隠れ家-かけらの世界-

今日感じたこと、出会った人のこと、好きなこと、忘れたくないこと…。気ままに残していけたらいい。

「どうぞ、座ってください」

2006年03月31日 23時42分34秒 | 手紙

 
 突然、肩をたたかれてびっくりしました。私のこと、覚えていますか。
 
先月の半ばごろだったかな。私は電車のドアにもたれて、iPodでユニコーンの昔のアルバムを聴いていました。イヤホーンをはずして振り返ったら、キミが笑顔で立っていたのね。
「お姉さん、どうぞ座ってください」 キミはそう言って、すぐ近くの座席を指さした。それまでたぶんキミが座っていたところだと思います。そんなに混んでいるわけでもないし、ところどころ席はあいているし、それに私はまだ席を譲ってもらうような年齢ではないし。私はきっと怪訝そうな顔をしたでしょう。そして、こう言ったのね。「ありがとう。でも大丈夫ですから」
 
だけど、キミは笑顔のままで、「どうぞ、座ってください」と繰り返した。そのときの口調で、キミが知的障害のある人だということがわかりました。知的障害とか精神遅滞とか、ごめんなさいね。キミには意味のないことかもしれません。体格はとても立派で、でも表情がとても幼くて、キミは実際には何歳くらいの人なのでしょう。ひょっとすると、私と同じくらいかもしれませんね。そうだったら「キミ」という言い方は失礼かもしれないけど、でもなんとなく弟くらいの年齢かな、と感じたので、「キミ」と呼ばせていただきます。
 
私は迷ったけれど、キミの好意に甘えて座らせてもらいました。キミは私の前に立って、「お姉さんはどこに行くの?」そんなことを大きな声で尋ねました。
「仕事で武蔵境まで行くところよ」そう答えると、キミは、
「ボクは三鷹です」と言ったあと、定期入れを見せてくれましたね。新しい皮の定期入れで、キミはちょっと誇らしげでした。
「ステキな定期入れね」そう言った私の言葉には反応はなく、
「仕事はなんですか」と聞いてきたの。私のうまいとはいえない説明をキミはあまり聞いていなかったね。そして、
「ボクは作業所に行きます」と、やっぱり誇らしげに言ったの。
 そこで何をするのか、という私の問いかけに、
「ボクは箱を作っています」
そう答えてくれました。キミの説明をまとめると、お菓子を入れる紙の箱を作っているようでした。間違っていないかな。そして、午後3時にはまた電車に乗って帰るのだと教えてくれましたね。朝何時の電車に乗って、帰りは何時の電車に乗る…、きっとキミは何度も教えられ、ひょっとしたら最初の頃は誰かに付き添ってもらい、そしてようやくこうやって一人で通えるようになったのでしょうね。一人で通うようになって、まだそんなに日がたっていないのかもしれない、そんな気がしました。だって、キミの目がなんだか眩しいくらいにキラキラしていたから。きっとキミの目に映っている光景は、私やそのとき電車の中にいた疲れた大人たちには見えないような、そんな光を帯びているにちがいないと思いました。
 
電車が三鷹に着くと、あなたはこう言ったのね、「荷物、重たいですか」
 
そのときわかりました。キミは私が大きな紙袋を抱えていたから、だから席を譲ってくれたのですね。その紙袋はたしかに大きかったけれど、中には何枚かの大きな写真が入っているだけで、実はとても軽かったのよ。だけど、
「そうなの、とても重たいから、席を譲っていただいて助かりました」
そう言ったら、キミはまたまた得意げにほほえんで、そして、
「お姉さんは降りないの?」そう尋ねてくれました。次の駅で降りると説明すると、
「じゃ、まだ座っててください」そう言って、キミは降りていきました。
 ホームを歩くキミの姿をしばらく目で追っていたけれど、キミはもう私のことなど忘れたかのように、まっすぐに階段のほうへ歩いていきました。改札を出て、そして作業所まで歩くこと、作業所までの道順、そして今日これからの仕事のこと…、そういうことで頭の中はいっぱいになっていたんでしょうね。背中が少し緊張して見えました。
 
発車した電車の中で、私はしばらく考えていました。きっとおうちの方か、あるいは作業所の方が、大きな荷物をもっている人を見かけたら席を譲ってあげなさい、そう教えてくれたのでしょう。キミはそれを守って、わざわざ立ち上がって私の肩をたたいてくれたのね。
 
あのとき、私はとても沈んでいたのです。仕事をお願いした気難しいカメラマンにやり直しを頼みにいく途中で、じつはユニコーンの歌なんて聴いている気分ではなかったのです。だけど、キミがはつらつと仕事のことを語り、全身で緊張して歩いていくのを見て、仕事をし始めたときの自分をちょっと思い出すことができました。当たって砕けろ!じゃないの?ってね。仕事はうまくいきました。ありがとう。
 
あれからキミには会えずにいるけど、でもたまに想像しています。きっと今でも毎日、大きな荷物を抱えている人を探して、そして、そういう人を見つけたら、その人の肩をたたいて、「どうぞ座ってください」そう言っているんでしょうね。怪訝そうな表情をする人も多いだろうけど、「ありがとう」と言って座ってくれたらいいなと思っています。イヤなことがあっても、めげずに「どうぞ座ってください」を続けてくださいね。それはとてもいいことです。そして大事なことです。
 
あれが新宿発何時何分の電車か、もう忘れてしまったけれど、またもし出会えたら、席を譲ってください。私はたいてい大きな荷物を抱えていますから。そしてまた話してください。仕事のこと、毎日のこと。あのときキミが身振り手振りで紙の箱の作り方を話してくれたこと、私は忘れずにいますから。きっと今ではもっとじょうずになっているんだろうな。
 
今は桜がきれいですね。キミの車窓からもピンクの桜が見えていますか。桜や新緑や、夏の眩しい太陽や,そして色づいた木々や…、そういう季節の移り変わりがあって、キミの毎日が少しずつたしかなものになっていけばいいと、心から願っています。お元気で!


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