軽井沢ル・ボン・ヴィボン

25年経って

前回の投稿でお店の再定義の話を書きました。
自分はどこからやってきて、どこに向かっているのか

実は、とある取材があったんです。
その中で自分の経歴を話す必要があり
(これまであまり経歴について語った事がなかったので)
さて自分の経歴ってなんだろう?と考えてしまいました。

なにせ、25年も自分のお店をやっているので
経歴と言っても、どこで修行してとか、どこの国に移住してとか
料理人あるあるの
一般的な話にはならないので、何を話せば良いのやら。

で、振り返ってみたんです。そこまでが前回の投稿。

この職業に就く事を決め、調理師専門学校に通っていた頃
インターンとして
五反田にあったウイーン料理のお店でアルバイトをしていました。
そこにはオーストリアからやってきたシェフとスーシェフがいて
調理場では唯一日本人の僕がコミ(調理補助)
ドイツ語を話す彼らとのコミュニケーションは英語でした。
でも案外コミュニケーションには問題がなく、仕事はスムーズに進んでいました。
彼らからの信頼もしっかりと感じられ、やり甲斐のある職場でしたが
僕の在学中に彼らは故郷のオーストリアに帰ってしまい
オーストリアから「君の就労VISAを用意出来るのでウイーンに働きにおいで」
「一緒にやろう」という旨の手紙をいただきました。

当事19歳、迷いました。
その時すでに吉祥寺のLe Bon Vivant への就職を決めていたので
迷惑をかけたくなく
本音では自信もなかったので、行かなかったのですが
就職してから当時のLe Bon Vivant のシェフ(イタリア修行帰り)に
現地で就労VISAを取るのが一番難しいという話を聞き
勿体ないチャンスを逃した事に気が付きました。

吉祥寺では7年半、夢中で働きました。
現代から考えれば長時間の労働ですが
そのビストロスタイルは流行の最先端で
各界の著名人が集う場でもあり
とても充実していて、自由にやらせていただき、感謝しかない環境でした。

両親が東京から軽井沢へ移住した事がきっかけで吉祥寺を辞め
僕も軽井沢にやってきました。
引っ越す前日まで大好きな吉祥寺で働いていました。
移住してペンションを開業した両親の手伝いや
近隣のホテルの仕事などをしていました。

ホテルの仕事は正社員で、肩書は料理長でしたが
業務の縮小が伝えられ、雇用が非正規になる事が確実になった日。
北軽井沢のとある物件に空きが出ました。
それはこの地でやるなら・・と狙っていた物件で
その日に「ここで店をやりたいです」と大家さんに直談判しました。

・東京に帰って修行の続き
・フランスに渡って経験を積む
冷静に考えればそういう選択肢もあったにも関わらず、勢いで独立を決めました。
自分の処遇が軽くて、悔しかったんだと思います。

そこからわずか3ヶ月で資金繰りとテナント物件の大改装を済ませて
お店を開業させました。
新たな借金は1200万円。自宅のローンや改築費も返済中だったから
まさに男の意地。

とにかくお金がなくて、収入が途切れる事を恐れていたので
開業までの間もアルバイトを3つ掛け持ちして、必死に稼いでいました。

開業は1999年8月のできごと。
それ以来ずっと今日までLe Bon Vivant 一筋です。


と、ここまでが僕の開業までの略歴です。





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