勉強しないでボランティアしてる

それについて、話をさせてもらいます。おそらくは、「石倉さんのは宗教だからあんなブログ読むんじゃないよ」などと言われているのでしょう。そのようにしている方には届けられませんが、そうでない方が今後そのように言われたとしても、客観的に判断できると思いますので、書いておきます。 

 かつて、こんな人がいました。自分の習ったことと違う意見を聞くと「あれは宗教だ」「ああ恐ろしい」などと、そうおっしゃるのです。私は当時、その人と同じ図書館研究会にいたので何度もその発言を聞きました。その時は「何いってんだろーなー」と意識の下でぼんやりと思っただけで、それに反対も賛成もせず黙っていました。 それから数年たち、口下手な私が、今、思うことを整理してこうしてブログに書くことができてラッキーです。
 
 まず、誰でも自分の考えを表明できることは、基本的人権として認められています。子どもも大人も同じです。たとえその考えが、後になって間違っていると言われてもそれは仕方がないことで、私を含め誰もが責められる必要はありません。その時はその様に思って発言するのですから、聞く人が各自参考にして行けばいいだけの話で、異論が重なっていくのは健全なことだと思います。
 もちろん言われた方はいい気持ちはしませんし、とてもショックを受けることもあるでしょう。私もそうです。私はそんな時、クローバーを編んで作る飾りを思い浮かべます。次々と、新しい草を重ねて回して作っていったでしょう。異論がああやって重なっていくんだな、と思います。

 ちなみにこの場合の「宗教」というのは、「異論を認めず盲目的にに信じ込むこと」というような意味かと思います。私は、古典絵本や良書を排除の対象にしている訳ではなく、特定のものさしにみんなが引っ張られることに異論を言っています。良し悪しというものさしの他に、好き嫌い、というものさしも重要だと思っていますし、人それぞれその場に応じて違うものさしを使うことが多いのは、体験上わかっているからです。

「恐ろしい」という発言も同じですね。自分が理解できないから相手が恐ろしい人に見えるのです。「恐ろしい」と口にすると、何だか自分が良識派で相手が悪い異星人のように思えてそこはかとない優越感さえ感じることができます。既得権益者が新規参入者を見るとそのように見えるかも知れません。日本が鎖国を解くとき、異邦人が悪魔に見えたことでしょう。

 市の教育ビジョンについても書きます。そこには、リテラシー教育が謳われています。私などが言うのも変かも知れませんが、これだけ変化の激しい現代ですから、一つのことだけが正しいということはなく、いろいろなものを提示して、それに対する応用能力を自分が身につけることや子どもに身につけてもらうことの方に重点が置かれているのです。 新潟市の教育ビジョンそのものが宗教だとおっしゃるのなら、仕方がありませんがね。
 結論として、宗教という言い方が大げさなんではないか、異質の他者と共生する知恵を持つ生涯学習の意識のほうが大事なんじゃないかと、言わせてもらう事にします。

 それから、「勉強しないでボランティアしている」ということについて。

私は長いボランティア活動の年月の間に、「ちゃーんと(独特のアクセントで)勉強しなくちゃね」という言葉を何度も聞きました。「勉強をした方」のみ入会できるボランティア団体も多いですね。特定の派閥に入らないと「勉強しない困った人」と言われて、団体の中がぎこちない雰囲気になったこともありました。

では、新潟市社会福祉協議会のHPを見てみましょう。ボランティアの四原則というのがあります。その2番目に「お互いに支えあい学びあう活動」というのがありますが、「勉強しなくちゃボランティアでない」などとはこれを含め、他の項目にも書いてないのです。
きっと、その発言の真意は、「勉強=先生に習う」というところにあるんじゃないかと思うのです。先生がああ言えばそのように承り、こう言えばその様に言われたままに依存する、ということですね。だから自分はいつも間違わないように、講師は一流でなくてはならないのですね。

 でもね、昨今、一流の講師は、「こうしなさい、ああしなさい」とは、もう言わないのです。常に流動する情報化社会にいるという認識があり、民主化を進め、福祉社会を目指す気持ちがあれば、そうは言わないものです。正しいことなど誰も分からないと知っているからです。相手に考えさせ、その肩を押すところまででおしまいです。相手が望む方向に向かって思考を整理させコーディネートするところまでです。
 
 世の中には、「勉強をすること」「先生から習うこと」に執着する人が多いのはとてもよくわかります。だから、私は「先生から習うんじゃなくて、現場から学ぼうよ」としか言えないのです。
そして、「勉強しない困った人」というその類の言葉は、少し前、「昔ばなし大学」が新潟にやってきた頃、同じように大勢の人が、私のような人間に向かって発した言葉だ、ということを思い出しています。
 私は、その頃、仲間に何と語りかければいいか迷い、結局、口を開くことはありませんでした。もっとも発言したとしても、私などは権威も何もなく「やーね、石倉さん何言ってんの」と相手にされなかったことでしょう。
 その後、その頃の仲間の半分は「学び」の意味に気づいて修正できましたが、「勉強=習い事」の人たちがボランティアの指導者(自分でそう思っている)になって同じことを繰り返しています。あの時、勇気がなくて仲間に言えなかったその「お勉強をすること」の意味を、私は今度こそ話してみたいと思います。

 絵本や紙芝居を学ぶということは、その道具そのものの良し悪しを追求したり研究したりすることだけではないと思います。「絵本セミナー」は絵本の表現そのものの研究に終始するのでしょうか。
 私は言い続けたいのです。それに付け加えて、今の生身の人間や現実を感じ取り、それに自ら降りていく足腰の強さが必要です。知識を持っているというプライドを捨てて、ゼロから相手の気持ちになるということです。
みんな、子どもを育てた時はそうだったでしょう?社会的に蓄積した自分の大人としての実績を捨て、「べろべろばー」と子どもと共に過したでしょう?
 

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