カラヴァッジョ
《生誕》
1609年1600年、268×197cm
パレルモ、サン・ロレンツォ礼拝堂旧蔵(1969年10月盗難)
パレルーモの聖ロレンツォ聖堂はスラム街にあった。
なすこともない若者たちが声をかけたり道をふさいだりする。
扉は閉っていて、続き棟のくぐり戸を開くと、肥った老婆がこちらをうかがっている。
「入ってもいいですか。」
「どうぞ、どうぞ。」と彼女は鍵束を持ち出して来た。
鍵をゆっくりとまわすと、彼女はいった。
「絵はないよ。」
「おととし、あの窓から泥棒が入ってね。切っていってしまった。今ごろはアメリカだよきっと!」
祭壇画のあとの汚れた灰色の壁はひどく広く見える。
これは、少くとも、今我々に解っている、カラヴァッジォの生涯の最後の絵だったのだ。
この痛ましい損失を誰に向かって怒ったらよいのか?
「シニョリーナ、もうお帰りかい。」と若者達がはやした。
「カラヴァッジォを見に来たんだから、もうここに用はない。」と私はそれがまるで彼らのせいででもあるかのように烈しくいった。
若者達は黙ってしまった。
若桑みどり「カラヴァッジォを追って」
芸術新潮 1973年11月号
故・若桑みどり氏は、1973年夏、カラヴァッジョ生誕400年を記念し、画家の生地から出発して、生涯に辿った旅程を順にゆき、各地に所在する作品と改めて向き合う旅を敢行した。
当時、カラヴァッジョの生年は1573年と考えられていた。
その旅から今年2023年は50年。
1 画家の生年は、1973年に迎える生誕400年記念に向けて研究を進めるなかで、実は1571年であることが判明した。
2 《生誕》の制作は、これまで一般に、画家が1608年にマルタ島から逃亡し、シチリア島に渡りシラクーサ、メッシーナと放浪し、1609年にパレルモに至ったときに、土地の同心会の依頼でなされた、と考えられていた。
しかし、近年は、1600年にローマで制作し、パレルモに運ばれた、とする説が有力視されているという。
1600年4月5日付けのシエナ出身の商人からの注文で祭壇画を制作する契約の存在は以前から知られていたが、どのような作品だったのかを特定することができなかった。
大きさがほぼ一致すること、商人である紹介者と注文者がパレルモと関係があったこと、当該礼拝堂にてその時期に祭壇画設置のためと思われる作業が行われていたという状況があること、また、決定的なことは言えないにしても作品の構図や様式からも妥当性があると考えられること、などを根拠とし、当該契約は本作品に関するものと考えられるようになったようだ。
(参照:石鍋真澄『カラヴァッジョ ほんとうはどんな画家だったのか』平凡社、2022年8月刊)
2019-20年のカラヴァッジョ展図録の年表は、第1版(札幌会場用)では従来説によっていたが、第3版(大阪会場用)ではローマ時代の制作説に改定されていた。
3 パレルモのサン・ロレンツォ礼拝堂はスラム街にあった、と若桑氏は書いているが、シニョレッリ様(https://lusa-signorelli.blog.jp/)から、「違和感を感じます」「件の祈祷所がある場所がスラム街と言うならば、イタリアの大半がスラム街になってしまうでしょう」とコメントいただいた。
都市開発による環境変化の可能性もあるが、若桑氏はそのような印象を受けたのか、あるいは、話の展開上の脚色なのかもしれない。
4 1969年10月に盗まれた《生誕》、54年経った現在も、いまだ行方不明である。
《生誕》のあった場所には、現在、《生誕》の写真レプリカが置かれているようだ。