おはなし会のプログラムを作る②

さて、この中で、あなたが共感できるものはどれ?もちろん人それぞれ違うはずなのにね。

プログラムを作るときに留意する点を書きます。後半部分でそのいくつかに突っ込みます。

 ①季節(時間)が戻らないような並べ方をすること。「おやすみ」「ばいばい」などがオチにある本は、中間に入れないこと。今の季節とあまりに違うのは入れないこと。季節の先取りはいいが、過ぎたものは入れないこと。最初は導入になるので、簡単なものからはじめること。途中、息抜きとして手遊びなどを入れること。つまりは、おはなし会の流れを大切にすること。

②作風・作者、がかぶらないようにすること。出版社がかぶるのは仕方がない。

③ストーリーテリングは集中力が必要なので、なるべくプログラムの初めの方に持ってくること。

④パッと見が派手な(「おやつ絵本」のことか?)本は入れないこと。

⑤長い本ばかり並べず、長さや本の大きさ、画風をいろいろにして、変化をつけること。

⑥教育風な絵本は入れないこと。思想的な本は入れないこと。

⑦内容的にも、バラエティに富んだものにすること。(追記)外国物、日本の物、科学の本、内容がかぶらないように。

⑧不特定多数相手の場合は、幼児向けから小学生向けまで、各年齢層対応の本を入れるようにする。当日、赤ちゃん親子連れしか見えない時は臨機応変にやっている団体もあるようです。

⑨メインになる本を決めて、それが引き立つように他の本を並べること。語るに足る話を選び抜くこと。(追記)20年以上読み継がれた本を入れること

⑩同じ人がなるべく続けて読むようなプログラムが好ましい。


 以上について、私の意見を書きます。

①について・・・
この論理でいくと「1冊の中に1年の流れを追って作ってある絵本」は、絶対に入れられないことになる。また、その中で特に印象的な季節として捉えればいいという意見もありますが、捉え方感じ方は人それぞれであり、他の人が意見できるものではないでしょう。

「全体の流れを大切にする」ためにこれらの決まりができていったのでしょうが、「本の世界にどっぷり浸る、意味深で重々しいイベント」よりも、身近な道具遊びをするような気軽な集まりにしたほうが、親子連れが参加しやすいのではないか、というのが私の考えです。「本の世界」と大げさに構えて、何とか高尚な世界にしたかった図書館の勢力があったのではないだろうか。本の世界にいざなう・・・って大げさ・・・

 付け加えて、プログラムを一人で決めるのならば、その人の判断をみんなが受け入れるしかないということ。それをあとで批判の種にするのは、個人の感性を批判することになります。逆に、プログラムを数人ですり合わせるというのは、結局は押しの強い人の意見が通ることが多いので、つまらない権力者を作るだけだと思っています。いつの間にか、欠点を見つけ出すのが上手くて口が達者な○○さんの「ご意見を伺う」ような団体になっていってしまいます。やたらへりくだりたがる新人さんが多いのは、講座で「絵本はすばらしい」的なオーバーな感情を植えつけてしまうからだと感じています。今は、本のある環境を整える程度でいいんです。そのゆるやかな感じが、若い保護者や子どもにとって本が身近なものになる大切なポイントでしょう。

誰でも、自分のやることにそれなりの意義を見出したいし、すばらしい活動だとホメてもらいたいもの。それが果てしのないバカまじめさと響きあい、果てしのない規制づくり競争になっています。

④について・・・
昔は、図書館にそういった本そのものがありませんでしたから、批判しようにも自然とそうなった。しかし、今、書棚にあるからと言って、それとなく入れようとすると・・・さて、どうでしょうね。ブックスタートの講師が「おやつ絵本」と仰るくらいですから、ボランティアは過剰反応するんじゃないかな。体験上、「おやつ絵本」と発する場所には、影のように「やーね、あんなの福祉じゃないの」がつきまとうのです。そのことを、ボランティアは自覚した方がいいと思う。言葉狩りをするつもりはないのです、なんとかある種のものを追い出そうという人間に、ボランティアがなっていくことが恐ろしいのです。
 今、本は道具であり、どの場面でどんな本を使うかといった選択能力をみんなで蓄えている最中です。本を通じて地域のレベルを上げるという感覚は「浄化」であり、「優性思想」になります。これは大変危険な思想です。「優良な本を与えましょう」とやった絵本講師は、その意味を深く理解していたのでしょうか。

⑥について・・・
本は、メッセージが込められて当たり前です。そして、やはり読み手が「自分は教育ボランティア」的な指導者意識があると、どんな本を読んでも声色そのものが教育者の声になっていきます。本を選ぶことにヒイヒイ言わせるよりも、読み手教育のときにリベラルな意識でやるほうがいいでしょうね。
 政治的思想を持って始められる方もあるかもしれないけれど、現場経験が少ないから思いが突出するんですよね。あちこちの現場を忙しく訪問していると、目の前の事態に対応するのに忙しくて、思想性は薄まっていきます。それまで他のメンバーで支えてあげればいいです。

⑨について・・・
 昔のコンサートのようなスタイルもありますが、今は、それぞれの曲をそれぞれに楽しむほうが、聞き手の気持ちに沿っているのではないかと思います。メインを決めようとすると話に格付けする習慣がつき、人間も格付けする習慣がついて困ります。「今日のコンセプトは○○」とアトランダムにやる方法が試されているのも、その反省があるんじゃないかな。

⑩について・・・
この理由は、「読み手が交代すると、そのたびに聞き手は耳を読み手に合わせてチューニングしなくてはならず、聞き手の負担になり全体が散漫な印象になるから」というようなことでした。書いていてもバカバカしいのですが、これを鵜呑みにしてしまうボランティアが結構多かったですね。耳をチューニングすること自体に、複数人でやるおはなし会の醍醐味や面白さがあるのではないでしょうか。その場に対応しようとする人間力も育つし。そのうち逆に、同じ人が続けて読むと飽きるから続かない方がいい、などという指導もあったりして、二転三転させられ、アホらしさに気づいたボランティアも多かったと記憶しています。

そして全体を通じて・・・・・・・・・規制が多すぎます。

これでは、どの本もどのプログラムも、どこかどこかにひっかかり、あっちを押せばこっちが飛び出すもぐらたたき状態になり、結局、おどおどする初心者と、自分の感性が正しいと思うベテランがはっきり分かれていきます。重箱の隅をつつき、お互いを規制という紐で縛りあう状態、自分の首を自分で締める状態になっていますね。

また、ボランティアは、なにより自分の生活第一です。当日どんなトラブルがあるかわかりません。苦心惨憺して本の順番を決めて、当日、欠席の場合もある。本が用意されているからと言って、読み手の好みによって話の雰囲気が変わるのは皆様ご存知のはず。本は道具です。こんな細かい配慮はほとんど自分たちの満足だけのためにあるのではないでしょうか。当会のカミシバイハウスは、「長いのをあんまり続けない」という一点のみで、聞き手に選んでもらいながら皆さん気楽にやっています。もちろん最初から最後までウハウハと聞き続ける子どもも多いのです。プログラムのつくりがどうだからといって、そのせいで聞けない、ということではないのです。

これら昔のプログラムの作り方を指導されているのであれば、講師は、ぜひ、現場に出て、あるいはいろいろな年齢層や経験年数の人と同じ地平に立ち、「複数人」でやっていくおはなし会の生々しい現場を、ぜひ体験していただきたいと思っています。

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