図書館・語り・紙芝居・集団相手の絵本よみ・ボランティアなどについて書きます。
絵解きボランティア
参加者0という問題
夏に、図書館から、おはなし会の参加者数・実施回数などがグラフや表になっているデータをもらいました。交流会用の資料です。それを見て、あることに気付きました。
毎月1回ずつやっているはずなのに、年間の実施回数が8回とか10回、とかいう館があります。ボランティアが急に休んだせいかもしれませんが、もしかしたら、と思い、図書館に問い合わせました。参加者数0のときはカウントされているのか、という内容でです。
回答は、参加者数が0の時は集計されない、というものでした。つまり、参加者がいなかったときは、会そのものがなかった、ということになるという現実です。今まで10年以上もこういったデータを見て、気づかなかった自分が情けなかったです。
もちろん、聞き手がいないのだからやらなかったことになっても仕方ない、という考えがあることを承知して、私の意見を書きます。
参加者0でもいいのでやったことにしてほしい、というのが基本的な考えです。理由は3つです。
① 回数を分母に、人数を分子にして「1回当たりの平均参加人数」が算出される。しかし、ボランティアは参加者がいてもいなくても、とにかく現場にいるので、ボランティアの感覚に比べて分母が少なく計上されていることになる。分母が小さければ、平均参加人数も微妙に大きく算出され、ボランティアの感覚とずれてくる。ボランティア同士は「多い館もあるのかな」と、まずそのデータを信用してきた。しかし、不思議な思いを抱えたままの活動になる。ボランティアの認識と現実が合わない状態を改善し、ボランティアが考える元になるデータを、より現実味のあるものにする必要がある。
② ボランティアは参加者であるのかどうかという問題。前ページで書いた通り、図書館の見解が見えるのである。ボランティアはやる側(指導者)側であって、(指導される側の)参加者ではないという解釈だ。しかし、私は、読み手と聞き手は対等であり同じ市民で共に楽しむのだから、ボランティアは一般の参加者と同じであると考えている。また、2人以上ボランティアがいれば2人で読み合えばいい。これで他の一般的な参加者がいなくても、おはなし会は成立すると考える。ボランティア自身も、一段高くなるのでなく、自分たちは利用者の一部の参加者であるという認識を持つ必要がある。
③ おはなしのじかんを担当するボランティアが仮に一人であっても、そのボランティアは本を用意したり進行を考えたり準備をして現場に来る。すでにそこからおはなしのじかんの学びは始まっていると思う。それを無かったことにするのは、ボランティア軽視だと思う。ボランティアは自分たちの立場を理解するとともに、努力したことを正当に主張することは大切だ。これを自ら「100年早い」などとへりくだるのは、結局、市民やボランティア初心者に対して「へりくだれ」という意識にもつながっていく。この負の連鎖を転換するのは大切だと思う。
追記:翌11月18日に「続・参加者が0という問題」という投稿をしました。
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