図書館・語り・紙芝居・集団相手の絵本よみ・ボランティアなどについて書きます。
絵解きボランティア
刷り込みを客観視して
随分昔に、「刷り込みについて」というタイトルで投稿しました。
新潟市は、ベテラン司書が入門講座をすることが多く、「あの方がこうおっしゃった」→「図書館ではそうやってするらしい」→「違うことをするのはタブー」→「違う人は間違いの人」→「間違いはいやだ」→「間違っている人を教えてあげましょう」→「教えてあげるのがボランティア」
という流れになっています。
刷り込み・インプリンティング(一番最初に出会ったものを母親と慕うこと)、について再度 警鐘を鳴らしておきましょう。私が絵本講師陣に批判的な言葉を連ねたせいで、自分の親を批判されたような気分になっておられる方もいらっしゃるようです。図書館の方は、大抵、礼儀正しく格調高く、人格者でいらっしゃる。そしていつも相談に乗ってくださる。自分が間違えないように導いて下さる・・・と言ったところでしょうか。
しかし、「自主」の看板を揚げているならば、図書館の常識を疑ってもいいかと思っているのです。図書館司書好みの活動に沿って行きたいのか、利用者の望む方を見るのか、もう少し検討されるべきものではないでしょうか。参加者の反省や意見が書かれた紙の束は、図書館員が持っていってしまいました。それでは「図書館のお抱え会」ではないでしょうか。私に信用が置けないのならば、他の方に預けてもよい。私もその場にいて、そのことの重大性に気づかなかった。気づくのは半月も経ってから。ほんとに自分が情けないです。
ブログに役職名などを含めて書くことについて、批判もあるようです。思い出して欲しいのは、みんな、税金で講師料を払っている、職員には給与も払っている、主体になるのは、市民であるということです。それらの講師は批判されなくてはどんどんブレていくのです。
かわいそうなのは、ブレていく講師たちでして、ボランティアは「現場はこうだ」「自由を守れ」と語りかけなくてはなりません。
新潟市美術館の混乱の様子を、一生懸命読んでいるのですが、肩書き詐称までありました。読み聞かせ指導の現場でも似たようなことは起こっています(一時期正しかった)。
美術館の批判者は、我慢に我慢を重ね、他の美術関係者は何故知っていて物を言わないのか疑問を抱え、そうして何年も躊躇なさったのだと思います。私など10年以上オロオロし続けました。決して批判することが面白くて言っているのではないのです。
美術館の場合は、民主化というかプラットフォーム化を推し進める過程で無理があり、批判するべき立場の人が中立ではなく、そのほかに人間的な確執もあり、ということではないかと思います。もちろん逆の面から見れば別の理由があることでしょう。
私が図書館の児童サービスに思うのは、司書そのものが中立ではなかった、という思いです。講師陣は自分の立場を守るために、お互いをかばい合い、状況を転換させることをためらいました(転換の必要なしと思われたのかな)。市民団体はそれらを批判しなくてはならないのに、最初に「司書が母親」になってしまったせいでそれを批判できず、批判する者の口をふさごうとする実態があります。表現の自由と管理の制限は、いつの時代も対立していたはずで、この二つはそれぞれが独立しているからバランスが取れるのです。
自主であるなら分離独立せよ、美術館の二の舞にならないように、と、ここで言わせてもらおうと思います。進む過程で、ミスや思い違いはもちろんあります。それを許容していくさじ加減と不安は、リーダーが我慢して引き受けなくてはなりません。(えーっとね、大仏さまの手の水かきを思いだせばいいです)。
真面目になればなるほど「ボランティアは自分を磨きぬく」と硬直して指を磨きぬいて細くしていきます。水かきなんてトンでもない。実は、これは「自分さえよければ」の道ですね。こういう時は、周囲が「気楽に」と言ってあげればいいかと思います。それにしても、上昇志向のすごいこと、私を含めて皆でこういう風潮を作ってきたのでしょうか。
美術館の名刺に嘘の肩書きを刷り込んだ方は、どのような物語を生きてこられたのか、興味深々ではあります。
新潟市は、ベテラン司書が入門講座をすることが多く、「あの方がこうおっしゃった」→「図書館ではそうやってするらしい」→「違うことをするのはタブー」→「違う人は間違いの人」→「間違いはいやだ」→「間違っている人を教えてあげましょう」→「教えてあげるのがボランティア」
という流れになっています。
刷り込み・インプリンティング(一番最初に出会ったものを母親と慕うこと)、について再度 警鐘を鳴らしておきましょう。私が絵本講師陣に批判的な言葉を連ねたせいで、自分の親を批判されたような気分になっておられる方もいらっしゃるようです。図書館の方は、大抵、礼儀正しく格調高く、人格者でいらっしゃる。そしていつも相談に乗ってくださる。自分が間違えないように導いて下さる・・・と言ったところでしょうか。
しかし、「自主」の看板を揚げているならば、図書館の常識を疑ってもいいかと思っているのです。図書館司書好みの活動に沿って行きたいのか、利用者の望む方を見るのか、もう少し検討されるべきものではないでしょうか。参加者の反省や意見が書かれた紙の束は、図書館員が持っていってしまいました。それでは「図書館のお抱え会」ではないでしょうか。私に信用が置けないのならば、他の方に預けてもよい。私もその場にいて、そのことの重大性に気づかなかった。気づくのは半月も経ってから。ほんとに自分が情けないです。
ブログに役職名などを含めて書くことについて、批判もあるようです。思い出して欲しいのは、みんな、税金で講師料を払っている、職員には給与も払っている、主体になるのは、市民であるということです。それらの講師は批判されなくてはどんどんブレていくのです。
かわいそうなのは、ブレていく講師たちでして、ボランティアは「現場はこうだ」「自由を守れ」と語りかけなくてはなりません。
新潟市美術館の混乱の様子を、一生懸命読んでいるのですが、肩書き詐称までありました。読み聞かせ指導の現場でも似たようなことは起こっています(一時期正しかった)。
美術館の批判者は、我慢に我慢を重ね、他の美術関係者は何故知っていて物を言わないのか疑問を抱え、そうして何年も躊躇なさったのだと思います。私など10年以上オロオロし続けました。決して批判することが面白くて言っているのではないのです。
美術館の場合は、民主化というかプラットフォーム化を推し進める過程で無理があり、批判するべき立場の人が中立ではなく、そのほかに人間的な確執もあり、ということではないかと思います。もちろん逆の面から見れば別の理由があることでしょう。
私が図書館の児童サービスに思うのは、司書そのものが中立ではなかった、という思いです。講師陣は自分の立場を守るために、お互いをかばい合い、状況を転換させることをためらいました(転換の必要なしと思われたのかな)。市民団体はそれらを批判しなくてはならないのに、最初に「司書が母親」になってしまったせいでそれを批判できず、批判する者の口をふさごうとする実態があります。表現の自由と管理の制限は、いつの時代も対立していたはずで、この二つはそれぞれが独立しているからバランスが取れるのです。
自主であるなら分離独立せよ、美術館の二の舞にならないように、と、ここで言わせてもらおうと思います。進む過程で、ミスや思い違いはもちろんあります。それを許容していくさじ加減と不安は、リーダーが我慢して引き受けなくてはなりません。(えーっとね、大仏さまの手の水かきを思いだせばいいです)。
真面目になればなるほど「ボランティアは自分を磨きぬく」と硬直して指を磨きぬいて細くしていきます。水かきなんてトンでもない。実は、これは「自分さえよければ」の道ですね。こういう時は、周囲が「気楽に」と言ってあげればいいかと思います。それにしても、上昇志向のすごいこと、私を含めて皆でこういう風潮を作ってきたのでしょうか。
美術館の名刺に嘘の肩書きを刷り込んだ方は、どのような物語を生きてこられたのか、興味深々ではあります。
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