住むこととした日置は、松方からコレクションの後見役をゆだねられる。ロダン美術館に保管するコレクションを定期的にチェックする、作品の東京への搬送を手配する、などを担ったようである。
そして第二次大戦が勃発。パリにコレクションを置いておくのは危険と、1940年、パリの西約80キロのところにある小村アボンダンの日置の家に疎開させる。1941年12月、妻を亡くす。1944年8月、パリ解放。12月、フランス政府によりコレクションが接収される。
松方は日置にコレクションの管理を委ねる際に、定期的に管理費を送金することを約束しており、現に実行していた。しかし、戦争が始まって為替管理が厳しくなり、やがて送金が途絶する。
日置は、松方の許可を得たうえで、作品を売却する。1939-44年頃のことである。
日置は、どんな作品を売却したのだろうか。
『松方コレクション 西洋美術全作品 第1巻 絵画』を参照する。もちろん図書館にて。
売却点数は、全20点(絵画のみの数。それ以外にロダンの彫刻もあるようだ)。
作家別にみると。
ブーダン 1点
マネ 1点
モネ 6点
ゴーガン 1点
ボナール 5点
マティス 6点
美術史上のビッグ・ネームばかり。
戦時中に、シャルル・コッテやアマン=ジャンの作品を購入したいと思う者がいるわけはない。確かにこのクラスの画家の作品を用意しないと、経費捻出はできなかっただろう。
意外なのは、ボナールとマティスの名。国立西洋美術館が所蔵する旧松方コレクションにボナールやマティスはない。松方がボナール、マティスに関心がなかったのだろうと考えてしまうが、実はそうではなかったようだ。
確認すると、松方コレクションにあったボナールとマティスは各6点。
そのうちボナール1点は日本に搬送されている。
不思議なのは、他の11点は全て日置により売却され、コレクションには1点も残らなかったこと。何故、ボナールとマティスが徹底して売却されることとなったのだろうか。
日置が売却した作品は、今回の展覧会への出品作3点以外では、現所在が不明の作品が多い。
日置により売却されてから以降の行方が一切分からない。
時々オークションに出てきて現存することだけは確認できる程度。
など。
絵画20点の現所蔵者をみると、
・美術館蔵:4点
・個人蔵:4点
・所在不明:12点
という状況。
マネ《嵐の海》も、今でこそベルン美術館所蔵であるが、長い期間、コルネリウス・グルリットのミュンヘンのアパートにナチス掠奪美術品とともに秘蔵されていたのだから、その間は「所在不明」であったことになる。
「ロダン美術館保管時代に松方コレクションを写したガラス乾板」が昨年発見されたことにより、作品の姿が判明し、それが作品・所蔵者の特定につながった例が出ている。
日置が売却した作品でも、ボナール1点、マティス2点が、海外の美術館が所蔵する作品と特定できたようである。よって、上記の数字も、次のとおり修正される。
・美術館蔵:7点
・個人蔵:4点
・所在不明:9点
さて、その後の日置。
フランス政府による松方コレクションの接収後、1948年から国有財産局から給付金をもらっていたが、1951年のサンフランシスコ講和条約の締結により接収財産がフランス政府の所有に変わると、給付金は打ち切られる。
1953年8月、松方コレクションの返還交渉が始まると、日置は、フランス外務省に対して、給付金支給と松方コレクションに混じる日置個人所有の絵10点の返還を要求する。スーティン、(ユトリロ?、)ボワイエ、藤田の計10点は松方からもらったものだとの主張である(うち、スーティン《ページ・ボーイ》と藤田《自画像》の2点が本展に出品)。この要求への対応は日本政府に任される。1954年9月、コレクションの権利放棄の条件のもとに5年間の給付金(当初要求額の10分の1)支給で合意する。
その3ヶ月後、1954年12月、日置は死去する。享年71歳。大晦日にパリ市内の教会で行われた葬儀の参列者は、1948年に再婚したフランス人の妻、日本大使館員、そして日置の相談相手だった画家藤田嗣治ら4人だったという。給付金は、未亡人に支払われたようである。