「教育ボランティア」について

ここ数年の図書館の読み聞かせボランティア入門講座は、どうも古典重視主義がそのまま継続されてきているようです。 おまけに、「読み聞かせの先輩たちは新潟の文化程度を上げるために、絵本を選りすぐっている」かのように説明されていないだろうか。
 実は、それは「全体主義」でして、それをやっていくと、ボランティアの心の中に指導者意識がどんどん育っていきます。まるで自分たちは「地域向上のための聖戦士」であるかのようになります。「お国のために」の戦前戦中意識の再来ですね。

 読み方も、正しく絵本を表現することに重点を置いて、子どもの教育に役立てようという意識が前面に出てきます。その結果、自分たちは「教育ボランティア」だと思うようになります。実際に「教育ボランティアの会」なども存在していますね。「教育支援」ならいいんだけど、「ボランティアで教えてあげる」と思っちゃうんだよね。肩に力が入って、間違えないように間違えないように、私は上手いのよ・・・と言わんばかりになっていく。
 でもね、これでは聞き手に嫌われるよ。学校訪問すると「子どもに好かれる」ような気持ちになるのですが、休日のおはなし会では子どもに相手にされない。子どもはほんとにしたたかだよね。そこのところをもう少しよく考えればいいと思うのです。私もずっと考え続けていきます。書いたものを後で読んで、指導者意識みたいなのがあちこちにあって、とても恥ずかしい。

「教育ボランティア」を自称する時に、その言葉に対して何も心の中でひっかかるものがない、というのが怖いです。「自分は偉いから教えるのだ」と自称しているような言葉を、読み込む力がないということ。ほんとに日本語ってむずかしい。
 誰でもやっているうちにそれなりに上手くなっていきますから、安心していいんだと思いますよ。そのほかに、誰かに指導されると、その人のコピーができるばかりだから、指導を仰ぐのでなく自分から学びとっていけば、自分の道が開けてくるかなあと思います。道を開いて、子どもが自分で選ぶ能力を育てるために、その材料になっていくんだと思うと気が楽ですね。

 それからね、司書だといえば尊敬される時代は過ぎました。ましてや「元司書だ」というのは。「司書です」と言って相手が困ったような顔をするのは、「偉い人に出会って困っている」のでなく「司書だと言えば尊敬されると思っている人がまだいる、ということに気づいて困っている」のです。 

本の分け方についても、変わってきているのですよね。
目玉焼き型といいましょうか「読み継がれるような良い本」「これからそうなりそうな本」「その場だけの本」などと分類したり、内容の良し悪しで分類する時代も、もう過ぎていると思っています。代わりに、「子どもが選ぶ材料を増やす、つまり、ピザ型のピザの具を増やす」という考え方になっていって欲しい。だからボランティア入門講座の説明者は、その辺をちゃんと説明してもらえるだろうか。説明者がそう思わないとだめだけどね。
 そうしないと皆、ガチガチの兵隊さんみたいになるよ。私は今でも、図書館が見えない(ことにしている)生々しいボランティアの一番底辺にいます。だから新人兵隊が暴力を振るわれる戦時中のように、「図書館の先生に迷惑をかける恐ろしい人」といわれる暴力にあっています。そのことを、ずっと語り続けてきました。

 本も情報として捉えて内容の種類によって分類すること、こういうのを情報学っていうんでしょうか。そういった意識のある人が指導者になってほしいですね。「読み方」も「上手下手」で分けるのでなく、「語り方の雰囲気」で分けると偏らずにすみます。だからみんな、自分の語りの個性を消さないで。




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