図書館・語り・紙芝居・集団相手の絵本よみ・ボランティアなどについて書きます。
絵解きボランティア
良い本と学力の関係
7月の新潟市立図書館協議会の速報版を見ました。
これについて、いろいろな方面から書いてみたいと思います。
1「良いものを提供すれば 長い目で見れば学力が向上する」という根拠は?
これは新説だと思うので、根拠を示していただけるとありがたいです。
何か調査がされているのでしょうか。検証することなく感傷的な「美しい物語」に振り回された過去の失敗について、別ページに書きました。
これは物語でなく学問の分野に当たると思います。絵本学会とかで発表なさったらどうでしょう。あ、『絵本 BOOKEND』も、今年、図書館に入りました。秋には学会の会長さんが来られるのですから、必読かも。
とある人の「一流大学と二流私大の先生はどちらが偉いでしょうか」などという言葉を数年前に聞いて、いよいよ嫌気が差して離れた私。二流私大の教授など相手にしないのだ、という人間を育てたのは、時代の風潮なのか。
「長い目で見て学力が・・」ということですが、良書主義で40年前からやってきて子どもの学力は落ちてきている、というか二極分化して、特に思考力が落ちている。だから各方面躍起になっているらしいのですよね。これはつまり、すでに調査されていると捉えられませんか?良書主義でやると、長い目で見て学力が落ちることの証拠ではないでしょうか。
2 その方が調査ができるよう、「良い本」の定義についての意見。
ずっと書いてきたように、人は多様な好みを持ち、それも常に揺れ動いています。良いと感じるのは感性であり、『センス・オブ・ワンダー』の通り、感覚が大切で、周囲はそれを認めたいものです。80万都市で、児童図書館が対象範囲にする人が20万として、自分が良い本だなーと感じる本は20万通りあると考えてもいいかなと、私は思います。一つの自治体の予算で揃えられる数には限界がありますので、いろんな本の特徴を研究して、レースの布で覆うように、差別せずに満遍なく揃えていただきたいと、くり返すことにします。図書館で購入する本は、レースの糸の部分にあたります。
子どもは、授業でいやおうなく本に近づくこともあるでしょう。どこをきっかけにして本を楽しむようになるか分かりませんので、「へえ、こんなのもあるんだ。俺でも来ていいんだ」と思えるような、そんな体験を学校図書館でもして欲しい。「こんなの」こそ、その子にとって「良い本」だと思います。
つまり、良い本は幅広くて限定できないのですから、調査は不可能に近いですね。
学校や園でも「みごとな本棚」から、幅広い「みんなの本棚」へ、転換をお願いします。「みごとな本棚」論者も「みんな」に含まれる、ということです。
3 学力が向上する、とはどういうことか
学力は「学ぶ力」であり、いろんな情報を元に自分で新しく考える力だと思います。
ところが、今までこんな風潮がありました。いろんな情報を、元にするのでなく値踏みして、「どの筆者が一番偉い肩書きか」「どれをとれば自分が偉く見えるか」を元に選んで、その一つを選択して美しい言葉で飾り立てて自分の思考にする、という風潮です。それを「学力がつく」と称していた。
「良い本を読めば学力が向上」という情報を、その発言者は情報発信者の肩書きと共に選択して、自分で調査することなく、しかも多様な現場の経験を参考にすることなく、まっすぐ進んでこられたのだと思います。
幾つかの情報を集めたら、選択するのでなく、その情報の内容についても自分で疑って、ゆらゆら揺れながら進んでいきたいと私は思います。ゆらゆらと想像している状態が「学んでいる」最中ではないでしょうか。つまり子どもの「学ぶ力」を育てる物は、子どもの「ゆらゆら感」を刺激したり、刺激して「アハ!」と思えるもの、と思っています。
こう言うとすぐ「ゆらゆら感のある本が良い本」などと進みそうですが、いろんな本を分け隔てなく手に取れる「状態」が、ゆらゆら感を作るのだと念を押します。
この方は人に問われると「学力向上が目的」と答えていらっしゃるのでしょうか。
別の見方を提案します。まず、無心に楽しむために。それから、子どもが、自分で自分の人生を切り開けるように。本はそのための練習道具の中の一つでしかないような気が、します。
「読み手は絵本というフィールドを借りて、自分自身をも全力で表現している」(BOOKENDより引用)するのでしょう。あまたある絵本エッセイもその表現物で、書いた人や本が偉いわけではないのです。
4 先頭に立つという感覚
別ページに書いたように、ボランティア講座では「先に立って子どもを引っ張るのだ」と言われます。ところが、「子どもに寄り添って」とか「半歩前」とか言われ、「どっちなん?」とつっこみたくなりました。図書館は「先頭に立って教育する機関」だと思っている人も、まだいましたね。上下主従の感覚しか持ち得ない人々。子どもは「従」、新人ボランティアも「従」、つねに権力者が「主」という感覚で、自分はどうしても「主」の中にいるのだという思い。
図書館に言いたいです。別に先頭に立ってもらわなくて結構です。公共機関だから中立の立場で調整役になってほしいだけです。
5 今までの検証
数年前まで新潟市の図書館は良書主義でした。発言者の思想そのものです。
誰か1人の感性が命令のように下りてきました。周囲はYes,she can! だったのでしょう。きっとそのように教育されてきたのかと思います。ずっと本棚を見ていた私はよくわかりますし、県立図書館のタイムカプセル状態の本棚を見ても、市立ではないですが 時代の風潮が分かります。
でも、ここ2,3年でやっと変わってきました。図書館は子ども文化を学び受け入れ、憧れの図書館を客観視して、自分で考えるようになってきたと感じています。 一方、過去の教育のままで止まってしまった人は、過去のセオリーをくり返しています。これがその発言者でしょう。図書館員はとても参考にできると思います。
6 回数を増やすこと
「回数を増やすことによって、思想を広める」というやり方が、「協議会の回数を増やせ」という、この発言者の思想に見えます。参加者が極端に少ないのに異様にたくさん事業をやる某図書館や、某サークルのやり方と同じ。心を病んでいく兵隊さんたち。
それはイケイケムードの成長時代に通用したのかも知れません。
まず、関わる人が安心できるように、構築しなおしたいと思います。高みに登った人が「降りていく生き方」に向かわない限り、図書館に人は来ないと思います。
7 これから
本ばかりでなく、子どもの現状を感じ取ってください。先生や仲間の顔色を窺い、いじめにならないように言動に気をつけ、息苦しさから逃れるように爆発する子どももいる。学校図書館こそ変わってほしい。なんとか、保健室のように子ども本来の姿を認めて取り戻したい。
団体生活では、様子が違うといってからかわれることもあるでしょう。それを乗り越える強さは、誰かが自分を認めて支えてくれるからできるような気がします。
でも、その誰かが上に立っていたら、支えることなどできません。横か下にいて一緒にこらえて支えてくれる人。その子の今の状態そのままで、認めてくれる本。
そんな状況を作りたい。ひとりひとりの思いが認められるような状況を作りたい。すぐに効果が現れるものではないし、私たちも不安であるけれど、方向をしっかり転換して欲しいと思っています。
家庭にある本は、子どもが自ら進んで買ったか大人がねだられて買った本でしょう。それらは「子ども文化の本」だと思います。ぜひ、半分はそれらで揃えて欲しい。子どもが遠慮なくリクエストできる環境を作ってほしい。「子ども図書館」として子ども文化を対等に扱っていただきたい。図書館員は自ら「降りて」いってほしい。
8 図書館が良いから引っ越してくる、という言葉について
こんな言葉を驚きと共に聞いたのは数年前。「あれ~、じゃあ他の図書館が同じような設備やレベルになったら、この人はまた、そっちに引っ越すんだろうか?」と不思議でした。その時は憧れたでしょうが、今、その本質に気づいた方も多いのでは。
・文字通り
・新聞紙上をにぎわせる、ベイエリア自治体の住民の税金負担の違い
・今住んでいる町の図書館を育てる楽しみを、放棄した
・自分さえ良ければ、という感覚
ボランティアたちも、今は行き詰っているけれど、自分たちで情報を共有しながら自分たちで考え、育てていこうとしているではないですか。(新人でなく)図書館を育てるという楽しみを持っている。政治家の言葉を使うのは憚られるけれど、
Yes,we can!(weの中には子どもも含まれる)で、しばらくゆらゆら揺れながら、やってみませんか?
これについて、いろいろな方面から書いてみたいと思います。
1「良いものを提供すれば 長い目で見れば学力が向上する」という根拠は?
これは新説だと思うので、根拠を示していただけるとありがたいです。
何か調査がされているのでしょうか。検証することなく感傷的な「美しい物語」に振り回された過去の失敗について、別ページに書きました。
これは物語でなく学問の分野に当たると思います。絵本学会とかで発表なさったらどうでしょう。あ、『絵本 BOOKEND』も、今年、図書館に入りました。秋には学会の会長さんが来られるのですから、必読かも。
とある人の「一流大学と二流私大の先生はどちらが偉いでしょうか」などという言葉を数年前に聞いて、いよいよ嫌気が差して離れた私。二流私大の教授など相手にしないのだ、という人間を育てたのは、時代の風潮なのか。
「長い目で見て学力が・・」ということですが、良書主義で40年前からやってきて子どもの学力は落ちてきている、というか二極分化して、特に思考力が落ちている。だから各方面躍起になっているらしいのですよね。これはつまり、すでに調査されていると捉えられませんか?良書主義でやると、長い目で見て学力が落ちることの証拠ではないでしょうか。
2 その方が調査ができるよう、「良い本」の定義についての意見。
ずっと書いてきたように、人は多様な好みを持ち、それも常に揺れ動いています。良いと感じるのは感性であり、『センス・オブ・ワンダー』の通り、感覚が大切で、周囲はそれを認めたいものです。80万都市で、児童図書館が対象範囲にする人が20万として、自分が良い本だなーと感じる本は20万通りあると考えてもいいかなと、私は思います。一つの自治体の予算で揃えられる数には限界がありますので、いろんな本の特徴を研究して、レースの布で覆うように、差別せずに満遍なく揃えていただきたいと、くり返すことにします。図書館で購入する本は、レースの糸の部分にあたります。
子どもは、授業でいやおうなく本に近づくこともあるでしょう。どこをきっかけにして本を楽しむようになるか分かりませんので、「へえ、こんなのもあるんだ。俺でも来ていいんだ」と思えるような、そんな体験を学校図書館でもして欲しい。「こんなの」こそ、その子にとって「良い本」だと思います。
つまり、良い本は幅広くて限定できないのですから、調査は不可能に近いですね。
学校や園でも「みごとな本棚」から、幅広い「みんなの本棚」へ、転換をお願いします。「みごとな本棚」論者も「みんな」に含まれる、ということです。
3 学力が向上する、とはどういうことか
学力は「学ぶ力」であり、いろんな情報を元に自分で新しく考える力だと思います。
ところが、今までこんな風潮がありました。いろんな情報を、元にするのでなく値踏みして、「どの筆者が一番偉い肩書きか」「どれをとれば自分が偉く見えるか」を元に選んで、その一つを選択して美しい言葉で飾り立てて自分の思考にする、という風潮です。それを「学力がつく」と称していた。
「良い本を読めば学力が向上」という情報を、その発言者は情報発信者の肩書きと共に選択して、自分で調査することなく、しかも多様な現場の経験を参考にすることなく、まっすぐ進んでこられたのだと思います。
幾つかの情報を集めたら、選択するのでなく、その情報の内容についても自分で疑って、ゆらゆら揺れながら進んでいきたいと私は思います。ゆらゆらと想像している状態が「学んでいる」最中ではないでしょうか。つまり子どもの「学ぶ力」を育てる物は、子どもの「ゆらゆら感」を刺激したり、刺激して「アハ!」と思えるもの、と思っています。
こう言うとすぐ「ゆらゆら感のある本が良い本」などと進みそうですが、いろんな本を分け隔てなく手に取れる「状態」が、ゆらゆら感を作るのだと念を押します。
この方は人に問われると「学力向上が目的」と答えていらっしゃるのでしょうか。
別の見方を提案します。まず、無心に楽しむために。それから、子どもが、自分で自分の人生を切り開けるように。本はそのための練習道具の中の一つでしかないような気が、します。
「読み手は絵本というフィールドを借りて、自分自身をも全力で表現している」(BOOKENDより引用)するのでしょう。あまたある絵本エッセイもその表現物で、書いた人や本が偉いわけではないのです。
4 先頭に立つという感覚
別ページに書いたように、ボランティア講座では「先に立って子どもを引っ張るのだ」と言われます。ところが、「子どもに寄り添って」とか「半歩前」とか言われ、「どっちなん?」とつっこみたくなりました。図書館は「先頭に立って教育する機関」だと思っている人も、まだいましたね。上下主従の感覚しか持ち得ない人々。子どもは「従」、新人ボランティアも「従」、つねに権力者が「主」という感覚で、自分はどうしても「主」の中にいるのだという思い。
図書館に言いたいです。別に先頭に立ってもらわなくて結構です。公共機関だから中立の立場で調整役になってほしいだけです。
5 今までの検証
数年前まで新潟市の図書館は良書主義でした。発言者の思想そのものです。
誰か1人の感性が命令のように下りてきました。周囲はYes,she can! だったのでしょう。きっとそのように教育されてきたのかと思います。ずっと本棚を見ていた私はよくわかりますし、県立図書館のタイムカプセル状態の本棚を見ても、市立ではないですが 時代の風潮が分かります。
でも、ここ2,3年でやっと変わってきました。図書館は子ども文化を学び受け入れ、憧れの図書館を客観視して、自分で考えるようになってきたと感じています。 一方、過去の教育のままで止まってしまった人は、過去のセオリーをくり返しています。これがその発言者でしょう。図書館員はとても参考にできると思います。
6 回数を増やすこと
「回数を増やすことによって、思想を広める」というやり方が、「協議会の回数を増やせ」という、この発言者の思想に見えます。参加者が極端に少ないのに異様にたくさん事業をやる某図書館や、某サークルのやり方と同じ。心を病んでいく兵隊さんたち。
それはイケイケムードの成長時代に通用したのかも知れません。
まず、関わる人が安心できるように、構築しなおしたいと思います。高みに登った人が「降りていく生き方」に向かわない限り、図書館に人は来ないと思います。
7 これから
本ばかりでなく、子どもの現状を感じ取ってください。先生や仲間の顔色を窺い、いじめにならないように言動に気をつけ、息苦しさから逃れるように爆発する子どももいる。学校図書館こそ変わってほしい。なんとか、保健室のように子ども本来の姿を認めて取り戻したい。
団体生活では、様子が違うといってからかわれることもあるでしょう。それを乗り越える強さは、誰かが自分を認めて支えてくれるからできるような気がします。
でも、その誰かが上に立っていたら、支えることなどできません。横か下にいて一緒にこらえて支えてくれる人。その子の今の状態そのままで、認めてくれる本。
そんな状況を作りたい。ひとりひとりの思いが認められるような状況を作りたい。すぐに効果が現れるものではないし、私たちも不安であるけれど、方向をしっかり転換して欲しいと思っています。
家庭にある本は、子どもが自ら進んで買ったか大人がねだられて買った本でしょう。それらは「子ども文化の本」だと思います。ぜひ、半分はそれらで揃えて欲しい。子どもが遠慮なくリクエストできる環境を作ってほしい。「子ども図書館」として子ども文化を対等に扱っていただきたい。図書館員は自ら「降りて」いってほしい。
8 図書館が良いから引っ越してくる、という言葉について
こんな言葉を驚きと共に聞いたのは数年前。「あれ~、じゃあ他の図書館が同じような設備やレベルになったら、この人はまた、そっちに引っ越すんだろうか?」と不思議でした。その時は憧れたでしょうが、今、その本質に気づいた方も多いのでは。
・文字通り
・新聞紙上をにぎわせる、ベイエリア自治体の住民の税金負担の違い
・今住んでいる町の図書館を育てる楽しみを、放棄した
・自分さえ良ければ、という感覚
ボランティアたちも、今は行き詰っているけれど、自分たちで情報を共有しながら自分たちで考え、育てていこうとしているではないですか。(新人でなく)図書館を育てるという楽しみを持っている。政治家の言葉を使うのは憚られるけれど、
Yes,we can!(weの中には子どもも含まれる)で、しばらくゆらゆら揺れながら、やってみませんか?
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