次の語りのために、その話が載っている本を検索して順次借りています。便利な世の中で、パソコンにキーワードを入れると関係する本が一覧表に出てきます。
その中の1冊に『松谷みよ子の本』第8巻がありました。お目当ての話を読んだ後、周辺を読んで、それから あとがきや、本に差し込まれている小冊子などを読みました。こういった本文以外のところに面白いものがあって、とても好きだからです。
小冊子には、春に新潟においでいただいた水谷章三さんの若いころの文章がありました。「日本民話の会」は、最初は子どもの文化研究所で例会をやっていたとのこと、とても驚きました。私も上り下りしたあの細い階段を松谷みよ子も使ったのかな、とちょっとニコッとしました。
あとがきには、先生方同士の生々しいやり取りが書かれていました。「やっぱり。なるほど。これに尾ひれがついて増幅していったんだな」という気持ちです。新潟では、昔ばなし大学の受講生たちが「松谷みよ子はだめなんだって」と口々に言うのを聞いて、「?」と思ったことがありましたが、どうしてそんなことになったのか、その時代の断面が見えたような気がしました。何度もこのブログに書いたのですが、その歴史のひとコマに、私もすれ違ったということでしょう。
昔ばなし大学の再話は「昔話理論に沿うようにあてはめる」ということが指導されるようです。でも、再話というのは理論とは別の人がやることであって、その語り手の体の中から生まれてくるものですから、理論にあうことも合わないこともあります。また、一度生まれた理論は別の人によって次の瞬間破られる、とも思います。そういうことは、伝統に囚われることなく、自分の頭で考えればいいこと。
そして、形が整った再話というのはブレがなく、すっきりとしていて、逆から見るとゆとりやあそびのない人間のようだと思うのです。きちんとしたストーリーテリングの会は過呼吸になりそうだ、という声も多く聞かれます。「一つそれだけ聞くのならいいんだけど、いくつも続くとうんざりする」と、ある人が言っていました。みんなが優等生すぎて息がつまるのです。ノイズのない語りは、優等生から見ると好ましいものかもしれませんが、そうでない人からみると魅力がないのですね。民話が民衆のものであれば、いい加減であったりノイズに満ちていたりして、それが人が語る面白さではないでしょうか。ノイズのない語り(図書館で指導するストーリーテリング)は、民話語りとは別のものになってしまっています。書かれた活字の物語が「おもしろい」と受講生が口々に言う現場を見てきましたが、それは活字や本に寄りかかる弱い人間のサガがそう言わせているようですね。寄りかかる気持ちのない人には「おもしろくない」のかもしれません。
あとがきの中に、「猿のひとりごと」について書かれた部分がありました。私はこの話をNPO法人の語り講座で、講師が語るのを聞きました。「海はええなあー、~~~なり~~~なり」という繰り返し、「うん」という相槌、が印象に残っています。語り舞台でやるような、壮大な語り方でした。
話は、オチがしっかりあるでなく、主人公が冒険するでなく、そういうものを期待していた私にすれば拍子抜けしてしまいましたが、こんな裏話があったのですね。割り切れない、ハッピイエンドでもない、あいまいな話で、「子どもに聞かせる必要のない」「こういうつまらない話をするからおはなし会に子どもが来ないのよ」などと新潟市のストーリテリングをやっている人たちからは叱られそうですね。
最後、「つぶしたカニを団子にするかカニの形にするか」が重要なポイントのようですが、私は、これを聞き取り間違いとは思えませんでした。どっちでもいいし、伝わっていく最中に解釈が変わっていくことなど結構あると思うのです。本を書くような先生方には大事なことかもしれませんが、これもまた息苦しくならないように、私たちはゆったりと構えていてもいいような気がするのですが。