自分の欲と向き合って

印刷紙芝居『ふしぎなおとしもの』山本省三・文/絵(教育画劇)をやりたいという希望が出たので取り寄せてみてみました。
これを見て、ずいぶん昔のことを思い出したので書いておきます。

この話は、「ヘドレイのべこコ」『イギリスとアイルランドの昔話』(石井桃子/訳 J・D・バドン/画) の話とほぼ同じです。
金の入った壺→銀→鉄→石・・とびだすおばけ、が語りの本の内容で、
金の入った壺→銀のランプ→石・・とびだすおばけが、紙芝居です。3つの繰り返しが昔話の語法にあるというのなら、紙芝居のほうがそのセオリーに近いでしょう。まあ、どっちを使ってもいいのでしょうが、続けて書きます。

当時、おはなし会でこの話を暗記して語る希望をだされたAさんがおられて、私はそのときのプログラム作成係だったので、その時にこの話を読んでみたのです。
 困ったなと思ったのは、「ヘドレイって何?」「べこコって何?」でした。このまま文字通り語ったとしても子どもには、それどころか私にもわかりはしません。
 それでも「ヘドレイ」という言葉は「イギリスにヘドレイという地方があるみたいだ」「ヘドレイ鉱という鉱物があるみたいだ」と調べました。そして、「で、どっちだろう」と思いました。「べこコ」は「赤べこのべこ、つまり牛のことみたいだよね」ということで納得しました。
で、Aさんにそのことを話して「ヘドレイは、どっちのことですか」とたずねたら、驚かれたのです。「中身まで調べるんだね~」というのがAさんの驚きの理由でした。
 今度は私が驚く番です。「中身がわからないのに語るの?」・・・・・

その頃は、私はプログラムを作るのにも本の片寄りが気になって、異論を言っても通らないどころか話の腰を折られる状態で、投げやりな気分でやっていましたから、「もう、どうでもいいや」とセオリー通りに希望の話を適当に間に入れて他に希望として出された本を並べてやりました。
 話の流れはわかるのですが、こういう言葉の羅列で はたして聞き手が面白いのかどうか、どうして他の人は平気でいるのか不思議で仕方がなかったです。
 現在、この言葉で検索すれば、あちこちのおはなし会でやられているようです。訳者は著名な方だから、とにかく変えてはいけないとそのままやっているのでしょうね。

 なんだか、お笑いに近いものがあると思いませんか?「意味がわからない」「日本の特定地域のベコ”もそのまま」を、大真面目にそのまま子どもに届けるって。
 巻末に「昔話は元の形からはなれれば、はなれるほど、力強さを失ってしまうということです。」という文字があり、それに逆らうのはいけないことだという鎖に縛られているのでしょうか。
 「べこコ」にしてもそうです。「それぞれの土地で文字のない人の口から一字一句も変えないで写しとった昔話は~~略~~替えがたい貴重な材料でしょう。」と書いてあるので「イギリスの人の口から出た方言」→「日本人の方言にあてはめる」という、機械のような変換もされています。
 その巻末の文字だけが切り取られて「べからず集」のようになっていないだろうか。どうしてそのようなことがまかり通っているのでしょうか。

 紙芝居で子どもに語れば、あるいは今の子どもに理解できるようにして語れば、親しみのあることばと不思議な感覚で受け入れられ、楽しんでもらえることでしょう。子どもと本をつなぐのであれば、まず大人が不安を乗り越えて、愛情をもってしなくては何の意味もないでしょう。
 元の形が最高で、最高のものを子どもに届けるのだという意識の中には、間違いを恐れる気持ちと、「私って崇高な人」という自分自身を持ち上げたいという欲望があると思うのです。
 変えることは決して子どもに媚びることではなく、子どもと共にあることだと思います。皆で本を利用して、一歩前に進みませんか?

 

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