図書館・語り・紙芝居・集団相手の絵本よみ・ボランティアなどについて書きます。
絵解きボランティア
グランドカバーとしての読み聞かせ
原爆や戦争を考える日が続く8月です。しばらく、こんなことをせっせと下書きしていました。みんなが平和に暮らすために、私の考えたことです。やっと今日、アップします。昨日の市報では、黒井健さんが子ども図書館の名誉館長になるということが報じられていました。すこし、安心しました。子ども図書館ですから、子どもが館長になってもいいと思っていたぐらいです。
私は毎日、近所の大きな公園に犬の散歩に行きます。その公園のことから話をします。そこは、20年位前は、地面がむき出しの公園でした。もちろん遊具やちょっとした花壇はありますが、風が吹けば砂埃が舞い上がり日照の時は地面の照り返しもひどく、大人も子どももそのつもりでいなくてはなりませんでした。
10年以上前だったでしょうか、そのころから地域の方々の努力により、芝生が植えられ定期的に芝刈りが行われ、今、広い草原では駆け回る人の姿がたくさん見られるようになりました。グランドカバーが成功したのでしょう。芝生を張るところは見たことがないので、種から撒いて作られた芝生ではないかと思います。もちろん、管理がされていないと芝も花も枯れてしまうでしょう。全て、継続のたまものです。近隣の子どもたちはほとんどこの公園のお世話になっていることでしょう。
絵本の読み聞かせは、これからこういった公園のようになったらいいなと思うのです。部分的にある「花壇」は「集団相手の読み聞かせ(おはなし会)」であり、普通の暮らしにある読み聞かせは「芝生広場」です。こういう場合は「読み聞かせ」ではなく「共に読む」という言葉がぴったりですね。
図書館で「読み聞かせに来てね」と誘うのは「花壇を見に来てね」ということです。「選書がどうの、プログラムがどうの」とモメるのは「花壇に、どのような花をどのように植えるか、花がきれいに見えるためにどのように演出するか」とモメているように思えるのです。関係者にすれば大事ですが、公園利用者にとっては、まあどうでもいいことのように思えてなりません。もっと情けないのは、「変な花を植えたり下手に育てたら、管理者(図書館)の先生のメンツを潰すことになる」などと管理者側に立った住民(ボランティア)が増えたことです。図書館がそのように指導してきた結果でしょう。
おまけに「花(本)はこういうふうに見ましょう(読み込みましょう)ね」などという指導もされています。
まあね、花壇ですから、多少見栄えの良い花を、日照の具合を考えて並べて植えるのは楽しみでしょうが、つまりは見えればいいんですね。だから「なーにこんな本持ってきて、なーにあの読み方、読みが浅いんじゃないの」などと怖い先輩になじられたからといってそうたいしたことじゃないんです。公園利用者からみればね。
花壇の花はそれなりに見栄えがいいほうが場所にあっているのに、集団相手の読み聞かせは「地味な本!古典の本!」と図書館から指導がされました。随分前から「目的に合っていないよ」と言い続けてきたのですが、さて今はどうでしょう。
公園は、芝生が生き生きしているから利用者が増えるんですね。そこで遊べますから。そしてそういう場所で遊びながら、人はいろいろなことを学んでいきます。芝生といっても雑草混じりで、神経質に雑草とりをするのでなく一斉に刈っているから、丈が短く遊ぶのに都合がいいのです。ひょっこり混じった雑草も利用しているのですね。
新潟かみしばいクラブの方々は「私たちは偉くなるためにやるんじゃない」という人が多数です。みんな自分が「芝生」でいいと思っているので「いっしょによもうよとしょかんのほん」みたいにいきなり読むのにも抵抗がないのです。芝生のように、人々が遊べる足元の環境の一部でいいと思う、その気持ちは今も続いていますし、私もそこからあまり考えを変えないだろうと思っています。
絵本の読み聞かせをしたいと集まってくる大人の中には、芝生の立場になりたいと思う方も多いのではないでしょうか。花壇に花を咲かせたいと思う方も多いでしょうが、利用者とともにあるのであれば、花壇も一緒に作る、というのはどうでしょう。確かに立派に花を咲かせるのは大切ですが、品評会のように競い合うような花壇は、普段使いの公園としては近寄りがたいものがあると思います。
花壇もいいのです。好きな人がやればいい。でも、花壇だけが立派で、それがどうしたというのでしょう。利用者は、芝生でのびのびと遊びたいし、いろんな花が植えられた花壇が見たいし、実のなる花であれば実をいじって遊びたいのではないでしょうか。学校へも、そういう花壇を持ち込みたいものです。
今年はクローバーで冠を作る親子連れもいました。花壇では、今年は極小のミニいちごが植えられました。夕方の決まった時間には、顔なじみの3歳位の男の子から、いつも私と犬はいちごを取ってもらって仲良しになりました。
図書館の絵本講座はあいも変わらず、「どんな本がいいでしょうか」「プログラムはどうやって作ればいいでしょうか」と、「司書」に尋ねて言われた通りにしようという人々が押し寄せています。どうして利用者の方を向いて自分で考えようとしないのでしょうか。そして「司書」はいつになったら「教えてあげる」立場を捨てる気持ちになるのでしょうか。
私は毎日、近所の大きな公園に犬の散歩に行きます。その公園のことから話をします。そこは、20年位前は、地面がむき出しの公園でした。もちろん遊具やちょっとした花壇はありますが、風が吹けば砂埃が舞い上がり日照の時は地面の照り返しもひどく、大人も子どももそのつもりでいなくてはなりませんでした。
10年以上前だったでしょうか、そのころから地域の方々の努力により、芝生が植えられ定期的に芝刈りが行われ、今、広い草原では駆け回る人の姿がたくさん見られるようになりました。グランドカバーが成功したのでしょう。芝生を張るところは見たことがないので、種から撒いて作られた芝生ではないかと思います。もちろん、管理がされていないと芝も花も枯れてしまうでしょう。全て、継続のたまものです。近隣の子どもたちはほとんどこの公園のお世話になっていることでしょう。
絵本の読み聞かせは、これからこういった公園のようになったらいいなと思うのです。部分的にある「花壇」は「集団相手の読み聞かせ(おはなし会)」であり、普通の暮らしにある読み聞かせは「芝生広場」です。こういう場合は「読み聞かせ」ではなく「共に読む」という言葉がぴったりですね。
図書館で「読み聞かせに来てね」と誘うのは「花壇を見に来てね」ということです。「選書がどうの、プログラムがどうの」とモメるのは「花壇に、どのような花をどのように植えるか、花がきれいに見えるためにどのように演出するか」とモメているように思えるのです。関係者にすれば大事ですが、公園利用者にとっては、まあどうでもいいことのように思えてなりません。もっと情けないのは、「変な花を植えたり下手に育てたら、管理者(図書館)の先生のメンツを潰すことになる」などと管理者側に立った住民(ボランティア)が増えたことです。図書館がそのように指導してきた結果でしょう。
おまけに「花(本)はこういうふうに見ましょう(読み込みましょう)ね」などという指導もされています。
まあね、花壇ですから、多少見栄えの良い花を、日照の具合を考えて並べて植えるのは楽しみでしょうが、つまりは見えればいいんですね。だから「なーにこんな本持ってきて、なーにあの読み方、読みが浅いんじゃないの」などと怖い先輩になじられたからといってそうたいしたことじゃないんです。公園利用者からみればね。
花壇の花はそれなりに見栄えがいいほうが場所にあっているのに、集団相手の読み聞かせは「地味な本!古典の本!」と図書館から指導がされました。随分前から「目的に合っていないよ」と言い続けてきたのですが、さて今はどうでしょう。
公園は、芝生が生き生きしているから利用者が増えるんですね。そこで遊べますから。そしてそういう場所で遊びながら、人はいろいろなことを学んでいきます。芝生といっても雑草混じりで、神経質に雑草とりをするのでなく一斉に刈っているから、丈が短く遊ぶのに都合がいいのです。ひょっこり混じった雑草も利用しているのですね。
新潟かみしばいクラブの方々は「私たちは偉くなるためにやるんじゃない」という人が多数です。みんな自分が「芝生」でいいと思っているので「いっしょによもうよとしょかんのほん」みたいにいきなり読むのにも抵抗がないのです。芝生のように、人々が遊べる足元の環境の一部でいいと思う、その気持ちは今も続いていますし、私もそこからあまり考えを変えないだろうと思っています。
絵本の読み聞かせをしたいと集まってくる大人の中には、芝生の立場になりたいと思う方も多いのではないでしょうか。花壇に花を咲かせたいと思う方も多いでしょうが、利用者とともにあるのであれば、花壇も一緒に作る、というのはどうでしょう。確かに立派に花を咲かせるのは大切ですが、品評会のように競い合うような花壇は、普段使いの公園としては近寄りがたいものがあると思います。
花壇もいいのです。好きな人がやればいい。でも、花壇だけが立派で、それがどうしたというのでしょう。利用者は、芝生でのびのびと遊びたいし、いろんな花が植えられた花壇が見たいし、実のなる花であれば実をいじって遊びたいのではないでしょうか。学校へも、そういう花壇を持ち込みたいものです。
今年はクローバーで冠を作る親子連れもいました。花壇では、今年は極小のミニいちごが植えられました。夕方の決まった時間には、顔なじみの3歳位の男の子から、いつも私と犬はいちごを取ってもらって仲良しになりました。
図書館の絵本講座はあいも変わらず、「どんな本がいいでしょうか」「プログラムはどうやって作ればいいでしょうか」と、「司書」に尋ねて言われた通りにしようという人々が押し寄せています。どうして利用者の方を向いて自分で考えようとしないのでしょうか。そして「司書」はいつになったら「教えてあげる」立場を捨てる気持ちになるのでしょうか。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 2種類のサポ... | 「教育ボラン... » |
コメント |
コメントはありません。 |
コメントを投稿する |
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません |