現場からの告発。その悲しみは私の悲しみ。

12月の中旬に、絵本の会で、未就園児向け読み聞かせをしていたとき、あかちゃんのあそびえほん『シャンプーだいすき』(さく・木村裕一)(偕成社)をプログラムの中に入れました。他には、『たっくんごはん』『いいおかお』『がたんごとんがたんごとん』『ゆきのひのうさこちゃん』 です。古典あり、いまどきの本あり、言葉の本あり、といったところです。

それで、終了後、『シャンプーだいすき』を手に取るお母さんに、私は「昔はこういうのは図書館に無かったのですが、やっと入るようになりました」と説明すると、そのお母さん曰く
「先だって、短大の先生の絵本講座を受けたときに、このきむらゆういちのシリーズについて尋ねたら『こういうのは刺激が強すぎてダメ』と完全否定された。」などと悲しそうに仰いました。
「そうではないです、意見が分かれるところですが、戦隊ものの絵本さえ大丈夫ですよとおっしゃる先生もいるのです、大丈夫です」というふうに私は言いました。「本を一緒に読んで楽しんでもらうことが大切なんですよ」と他の人も言いました。
 お母さんはやっと安心したように、その絵本とそれ以外の絵本も数冊混ぜて借りて行かれました。絵本の会のメンバーもそこにいましたから、私の作り話ではありません。

写真のきむらゆういちの絵本というのは、ロングセラーのシリーズで、いろんな形にカットされたページが一枚ごとに綴じられていて、そこだけめくると展開が変わる縦型の人気シリーズ絵本です。私は、現場では今もなおこういった「絵本講座」が繰り返されていることを、告発したいと思います。

ここでいくつか意見を言います。

① まず、その短大講師についてです。たまたま見た西蒲区の区報で、第二次新潟市子ども読書活動推進計画の委員の先生(元園長で、西川図書館の講座に深くかかわった方)の講座があることは知っていました。その他に良書推進で西蒲区の図書館協議会に長くおられるもう一人の別の短大非常勤講師もいらっしゃる。どちらかでしょう。
 これらに関係して、豊栄図書館や西川図書館では元市立図書館長の「絵本を見る眼を鍛える」と何回か連続講座もあり、特定の絵本を排除する講義が行われていたであろうことは、推測できます。「鍛える」先生は、私も入門講座を20年以上前に受講して同じ説明を受けましたから分かります。これらの講師が講座をすると、20年前と同じ説明が繰り返され、今もボランティア交流会では「どんな本がいいか、自分の選んだ本は変な本じゃないのか」と困惑の声を上げる人もいます。現場を長く離れたり、現場に関係のない講師、また子どもの人権に知識のない講師が指導をすることが続いています。

② 子どもの読書を推進する時に、その本の内容について何か制限が行われたでしょうか。そうではありませんね、「本がある、場所や時間がある、人がいる」という環境を整えるという、そこまでだったと思います。また、本の内容を問う向きには、図書館がリーフレットを用意してあるというような回答があったようです。
 この絵本はキャラクター絵本とは違いますが、それらに近いマンガっぽいイラストに魅力があると私は考えています。そして、キャラクター絵本やアニメ絵本は「価値のあるあいまい分野」として認識しています。そういうのはリーフレットにありませんが、世の中にあるものはどれも、必要があって生まれてきていますから、あいまいな分野を含めてどれも価値があるのです。子どもの成長にはそういった「あいまいで無駄に思われる」道具が必要なのは各先生が力説される通りですが、それとちぐはぐな発言をされている。人間誰もが生きているだけで価値があるように、本も多種類の価値観が提示されると良いと思います。
 そして、”完全否定”とは、そのお母さんが口にした言葉です。その講師は完全否定したのです。その場に居合わせた母親たちもフリーズしたことでしょう。彼女らはこれから穏やかにいろいろな本を手に取ることができるでしょうか。講師はそういうことに想像を働かせて欲しい。人間は曖昧のかたまりです。その人間である子どもを育てる親が、あいまいさを引き受け受け入れる気持ちがなければ、子どもはどう育つか。何より、自分とは違う人間である子どもを、親は受け入れていかなくてはなりません。マニアの方は本の内容に固執するのがお好きかも知れませんが、こんな講座を受けて、たかが本の内容のことで子どもの様子を否定的に見る親が増えないことを願います。また保健師がこういった講座を受けて家庭の中に入って本の指導したらどうするつもりか、慄然としています。

③ 「刺激が強すぎる」という、その根拠は何でしょうか。どこかで調査がされているのでしょうか。「起き上がりこぼしが起き上がると、刺激が強すぎる」という人はいないでしょう。はっきりとした顔立ちの人形が転んで起き上がる楽しみと、ページがめくれるとはっきりと変化する楽しみは同じものだと思います。図書館が明示したように絵本は交流のための道具だと思っていかないと、どんどん敷居が高くなるばかりで目指す方向とは違ってきます。
 また、子どもの目の器質を理解した線画にはっきりとした色彩は理屈にかなっています。推進計画の委員である短大講師は「大人が想像を絶する位のものを子どもは持っている」などとと会議では発言されていますが、想像を絶する力を「信じるという気持ち」があれば、この程度の刺激は大切なことと思えないでしょうか。それとも、「偉い先生が言ったからそうに違いない」と、オウム返しに仰ったのでしょうか。
 そして、絵本はそれ一種類しか存在するのでなく、掃いて捨てるほど出版されています。他の印刷物は、小さい子どもの前に無限にあります。本の世界だけ特別に無菌状態の純真無垢であればいいということでしょうか。それならば、「学・社・民の融合」はできないことになる。

④ 人を変えるにはまず自分が変わらなくてはなりません。市民に図書館を利用して欲しいと思うなら図書館も変わらなくてはならない。②に書いたように図書館も変わりつつあるので、そこは評価しています。しかし、身内をかばう余り、子どもの文化を理解しない講師を持ち上げる司書が多いのもまた事実。あんまり経費のかからない読書推進事業ですが、それでも税金を使うなら、排除の論理を捨て、一人一人を大切にしてこそ全て始まる話ではないかと思います。全体を重んじ個人を軽く見るのは「全体主義」で、かつて戦争に進んだ道と同じことを歴史は語っていると思います。

私は、誹謗中傷をする人、と非難されたこともある。しかし、権力者に異論を唱えることは誹謗中傷ではないと考えています。私は自分の名前を出しています。その母親の悲しみは私の悲しみでもあります。西蒲区の某司書(今はどちらに在籍しておられるか存じませんが)がほんぽーとにいる時、ボランティアルームの前で会員2名と共に「かみしばいクラブはだめなのよ」と罵倒されたこともあります。余りの唐突さとその勢いに3人ともフリーズしてしまいましたが、このお母さんと同じ問題を指摘させてもらいます。
 以前書いた「『教育は市場が与えないものを与える』に対する批判」も合わせて、図書館に投書し、またそれを「第二次新潟市子ども読書活動推進計画」の委員の先生方にも読んでいただきたいと思っています。図書館が握りつぶさないことを希望します。



 

 

 

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