丸腰で立ち向かうな

図書館の読み聞かせ講座では、今、どのように指導がされているのでしょうか。
 私たちがよく言われたことの中の一つに「丸腰で立ち向かうな」というのがあります。本を探す時には、それなりの資料を元に棚を探すことが大切だ、または、聞き手に対して何の準備もなく対応するな、というような意味です。絵本であれば、各種ブックリストや選書の基準(講師から習ったとおりの)を持て、ということでしょう。最近では、読み方の指導や発声法の指導をうけることも準備の一つになっています。

 ある意味大切かも知れないけれど、これも時代とともに変化し、またボランティアの自立という視点から見ると、問題の多い言葉だと思います。
 「丸腰」ということは、別の視点から見ると自分の感性をフルに使う状態で、とても大切なことのように思えます。小さい子どものように何の知識もなく本に向かうのですから、大人でありながら、子ども目線でもあります。肩の力が抜けて、利用者と横並びに、何でも受け入れられるおだやかな気分でいられます。
 対して、「武器を携えヨロイを着込んで」は、批評家目線ですね。どこかに悪いところがないか、講師の指導に沿わないところはないか、こんなものを与えると地域がダメになる、位の強い思い込みさえ感じます。また今年も入門講座で5日も6日も教え込んで硬いヨロイを着せようとする図書館もあります。まるで講師のトークを聞くためにボランティアがいるみたい。一方的に話を聞かされたボランティアは、だから自分たちも一方的に聞かせていいんだと思い込む、異論がありそうならば目を吊り上げて相手の口を封じる、そういう循環になっていませんか?
 利用者は、どちらの大人に寄り添ってもらいたいでしょうか。

それから「立ち向かう」というのも大げさですね。棚に立ち向かってどうすんでしょう。利用者に立ち向かう?自分のいいところを見せるのが目的になっているようにさえ思えます。
 考えてみると、棚にあるのは利用者の税金で買われた本です。自分には思いもつかない発想、自分の知らない世界があるはずです。それと共に自分も育ちたいものだと思います。

 「生涯教育」とはもうあんまり言わないでしょ。「生涯学習」です。価値観が多様化し、一方的な教えを受け入れる「勉強会」では現実に対応できない、だから一方的に教授されるのではなく、世の中のあらゆるものからお互いに学んでいく方向に進むのが「学び」であるという解釈です。「○○先生の▲▲講座」というタイトルをつける感覚は、今までのボランティアがどのように教えられてきたかを物語っています。
 棚の本や利用者から、ボランティアは気軽に学びを受け入れていく。そして、自分が足場になり、相手がそれを踏み台にしてそこから立ち上がるのを見て満足する、それが楽しいというのが私の思いです。だから、棚の中身も、成長の踏み台になるように幅広くムラなくお願いしたいものです。

 以前、「学校司書の研修」というブログも書いていました。そこにコメントをくださったYOKOTATEさんは、今、このブログを読んでくださっているでしょうか。学校司書さんは、教育者だから、福音館書店の良書に導くんだ、みたいな思い入れはなかったでしょうか。そうでなければ司書はいらないってことか、とおっしゃっているように私は読みました。
 私が繰り返し書きたいのは、司書や教育者の仕事そのものが、昔と変わってきているのではないか、ということです。子どもを一定方向に導くのではなく、必要なものをこだわりなく揃えて、相手の進む方向を整備する、という感性が求められていませんか? 大人が一歩引くことにより、子どもの力が一歩前に進むような気がするのです。そしてそれがおのおのの自立に向かうように思うのです。

 かみしばいクラブにいて私が強く思ったのは、自分がヒキ気味にしていたほうが会員さんはいろいろな発想を見せられる、ということです。各種知識はあるけれど、それを一旦棚上げして、人に向かう時は丸腰でいったほうがいいなと思いました。自分が丸腰だからこそ、相手にごく近くいられるし、相手の踏み台にもなれるのです。
 妙なこだわりを持ちそうになった時、「図書館の自由に関する宣言」が私を丸腰にしてくれるような気がします。


 

 

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