図書館・語り・紙芝居・集団相手の絵本よみ・ボランティアなどについて書きます。
絵解きボランティア
絵本講師に評価の目を
野球に例えて説明します。
ボランティアは、誰も来ない部屋でひたすら素振りの練習をしている。素振りの理論や、よいバットの選び方、バットの良い並べ方を、監督から長時間かけて習った。監督はすばらしい肩書きだし、厳しく優しく声かけしてくれたから、みんな監督が大好き。監督は普段いないけど、迷ったらすぐ監督に聞く。自分たちは練習してるし、知識もあり、高価な授業料を払ってきたのだから、他の人より偉いのだ。だから、ちゃちなバットを使うのはいやだ。
外の明るい公園では、家族連れが楽しくキャッチボールをしている。上手でもなんでもなくおもちゃのバットだけど、楽しいからやっている。キャッチボールの相手は、自分が失敗しても球拾いに行ってくれるし、一緒に汗を流してくれる。相手は自分のためにやってくれているんだと、肌で感じる。やがて、その中から野球を続ける子どもも出てくる。
監督は、ひたすら自分の理論をつきつめていく。机の上にはいろんなデーターや文献。このバットを上手く使う選手を育てるのが目的だ。バットがすばらしいのだから、広まらないのは使う選手が悪いのだ。だめな選手はクビにして、また講座をやって部屋の中で自分の監督下における選手を増やしておこう。指導して自分の思い通りに育てるのは、楽しい。この部屋は権威があるのだから、ここでさせてやると言えば希望者はたくさん集まるだろう。自分は一段高いところにいたいから、選手と一緒にやるのはいやだ。自分の失敗した姿を見せる訳にいかない。
このバットが広まれば、世の中が良くなるだろう。この部屋の棚にすばらしいバットだけ揃えておけば、博物館のように棚を見せることで世の中へのサービスになる。
部屋の中の選手たちは息苦しさに、お互いを攻撃し始めた。お前の振り方が悪い。そんな見ず知らずのメーカーのバットを持ってくるから、部屋に人が来ないのだ。
これは由緒正しいバットだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
★ 各種ある絵本の読み聞かせ講習。その中で、講演として、何回も人を集めて聞かせるものがあります。大抵、講演というのは、講師が回数や内容を指定してプランをたてるものですから、その講師の意向でそうなっているのでしょう。
私たち利用者は、そのプランに対しても、まず評価する目を持ちたいと思います。
講師が、受け手である私たちに何の配慮も無くプランをするならば、まずそんな講師は失格です。
聞き手あってのおはなしのじかんであり、利用者あっての図書館だからです。
いくら立派な理論であっても、伝わらなくては何にもなりません。伝えたいと思うならば、伝える側もそれなりに工夫するのが当たり前です。
★ 講師には、先見性も求められます。現在の状況を把握して、研究し、進路を考える手助けをする。しかし、自分では現場に行かない人がほとんどです。学校図書館とか、家庭文庫とか、1人で自由に出来る場所とか、上の組織の研修を受けただけとか、そういった経験しかない。しかも、それは調査せずに進路を決めることであり今の現場には何の意味もなさない、ということさえ気づかずにいる。
★ ほとんど聞き手が来ないとボランティアが苦しんでいる最中に、「自分たちが読み手になっておはなし会をすればいい」というプランもあったのを知っています。自分たちとは、それらの講師たちでした。
「自分たちが選書してプログラムを作れば、単発の事業でも人が来る」と思い込んでいる。月例で現場で苦労しながらやっているボランティアのことなど、ほとんど頭にないのです。自分でかつて教育したというのに、共に苦労しようという気持ちが無い。誰一人、どうして図書館のおはなし会に人が来ないのか、自分を壊して考える人がいなかった。
・・・「おはなし会に人が来ないのは、広報が悪いのではない、ボランティアが悪いのではない、講師が悪いのだ」とはっきりそのとき分かりましたし、口にして図書館関係者に説明しました。私などは、他から見れば「モンスターボランティア」なのかもしれませんが。
依存型ボランティアは「センセイの発表会だわ」と喜び、「センセイの選んだ本はすばらしい、読み方もすばらしいわ」と、そこで完結する。
ところが、センセイ方の考えることは「ボランティアや市民生活が劣っているから、自分たちを見習え」ということです。
このことにボランティアは気づいて、怒って欲しい。
★ 何回も(十回などというのもあったそうですね)、平日に、講演だけで数時間、というのは、どちらかというと「自分は語りたい」という講師の切ない思いの表れでしょう。つまり、その講師は普段 その思いが満たされていないのです。 皆、自分の思いを語りたがっています。絵本の読み聞かせも、絵本を使って自分を表現しているのだと思います。講師も長く語ることによって自分を表現しているのです。講師は聞き手に、聞くボランティアをしてもらっているのです。
ただ、別の見方もできます。
ボランティアには責任を持つという重要な資質が求められます。期限までに提出する、時間を守る、やるといったことは一生懸命やる、ということがなかなかできない。そういう感覚を飲み込むのに、数年かかる方もいる。そういった概念をまず理解してもらうために、何回も指定の場所に来てもらうという、そういった訓練が含まれている場合もあります。
しかし、別の方法で訓練はできないでしょうか。主体性を持たせるということです。自分たちで関わったことには、人はきちんと行動するのではないか、というあたりまえのことに、気づいて欲しいのです。
★ 「○○図書館で読み聞かせをしてくれることを前提に、ボランティアを募集する」というスタイルも、最近よく見ます。
これはつまり、ボランティアが居つかないから、そういう条件をつけているのでしょう。聞き手がないということはかなり有名になっている。わかっているから使い捨て感覚で人を探す。市民に失礼ですね。
★ JPICアドバイザーというのは、「JPICに向かってアドバイスする人」でなくてはなりません。JPICを権威として、それを市民にアドバイスして押し広げようという感覚の人も多いですね。それでは権力者の手先でしょう?
市民が何を求め、どうすれば幸せに本と共にあるのか、市民のそばにいて知るように努力する。そして権力者に提案していく。権力者はそれに一生懸命応える。アドバイザーというのは、市民と共にいるのだという感覚を、どうぞお持ち下さい。
★ 音読のアクセントや読み方のコツも大事でしょう。しかし、その人の個性を損ねるようにせっせと指導をしてからはじめさせようとしている。それを長くやってきて、聞き手がないという事実にどうして目が行かないのか。
人前で10回も読めば、それなりになんとか落ち着いて読めるようになるのです。能力を引き出すのは、教えることではないということに、それらの講師は気づいていない。
★ 市民活動についても書きます。こんな講師もいました。
私たちが図書館講座を受けた十数年前「読み聞かせボランティアは市民活動をするべきではない」と聞かされました。「特定の思想に偏るから」「後にならないとそれが正しいかどうかわからないから」だそうです。それを今も大事にしているボランティアさんもいる。
しかし、去年、新津の読み聞かせ講座では、市民活動の助成基金「子どもゆめ基金」の助成を受けて、発言者本人が読み聞かせ講師として講座をなさいました。これには驚いて、私はゆめ基金の事務局に、今までの経緯を実名を入れてお手紙にして届けてあります。
特定の思想に偏った過去は、戦時の戦争協力おはなし会に関係があるのかもしれません。しかし、よく考えてください。それは市民活動ではなかったのです。お上の活動として上からの指令が降りてきて、その結果、お話もそれに流れていったのです。
今で言えば、組織化されて図書館に奉仕する読み聞かせ団体、出版の組織の下にできた網目のようなグループです。マスコミの誘導に乗った市井の人にも弱さがあったかもしれません。今、それぞれが改革の最中であればいいのですが、どうなのでしょうか。
何度でも言いますが、それらは上からの指導にのっとった、エセ市民活動だったのです。落ち着いて目を凝らさないと見えてこない、歴史の繰り返しで、以前書いた「みちカフェ」のようなもんです。やってる本人にも、生きがいが与えられ、楽しみもある。しかし、いつのまにか「私ってトクベツ偉いの」の道に進んでいきます。そして、よく調べると、情報が偏っている。
★ 読書推進活動は、これからもヒステリックに続けられるでしょう。
前述の講師は「まっすぐ読書に導く。無駄は省く」などと昔話理論になぞらえて説明されました。しかし、冷静に考えると、それとこれとは別の話です。
「まっすぐ本に向かわせる」という考えで、本の文章そのものを暗記するスタイルになりました。暗誦したのだと分かれば、聞き手はその本を「まっすぐ」借りるだろう、という想定です。だから暗誦のタネ本に選択されれば出版側は自分たちの得になります。
参考文献で3冊も挙げられてそこから新しく再話されたのでは、聞き手は本を借りようとはしないのではないか。本が売れないし借りられない。JPICが暗誦型語りをひたすら推し進めるのは、ここにポイントがあるのではないか。人よりも本が大事、という思想で進んでいらっしゃる。小澤理論についても、別のページで書く予定です。
★ 40年経ち、ほとんど聞き手のないおはなし会を延々とやっているボランティアもあるでしょう。ボランティアは、講師を、対等な目で、評価していきましょう。この秋は、講師にメスを入れる聞き手が増えることを、願っています。
ボランティアは、誰も来ない部屋でひたすら素振りの練習をしている。素振りの理論や、よいバットの選び方、バットの良い並べ方を、監督から長時間かけて習った。監督はすばらしい肩書きだし、厳しく優しく声かけしてくれたから、みんな監督が大好き。監督は普段いないけど、迷ったらすぐ監督に聞く。自分たちは練習してるし、知識もあり、高価な授業料を払ってきたのだから、他の人より偉いのだ。だから、ちゃちなバットを使うのはいやだ。
外の明るい公園では、家族連れが楽しくキャッチボールをしている。上手でもなんでもなくおもちゃのバットだけど、楽しいからやっている。キャッチボールの相手は、自分が失敗しても球拾いに行ってくれるし、一緒に汗を流してくれる。相手は自分のためにやってくれているんだと、肌で感じる。やがて、その中から野球を続ける子どもも出てくる。
監督は、ひたすら自分の理論をつきつめていく。机の上にはいろんなデーターや文献。このバットを上手く使う選手を育てるのが目的だ。バットがすばらしいのだから、広まらないのは使う選手が悪いのだ。だめな選手はクビにして、また講座をやって部屋の中で自分の監督下における選手を増やしておこう。指導して自分の思い通りに育てるのは、楽しい。この部屋は権威があるのだから、ここでさせてやると言えば希望者はたくさん集まるだろう。自分は一段高いところにいたいから、選手と一緒にやるのはいやだ。自分の失敗した姿を見せる訳にいかない。
このバットが広まれば、世の中が良くなるだろう。この部屋の棚にすばらしいバットだけ揃えておけば、博物館のように棚を見せることで世の中へのサービスになる。
部屋の中の選手たちは息苦しさに、お互いを攻撃し始めた。お前の振り方が悪い。そんな見ず知らずのメーカーのバットを持ってくるから、部屋に人が来ないのだ。
これは由緒正しいバットだ。
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★ 各種ある絵本の読み聞かせ講習。その中で、講演として、何回も人を集めて聞かせるものがあります。大抵、講演というのは、講師が回数や内容を指定してプランをたてるものですから、その講師の意向でそうなっているのでしょう。
私たち利用者は、そのプランに対しても、まず評価する目を持ちたいと思います。
講師が、受け手である私たちに何の配慮も無くプランをするならば、まずそんな講師は失格です。
聞き手あってのおはなしのじかんであり、利用者あっての図書館だからです。
いくら立派な理論であっても、伝わらなくては何にもなりません。伝えたいと思うならば、伝える側もそれなりに工夫するのが当たり前です。
★ 講師には、先見性も求められます。現在の状況を把握して、研究し、進路を考える手助けをする。しかし、自分では現場に行かない人がほとんどです。学校図書館とか、家庭文庫とか、1人で自由に出来る場所とか、上の組織の研修を受けただけとか、そういった経験しかない。しかも、それは調査せずに進路を決めることであり今の現場には何の意味もなさない、ということさえ気づかずにいる。
★ ほとんど聞き手が来ないとボランティアが苦しんでいる最中に、「自分たちが読み手になっておはなし会をすればいい」というプランもあったのを知っています。自分たちとは、それらの講師たちでした。
「自分たちが選書してプログラムを作れば、単発の事業でも人が来る」と思い込んでいる。月例で現場で苦労しながらやっているボランティアのことなど、ほとんど頭にないのです。自分でかつて教育したというのに、共に苦労しようという気持ちが無い。誰一人、どうして図書館のおはなし会に人が来ないのか、自分を壊して考える人がいなかった。
・・・「おはなし会に人が来ないのは、広報が悪いのではない、ボランティアが悪いのではない、講師が悪いのだ」とはっきりそのとき分かりましたし、口にして図書館関係者に説明しました。私などは、他から見れば「モンスターボランティア」なのかもしれませんが。
依存型ボランティアは「センセイの発表会だわ」と喜び、「センセイの選んだ本はすばらしい、読み方もすばらしいわ」と、そこで完結する。
ところが、センセイ方の考えることは「ボランティアや市民生活が劣っているから、自分たちを見習え」ということです。
このことにボランティアは気づいて、怒って欲しい。
★ 何回も(十回などというのもあったそうですね)、平日に、講演だけで数時間、というのは、どちらかというと「自分は語りたい」という講師の切ない思いの表れでしょう。つまり、その講師は普段 その思いが満たされていないのです。 皆、自分の思いを語りたがっています。絵本の読み聞かせも、絵本を使って自分を表現しているのだと思います。講師も長く語ることによって自分を表現しているのです。講師は聞き手に、聞くボランティアをしてもらっているのです。
ただ、別の見方もできます。
ボランティアには責任を持つという重要な資質が求められます。期限までに提出する、時間を守る、やるといったことは一生懸命やる、ということがなかなかできない。そういう感覚を飲み込むのに、数年かかる方もいる。そういった概念をまず理解してもらうために、何回も指定の場所に来てもらうという、そういった訓練が含まれている場合もあります。
しかし、別の方法で訓練はできないでしょうか。主体性を持たせるということです。自分たちで関わったことには、人はきちんと行動するのではないか、というあたりまえのことに、気づいて欲しいのです。
★ 「○○図書館で読み聞かせをしてくれることを前提に、ボランティアを募集する」というスタイルも、最近よく見ます。
これはつまり、ボランティアが居つかないから、そういう条件をつけているのでしょう。聞き手がないということはかなり有名になっている。わかっているから使い捨て感覚で人を探す。市民に失礼ですね。
★ JPICアドバイザーというのは、「JPICに向かってアドバイスする人」でなくてはなりません。JPICを権威として、それを市民にアドバイスして押し広げようという感覚の人も多いですね。それでは権力者の手先でしょう?
市民が何を求め、どうすれば幸せに本と共にあるのか、市民のそばにいて知るように努力する。そして権力者に提案していく。権力者はそれに一生懸命応える。アドバイザーというのは、市民と共にいるのだという感覚を、どうぞお持ち下さい。
★ 音読のアクセントや読み方のコツも大事でしょう。しかし、その人の個性を損ねるようにせっせと指導をしてからはじめさせようとしている。それを長くやってきて、聞き手がないという事実にどうして目が行かないのか。
人前で10回も読めば、それなりになんとか落ち着いて読めるようになるのです。能力を引き出すのは、教えることではないということに、それらの講師は気づいていない。
★ 市民活動についても書きます。こんな講師もいました。
私たちが図書館講座を受けた十数年前「読み聞かせボランティアは市民活動をするべきではない」と聞かされました。「特定の思想に偏るから」「後にならないとそれが正しいかどうかわからないから」だそうです。それを今も大事にしているボランティアさんもいる。
しかし、去年、新津の読み聞かせ講座では、市民活動の助成基金「子どもゆめ基金」の助成を受けて、発言者本人が読み聞かせ講師として講座をなさいました。これには驚いて、私はゆめ基金の事務局に、今までの経緯を実名を入れてお手紙にして届けてあります。
特定の思想に偏った過去は、戦時の戦争協力おはなし会に関係があるのかもしれません。しかし、よく考えてください。それは市民活動ではなかったのです。お上の活動として上からの指令が降りてきて、その結果、お話もそれに流れていったのです。
今で言えば、組織化されて図書館に奉仕する読み聞かせ団体、出版の組織の下にできた網目のようなグループです。マスコミの誘導に乗った市井の人にも弱さがあったかもしれません。今、それぞれが改革の最中であればいいのですが、どうなのでしょうか。
何度でも言いますが、それらは上からの指導にのっとった、エセ市民活動だったのです。落ち着いて目を凝らさないと見えてこない、歴史の繰り返しで、以前書いた「みちカフェ」のようなもんです。やってる本人にも、生きがいが与えられ、楽しみもある。しかし、いつのまにか「私ってトクベツ偉いの」の道に進んでいきます。そして、よく調べると、情報が偏っている。
★ 読書推進活動は、これからもヒステリックに続けられるでしょう。
前述の講師は「まっすぐ読書に導く。無駄は省く」などと昔話理論になぞらえて説明されました。しかし、冷静に考えると、それとこれとは別の話です。
「まっすぐ本に向かわせる」という考えで、本の文章そのものを暗記するスタイルになりました。暗誦したのだと分かれば、聞き手はその本を「まっすぐ」借りるだろう、という想定です。だから暗誦のタネ本に選択されれば出版側は自分たちの得になります。
参考文献で3冊も挙げられてそこから新しく再話されたのでは、聞き手は本を借りようとはしないのではないか。本が売れないし借りられない。JPICが暗誦型語りをひたすら推し進めるのは、ここにポイントがあるのではないか。人よりも本が大事、という思想で進んでいらっしゃる。小澤理論についても、別のページで書く予定です。
★ 40年経ち、ほとんど聞き手のないおはなし会を延々とやっているボランティアもあるでしょう。ボランティアは、講師を、対等な目で、評価していきましょう。この秋は、講師にメスを入れる聞き手が増えることを、願っています。
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