隠れ家-かけらの世界-

今日感じたこと、出会った人のこと、好きなこと、忘れたくないこと…。気ままに残していけたらいい。

キャラが立ってた登場人物~阿佐ヶ谷スパイダース「イヌの日」より

2006年11月20日 17時55分32秒 | ライブリポート(演劇など)
阿佐ヶ谷スパイダース「イヌの日」
(11月17日 19時開演 本多劇場)

 2000年初演の本作。阿佐ヶ谷スパイダースの転機となった作品らしい。
 残念ながら「悪魔の唄」からファンである私には、どの部分が、どの要素が転機なのかは知る由もないけど。
 それにしても、客席の年齢層はいつもながら20~30代。こまつ座の公演を新国立劇場の中二階から観たことがあったけど、舞台より何より客席の高齢現象に驚いたことがあったっけ。あれは「夢の三部作」のラスト「夢のかさぶた」(よかったらコチラを)のとき? やっぱりテーマ(戦争責任?)が関係していたんだろうか。
 それに比べたら、今回は若い、若い。阿佐ヶ谷スパイダース・LOVEという感じの演劇青年っぽい人や大学で演劇サークルやってて、そりゃもちろん長塚圭史路線は憧れだろうなと思わせる大学生もいそう。気持ちはすっごくわかるよ。

▼ストーリーテラーなの?
 阿佐ヶ谷スパイダースだけでなく、「LAST SHOW」や「アジアの女」でも感じたけれど、日常と虚構の世界を行ったり来たりしようと、観客をうろたえさせるグロな演出をしようと、長塚圭史の作品には、ちゃんと物語があるっていうこと、というよりむしろ「物語ありき」ですべてが始まっているの? そういう思いにちょっと自分で驚いたりする。
 そうしたら、どこかのサイト?に書いてあった、「長塚はストーリー性を大事にし…」って。ああ、こういうのは読まないほうがいい。知らないほうがいろいろ勝手に考えたり書いたりできるし。知ってしまうと、な~んだ、そうなんだ、そういう姿勢でやってるなら、私がそう感じて当たり前じゃん、ってなっちゃうし。ま、いいけど。
 舞台は縦に2つに分かれ、下部は昔の防空壕で、17年間前に監禁されたままそこで生きる20代後半?の男女4人が住む。上部は左に母親の寝室、右にその家のリビングルーム?があり、暗転から明るくなると、その母親の部屋では母親と息子(中津)の友人の刑事がセックスの真っ最中。静寂の客席に狂乱のあえぎ声だけが響く、というんだから、もう最初から観客の心をつかんじゃっているでしょ。
 「なんだ、こりゃ!」と思わせる状況をいくつも設定し、日常らしい光景を見せて私たちをだましながらも、いつの間にか日常を逸脱して戻ってくる場所をなくす…、そんな怖さをいつも感じて席を立つのだが、これは今回も変わらなかったかな。
 それでも、歪んだ親子関係、母親への嫌悪から大人の女性と実は向き合えないらしい息子のはずれた軌道、監禁生活17年の末(食料は息子が運び、外は大気汚染でひどいことになっている、と教え込まれている)無邪気な子どものような、妙に達観した大人のような、そんな四人の日常がからまって、ちゃんとストーリーを客席に発信しているところが、長塚作品なのかな、と。

▼全員キャラがたっていること
 登場人物11人ということで、多いような少ないような微妙な人数だけれど、一人としてお人形さんがいないことが心地よい。
 うまく言えないけれど、今風の表現?でいえば「キャラがたっている」というか。それぞれがヘンにステレオタイプ化されることなく、ちゃんと生きている、ということか。役者の力ということももちろんあるだろうけど、やっぱり本と演出のたまものという気がするのだが、どうだろうか。
 子どもを育てるために売春までやったという母親(美保純。彼女の魅力発揮という感じで、けだるくてセクシー)と、定職につかずに母親とともに住み、突然キレまくる情緒不安定息子(伊達滋。母への複雑な思いをひきずりつつ破天荒なアダルトチルドレンを演じて秀逸)、この関係が軸になっているとおもうのだが、ねじれた愛情を抱えたまま過ごしてきてしまった時間がちょっとせつないような。そういう思いを導入の何十分かで私たちに抱かせるに十分ば人物描写。
 売春という手段で生計をたてた母親の苦悩も、また女としての部分も知る由もない息子は、幼い頃から母親への嫌悪だけ募らせ、好きな女の子が母親のような女に成長することへの無意識の?恐怖から、その女の子と友達の監禁を思いついたのだろう。
 監禁された四人も、「世間と遮断された世界で17年を生きた20代の男女」からふつうに想像される悲惨さやアンバランスさや異常性は微妙に中和されていて、たまにテンションの高いヘンな大人のような、純粋でいてどこか計算高いような、子どもの残酷さもふつうにもちあわせているような、そんな四人で描かれている。だから「監禁生活17年」の異常性がすでに希薄で、そこでもう現実が少し遠ざかっていく。そこは想像を私たちは試されているような気もするけど。
 性の意味も知識もないままに、外のからの侵入者たちの相手をする菊沢(中津が好きだった女の子)のマリアを思わせる清純さと、ひょっとして、と思わせる隠微な両面も、なるほどと納得させられる。
 外の世界では、異常な気配りで周囲から浮いているような宮本(八嶋智人。怪優だ! すごいよ。監禁された男二人とのからみでは、考えられないハイテンションで大爆笑させられた)。最後たった一人、狂った精神のまま発見されたのは彼だったのだろうと思えば、どこにも生きる場も死ぬ場もなかった人物なのかもしれない。そのあたりもちゃんと想像させてくれる。
 人物がきちんと生きている、という点で、それだけで私にはOKといえる作品なのだ。

▼印象に残ったこと
 ●初演を観た友人によれば、初演には中津の母親は登場しなかったらしい。今回は、母親の存在が息子に監禁という行動に走らせたということになっているのだが、初演ではどうだったのだろう。それはちょっと興味がある。
 ●そしてラスト近く。中山祐一朗扮する「タカちゃん」が夏に暑い日に聴こえる音は何か、と問いかけ、柴という女の子が「風鈴?」「扇風機?」と尋ねてみんな却下されるのだが、最後に「あー、わかったかも~」と含み笑いで言う場面がある。ああ、それってなんなのだろう。知りたい…。
 ●そして、地上に出ようと提案してくれるヒロちゃん(内田滋。中津の友人で、四人の世話を頼まれるまま、四人に翻弄される。この作品の地上の人物の中で唯一好感がもてます。笑)を断って四人は宮本とともに防空壕の中にそのままいることを選ぶ。外に出たら入り口をふさぐという約束をさせられて出て行くヒロちゃんを見送って、無邪気に、でも不安を必死で振りほどきながら?、懸命のテンションで盛り上がる五人の心情がいろいろに想像できて、胸に迫る。
 ●防空壕はその後掘り起こされ、宮本(たぶん)だけが発見されて、あとの四人はみつからなかったという。その防空壕に、中津とヒロちゃんが女の子をつれてきて案内するのが正真正銘のラスト(初演では、防空壕をお金をとって見世物にしていたらしい)。
 当然女の子をナンパついでにこんなところに連れてきた中津は、今では母親へのトラウマもなくなって(?)大人の女性を相手にできるようになったのか、相変わらず救いようのないキャラだ。あの体験は彼に何も残さず、ただ罪を免れただけだったのか。ヒロちゃんは終始脅えた表情でイヤイヤついてきた感じだ。
 そのうち二人に、無邪気に笑い騒ぐ楽しそうな四人の声が聴こえてきて、二人は叫び声を上げるのだが、それはどういう叫び声だったのだろう。期間の長さの違いはあってもつながりをもった四人への憐憫? 罪の意識? 恐怖?
 いろいろに想像できる叫び声だったように思える。

 もっといろいろ記しておきたいことはあるけれど、とにかくいつもながら会話が突っ走っていて、とんがっていて、本当に「あっという間の」3時間近く。長さをいっときも感じさせないスピード感だった。
 テーマは?とまとめるのはちょっとつらくて、それは私の受け止め方の浅さなのか、それともそんなことはどうでもいいのか、よくわからないが、とにかく登場人物がみんな光っていたことがいちばん言いたかったこと。
 異常な状況をテーマにしていたけれど、たぶんそれは長塚にとっては大したことではなかったのかも。人は誰でも、死ぬほどいやなもの(人)、好きだけど人には見せたくないもの(人)があって、心という防空壕に監禁したまま忘れているってことがあるだろう。そんなとこかもしれない。

 理屈じゃなく(っていうのは卑怯な言い方ですが)おもしろかった。
 で、あえてわがままを言わせていただけるのなら、「働く男」を観たい! 「悪魔の唄」をもう一度観たい!
 阿佐ヶ谷スパイダース様、ぜひお願いします。

追記:前も書いたのですが、後ろのほうの席から見ると、長塚圭史さん、「痩せた時任三郎」(笑)に見えるんだな、私には。そういう人、いないかなあ。

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