●簡単な経緯
向井亜紀さん,高田延彦さん夫妻の代理出産による子どもの籍の問題についての裁判の話題がメディアで大きく取り上げられている。当時出産の際にも大きな話題となったが、あの時の双子の赤ちゃんがすでに2歳となっている事実に不思議な感慨を覚える。
子どもたちの出生届を提出した彼らに対して、日本では法律的に代理出産を認めないため(だからアメリカでの代理出産を決意したわけだけれど)、卵子を提供しただけで出産はしていない向井さんを法律的に「母親」と認めない品川区役所は出生届の受理を拒んだ。高裁は受理する方向で役所に対して指導する判決を出したが、役所はそれを不服として、最高裁での審判を仰ぐべく許可抗告(「民事訴訟において、高等裁判所の決定・命令につき、高等裁判所は許可したときに認められる最高裁判所に対する抗告」『広辞苑』より。ちなみに「抗告」は「下級裁判所の決定・命令に対して、当事者または第三者が上級裁判所に起こす不服申立て」『広辞苑』より)を高裁に申し立てたという。
●終始冷静な夫妻
10月10日、役所の高裁への許可抗告の申し立てを受けて、二人が記者会見をした。一部夜のニュースを見、あとは新聞を読んだだけだが、今までの態度・表情となんら変わることのない冷静な、気負いのないようすがうかがわれた。
役所の不服申し立ては十分予測していたこと、むしろ代理出産をオープンにしたことで日本の司法がどのような判断を示してくれるのかを知りたかったこと、生殖補助医療(こういう言い方があるんだなあ)が進歩していく中で、親子とは母性とはなにかを考えてほしいということ…、そういう彼らの姿勢を冷静に理路整然と、そして自分たちの言葉で堂々と説明している姿は爽快だった。
向井さんが「母親がダメなら、『母』を取って『親』ではダメですか」と役所の人に尋ねたというところでは、父親とか母親とか、そんな枠組みではない、もっと深い意味での子どもへの思いが伝わったし、「なにがなんでも母親として認めてほしいとは言わない。ただ子どもが成長したときにきちんと説明できる議論をしてほしい」という高田さんの発言にも、最近ではあまり目にしなくなった(?)大人の対応が感じられた。
生命の問題は理屈や感情だけで論じるにはあまりに重い。それをここで論じるのは、私にはちょっと重たいし。ただ、議論を重ねることとは別に、現実に親の遺伝子を確かに受け継いでこの世に生を受け、日々成長している、という子どもたちの現実を思うと、ふだんは「籍なんてどうでもいいじゃん」と思っている私でさえ、彼ら親の要求が受け入れられても別に問題ないんじゃないかな、と思ったりする。 どう思います?
●子どものいる人生、子どものいない人生
向井さん・高田さんの裁判とは別に、今回のことでいろいろ感じたことは事実だ。
第一に、さまざまな原因で現実に子どもをもてない多くの夫婦にとって、代理出産は遠い現実だということ。もちろん普通の妊娠~出産という過程を踏まないことに違和感をもつ人もいるだろう。そういう倫理観やら価値観やら、というややこしい問題はさておいて、問題は費用がかかるということだ。正確な資料が今見あたらないが一千万円の単位だったことはたしか。これは妊娠・出産を望む若い夫婦にとっては論外の費用だし、難病などとは異なって、基金を立ち上げるのは難しいだろう。そうなると、やはり選ばれた人たちに対する救済策ということになるのは否めない。もし本当に「生殖補助医療」なるものが発達していて、それがいろいろな問題を議論したあげくに「ふむふむ、なかなかいいことじゃないの」という結論に達したなら、選ばれた人たちだけが通過できる道であっていいわけはないだろう。
でも、今回のことで私がいちばん強く感じたのは、こういうことではない。「結婚~出産」という当たり前の道筋が実は当たり前ではないということだ。そんなことはもう百も承知の世の中だろうけど。
子どもを強く望んで、勇気をもって果敢に苦難に挑んだ向井・高田夫妻の闘いを認めたうえで、そうではなく、地味だけど、やはり気負いもなく、違う方法で道を切り開いているであろう夫婦もちゃんと存在するということ。こういう報道の中で、あるいは解決を見たあとでもいいから、メディアはきちんと提示してほしい。
自然の流れで妊娠・出産が不可能なら、養子を迎えて幸せになろうと決心する夫婦もいるだろう。また、それなら子どものいない人生を選んで、実りある人生を歩もうと話し合う夫婦もいるだろう。
すべてとは言わないが、子どもをもってはじめて一人前、という風潮がこの世の中には案外ある。もちろん子どもを育てて人間として成長する部分もあるだろう。でも、そうでない輩だって、結構いるでしょ?
子どものいる人生、子どものいない人生。どちらか一方しか経験できないわけだし、どっちがいいかなんて、論じること自体がおかしいのかもしれない。子どもはかわいいです。でもすべてではない。そんなこと、子育てをしていればわかるはずだし、いろんな生き方を大人の知性と深さで想像して生きていけたらいいなと、私は思うのです。
あ~あ、また論点がずれてずれて(笑)、こんな結論になってしまった。相変わらず、起承転結の文章が書けないヤツだなあ、と反省。
向井亜紀さん,高田延彦さん夫妻の代理出産による子どもの籍の問題についての裁判の話題がメディアで大きく取り上げられている。当時出産の際にも大きな話題となったが、あの時の双子の赤ちゃんがすでに2歳となっている事実に不思議な感慨を覚える。
子どもたちの出生届を提出した彼らに対して、日本では法律的に代理出産を認めないため(だからアメリカでの代理出産を決意したわけだけれど)、卵子を提供しただけで出産はしていない向井さんを法律的に「母親」と認めない品川区役所は出生届の受理を拒んだ。高裁は受理する方向で役所に対して指導する判決を出したが、役所はそれを不服として、最高裁での審判を仰ぐべく許可抗告(「民事訴訟において、高等裁判所の決定・命令につき、高等裁判所は許可したときに認められる最高裁判所に対する抗告」『広辞苑』より。ちなみに「抗告」は「下級裁判所の決定・命令に対して、当事者または第三者が上級裁判所に起こす不服申立て」『広辞苑』より)を高裁に申し立てたという。
●終始冷静な夫妻
10月10日、役所の高裁への許可抗告の申し立てを受けて、二人が記者会見をした。一部夜のニュースを見、あとは新聞を読んだだけだが、今までの態度・表情となんら変わることのない冷静な、気負いのないようすがうかがわれた。
役所の不服申し立ては十分予測していたこと、むしろ代理出産をオープンにしたことで日本の司法がどのような判断を示してくれるのかを知りたかったこと、生殖補助医療(こういう言い方があるんだなあ)が進歩していく中で、親子とは母性とはなにかを考えてほしいということ…、そういう彼らの姿勢を冷静に理路整然と、そして自分たちの言葉で堂々と説明している姿は爽快だった。
向井さんが「母親がダメなら、『母』を取って『親』ではダメですか」と役所の人に尋ねたというところでは、父親とか母親とか、そんな枠組みではない、もっと深い意味での子どもへの思いが伝わったし、「なにがなんでも母親として認めてほしいとは言わない。ただ子どもが成長したときにきちんと説明できる議論をしてほしい」という高田さんの発言にも、最近ではあまり目にしなくなった(?)大人の対応が感じられた。
生命の問題は理屈や感情だけで論じるにはあまりに重い。それをここで論じるのは、私にはちょっと重たいし。ただ、議論を重ねることとは別に、現実に親の遺伝子を確かに受け継いでこの世に生を受け、日々成長している、という子どもたちの現実を思うと、ふだんは「籍なんてどうでもいいじゃん」と思っている私でさえ、彼ら親の要求が受け入れられても別に問題ないんじゃないかな、と思ったりする。 どう思います?
●子どものいる人生、子どものいない人生
向井さん・高田さんの裁判とは別に、今回のことでいろいろ感じたことは事実だ。
第一に、さまざまな原因で現実に子どもをもてない多くの夫婦にとって、代理出産は遠い現実だということ。もちろん普通の妊娠~出産という過程を踏まないことに違和感をもつ人もいるだろう。そういう倫理観やら価値観やら、というややこしい問題はさておいて、問題は費用がかかるということだ。正確な資料が今見あたらないが一千万円の単位だったことはたしか。これは妊娠・出産を望む若い夫婦にとっては論外の費用だし、難病などとは異なって、基金を立ち上げるのは難しいだろう。そうなると、やはり選ばれた人たちに対する救済策ということになるのは否めない。もし本当に「生殖補助医療」なるものが発達していて、それがいろいろな問題を議論したあげくに「ふむふむ、なかなかいいことじゃないの」という結論に達したなら、選ばれた人たちだけが通過できる道であっていいわけはないだろう。
でも、今回のことで私がいちばん強く感じたのは、こういうことではない。「結婚~出産」という当たり前の道筋が実は当たり前ではないということだ。そんなことはもう百も承知の世の中だろうけど。
子どもを強く望んで、勇気をもって果敢に苦難に挑んだ向井・高田夫妻の闘いを認めたうえで、そうではなく、地味だけど、やはり気負いもなく、違う方法で道を切り開いているであろう夫婦もちゃんと存在するということ。こういう報道の中で、あるいは解決を見たあとでもいいから、メディアはきちんと提示してほしい。
自然の流れで妊娠・出産が不可能なら、養子を迎えて幸せになろうと決心する夫婦もいるだろう。また、それなら子どものいない人生を選んで、実りある人生を歩もうと話し合う夫婦もいるだろう。
すべてとは言わないが、子どもをもってはじめて一人前、という風潮がこの世の中には案外ある。もちろん子どもを育てて人間として成長する部分もあるだろう。でも、そうでない輩だって、結構いるでしょ?
子どものいる人生、子どものいない人生。どちらか一方しか経験できないわけだし、どっちがいいかなんて、論じること自体がおかしいのかもしれない。子どもはかわいいです。でもすべてではない。そんなこと、子育てをしていればわかるはずだし、いろんな生き方を大人の知性と深さで想像して生きていけたらいいなと、私は思うのです。
あ~あ、また論点がずれてずれて(笑)、こんな結論になってしまった。相変わらず、起承転結の文章が書けないヤツだなあ、と反省。