図書館・語り・紙芝居・集団相手の絵本よみ・ボランティアなどについて書きます。
絵解きボランティア
橋本治の意見に すっきり
2012-10-04 / 意見
朝日新聞の9月28日は一面に村上春樹の寄稿文が大きく載っていました。へえ、こんなこともあるんだとそれをふむふむと読み、続けて橋本治のオピニオンを読んで、とてもうれしくなったので書いておこうと思いました。
「国民」でなく「みんな」という見方は、私が思う「ボランティア」の考え方と同じです。「みんな」という集団は、そう複雑なことは決められない、というのも思いは一緒。複雑なことを決めようとすると意見の違いが現れてみんながバラバラになってしまう、というのも、とても良くわかります。本の中身まで皆で話し合って真面目にプログラムを突き詰めていこうとすると、意見がかみ合わずバラバラになってしまうというのもここに関係します。
だから、かみしばいクラブはプログラムをあんまり作らないか、深く検討しないでちゃちゃちゃっと決めていくのです。「私たちそんなに偉くないから」という声があったので、「じゃ、やめましょか」で決まっていった。ワンテーマで横並び、つまり、かみしばいやりたいもん、で皆が横並びになっているんですね。リーダーはいないんです。私などは交通整理役か過去の事例を引っ張り出す役です。
もっと言えば、いろんなこと(「語法」「理論」「技法」云々)を研究したり勉強会したりして仲間内で決めれば決めるほど、横並びである「みんな」と離れていく、つまり市民の求めるものから離れていくんじゃないかと思います。でも、まじめなボランティアってのは、そういう「お勉強」をやめられないんだよね。また、そういう企画をやりたがる図書館の人って多いんだよね。ステップアップ好きだからね。
よく、語り方指南本で、この話はこんな風に語りましょうね、なんてことを延々と書いてある場合がありますね。こういうのって、私は素通りすることにしています。指南本の通りにやることが「みんな」の望むことだろうか、と疑っているからです。ワンテーマ「おはなししてみたいもん」だけを大切にすれば自由に語れるし、聞き手と「みんな」の関係になれるような気がするのです。自然に身につくものは勝手に身につくだろうし。
でも、長くやればやるほど、「お勉強しなくちゃ」みたいな傾向になります。「勉強しない困った人」の方が「みんな」と同じボランティアなんだから、のらりくらりやっている人になりたいと思いますね。そしてその結果、長続ききするような気がします。
ポピュリズムだと言われて、ちょっと腑に落ちない気分でしたが、このオピニオンを読んでここでもすっきりとしました。以前もちょっと無意識に書いたんだけど、私も大衆のひとりだから、というのが腑に落ちない原因だったんですね。
図書館は、ボランティアとともに「みんな」になる気がないんじゃないかと感じます。新潟市の、と限定しているわけでなく、ボランティアステップアップを図ろうとしたりする幹部もまだたくさんいることでしょう。自民党が「みんな」の感覚を理解できないでいると書かれていましたが、図書館のどこかの幹部とか、ボランティアのかなりの割合も、「みんな」の感覚がわかっていないのかもしれません。教育だから、というのがその原因かな。だから、「中央」から講師を呼んできてありがたくおはなしを承る習慣が抜けないんでしょうね。その方が主流なんだろうかと、ちょっと不安になります。
「国民」でなく「みんな」という見方は、私が思う「ボランティア」の考え方と同じです。「みんな」という集団は、そう複雑なことは決められない、というのも思いは一緒。複雑なことを決めようとすると意見の違いが現れてみんながバラバラになってしまう、というのも、とても良くわかります。本の中身まで皆で話し合って真面目にプログラムを突き詰めていこうとすると、意見がかみ合わずバラバラになってしまうというのもここに関係します。
だから、かみしばいクラブはプログラムをあんまり作らないか、深く検討しないでちゃちゃちゃっと決めていくのです。「私たちそんなに偉くないから」という声があったので、「じゃ、やめましょか」で決まっていった。ワンテーマで横並び、つまり、かみしばいやりたいもん、で皆が横並びになっているんですね。リーダーはいないんです。私などは交通整理役か過去の事例を引っ張り出す役です。
もっと言えば、いろんなこと(「語法」「理論」「技法」云々)を研究したり勉強会したりして仲間内で決めれば決めるほど、横並びである「みんな」と離れていく、つまり市民の求めるものから離れていくんじゃないかと思います。でも、まじめなボランティアってのは、そういう「お勉強」をやめられないんだよね。また、そういう企画をやりたがる図書館の人って多いんだよね。ステップアップ好きだからね。
よく、語り方指南本で、この話はこんな風に語りましょうね、なんてことを延々と書いてある場合がありますね。こういうのって、私は素通りすることにしています。指南本の通りにやることが「みんな」の望むことだろうか、と疑っているからです。ワンテーマ「おはなししてみたいもん」だけを大切にすれば自由に語れるし、聞き手と「みんな」の関係になれるような気がするのです。自然に身につくものは勝手に身につくだろうし。
でも、長くやればやるほど、「お勉強しなくちゃ」みたいな傾向になります。「勉強しない困った人」の方が「みんな」と同じボランティアなんだから、のらりくらりやっている人になりたいと思いますね。そしてその結果、長続ききするような気がします。
ポピュリズムだと言われて、ちょっと腑に落ちない気分でしたが、このオピニオンを読んでここでもすっきりとしました。以前もちょっと無意識に書いたんだけど、私も大衆のひとりだから、というのが腑に落ちない原因だったんですね。
図書館は、ボランティアとともに「みんな」になる気がないんじゃないかと感じます。新潟市の、と限定しているわけでなく、ボランティアステップアップを図ろうとしたりする幹部もまだたくさんいることでしょう。自民党が「みんな」の感覚を理解できないでいると書かれていましたが、図書館のどこかの幹部とか、ボランティアのかなりの割合も、「みんな」の感覚がわかっていないのかもしれません。教育だから、というのがその原因かな。だから、「中央」から講師を呼んできてありがたくおはなしを承る習慣が抜けないんでしょうね。その方が主流なんだろうかと、ちょっと不安になります。
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