今から25年前の出来事
「イチゴを食べ過ぎて赤いおしっこが出た」62歳の男性の訴え
「病院に行かなくちゃ・・・」娘は言った・・・
しかし、男性は相当な病院嫌いで、県立の病院や市立病院があるにも関わらず、小さな病院に行った。
そこでの診断は疲労から来る血尿といわれた。
間も無く、浮腫みが出始め、親戚の紹介で違う病院で検査
ようやく、そこから市立病院へ紹介転院したが、血尿が出てから6ケ月も経っていた。
男性は検査を受けた結果「腎細胞癌」と診断
この当時にしては少ない癌だった!
すぐに手術をしなければということでその年の12月、救急車で県外の病院に搬送され
医師の出身大学である病院でそこの大学病院の医師と主治医が腎臓の摘出手術をした。
150グラムの腎臓が、がん細胞で540グラムになって肝臓の上にもかぶさり肝臓も変色
腎摘出と同時に肝臓の一部も切り落とした。
しばらく大学病院で療養し、元の市立病院に再び戻り、抗がん剤の治療を受けた。
間も無く、退院し自宅療養
それから約2年間、男性は疲れるとは言いつつも元気に仕事をしたり旅行を楽しんだ!
もともとが健康人であったのでもしかしたら、2年の振る舞いは我慢をしていたのかもしれない。
そして・・・再発
肺壁に腎臓細胞癌が転移、
この時点で、当時はまだあまり使われていなかった「インターフェロン」を使用した。
そして、脳に転移・・・脳の腫瘍の摘出手術を受けないと意識障害が出る。
腎細胞癌はあらゆる所に転移し始めた・・・腎臓、肺壁、脳、へと・・憎らしいほど早く転移
本人の意思により前頭に出来たピンポン玉くらいの癌と脳を切り取った。
脳を触ると・・・いろんなせん妄や幻覚に襲われると聞いたがその通りであった!
しかし、時間の経過とともに軽減し、暮れには自宅療養が許された。
この時、家族は丸山ワクチンの入手を考えた・・
医師とも相談し東京まで行って入手をする事にしたが、当時は入手は非常に困難であり無理だとも言われた。
2月、はっきりした意識化で、孫の中学受験合格を喜び、男性が手術をした日に産まれた子どもの将来を喜び
娘に歌を歌ってほしいと言った!
娘はドナウ川の漣を歌った・・・この頃はまだ、キーボードというものがなく、あれば弾いていたのにと。。
毎週にでも持って聴かせて行っていたのに・・・残念でならなかった!
3月、男性は医師に告げた・・今の症状をはっきり家族に伝え、あとどれ位の命なのかを教えてほしいと。
医師は困惑し、家族に相談したが、本人の意思なので伝えてほしいと家族は言った。
この時男性は医師に一言言わせてほしいと・・
家族は何を言うかと固唾を呑んで見守った!
「くるしーーい」っと叫んだ!
これが男性の初めての泣き言であり最後の泣き言であった。
医師はこの治療(インターフェロン)を続けますが、まだわからない・・っと言った!
この時点で化学療法も受けておらず、抗がん剤で髪の毛もなくなったということもなく、
管につながれている男性の姿はなかった。
家族にとっては何よりの救いだったかも・・
それから1週間後、インフルエンザが病院内で流行しはじめ付き添いの妻が罹患してしまい
ついで男性まで罹患してしまった。
3日後、肺炎を起こした男性は徐々に命の灯が細くなっていった。
3月19日、早朝、65歳の命で天に昇っていった。
男性は「解剖をして究明をしてほしい」と遺言を残していた。
医師は驚いて遠慮をしたが本人の意志であるので今後の研究に少しでも役立ってほしい旨を伝え
身体の中を見てもらった。
インターフェロンにより「肺壁」に出来た腎細胞癌は黒く死んでいた。
もう一方の残された腎臓が癌に冒されていた。
解剖が終わり医師から
「本当に強い患者さんでありました。医師として懸命に治療させていただき、頭の下がる思いがしました。感謝を申し上げます」
っと言葉をいただいた。
今も、癌という病は壮絶な闘いを強いられる、
穏やかに・・・緩やかに・・・そんなわけにはいかない病である。
癌に限らず病とはそのようなものだが、日進月歩、医学は進んでいる。
代替医療も「補完医療」、「相補医療」とも言われており、様々なシステムが用意されている。
音楽、芸術、精神、手技、マッサージ、サプリなどがあるが、これらを上手く取り入れ
病と向き合うことも大事だと思う私であります。
男性は私の父であります。
私が音楽療法を志したのはこういう父の姿をみて、歌ってほしい、弾いてほしいな~の言葉が
いまだに胸の中にあるからである。
もっと早く大きな病院に連れて行っていれば・・これも悔いとして残っている。
そんな父は悔いる娘は嫌いだというだろう~悔いるくらいなら前向きに人様のために何か役に立て!
絶対思っているに違いない!
ますます、勉強して少しでもやんでいる方のお力になれば・・・
お盆を前に決意を新たに頑張ってみます!
辛い闘病生活を命の限り懸命に戦いぬいて、それでも志半ばにして亡くなった方の無念な気持ちを思うと、残された者はどんなに辛くても悲しくても、日々生きている事に感謝して精一杯生きていかないといけないですね。
亡くなった方々は、残された者がいつまでも悲しんだり、落ち込んだりしている事を望んではいないのですから。
先生が音楽療法の時に、とても輝いて見えるのが分かったような気がします。
まだ時間がかかりそうですがなんとか這い上がって、少しでも誰かの役に立てるような人生を送れる日が来るように頑張らないと!
寄り添い、少しでも穏やかになっていただきたい。。
私も亡くなった父の年になりつつあります。
もし、元気だったら・・・父の書き残したノートを見るたびに、父の想いを精一杯感じることで父に対する私の「たられば思い」捨てなければならないと思っていますが・・
残された家族は、悲しみ、落ち込み・・当たり前です。
しかし、
時は止まらずに流れてゆきます!
時を止めないで、明日を迎えましょう。
小星星さま~少しずつ、時間をかけて、上がって来て下さい~待っております。
コメントを下さった時間・・・夜中の3時ですね~
今後、自分もどうなる事かわかりません~
決して見返りを求めず、誠心誠意、音楽とともに歩み
人様と接してゆけたらと思っております。