『子どもの図書館』はなぜ増刷されないか

『子どもの図書館の大いなる誤読』のページに書いた通り、当時、比較的生活に余裕のある人が、石井桃子の考えを勘違いして「子どもを教育する目的」で文庫を開いていったという事実をここでまた書くことにします。

どうして増刷されないのでしょうか、出版社にすればドル箱の本であるはずなのに。 
これはつまり作者が増刷しないようにした、ということしか考えられないのです。
 最初は、子どもにいろいろなタイプの本を見せて情報を吸い上げて研究して、それを公共図書館に反映させるつもりだったのでしょう。けれどいつのまにか、子どものありようを浄化する目的で本を大人目線で選び抜いて子どもに与えるようになり、それが「崇高な行い」「教育的」になっていったのでしょう。(A)のイラストにあてはまります。石井桃子は、自分でそのことを、激しく反省したのだと思います。

 家庭文庫は個人の趣味であり、個人でやっているうちは個人商店のようなものでオーナーの楽しい世界であり、誰もが認めるものです。個人的営みですから、情報公開の義務もなく、オーナーの考えが子どもに支持されているのかどうかも闇の中なのです。
図書館は、権威に目が眩んできちんとした検証をすることもなく、ただ「子ども文庫をやっている」「かつてやっていた」ということで信用されるようですが、現実はどうだかということを調べない限り、ハリボテの情報をボランティアに広めることになることを認識してほしい。情報の質としては最低レベルであるのだから、ボランティアもそこを疑う目を持ったほうがいい。

 かつて石井桃子は、生身の子どもに対応しようとする庶民的なスタイルになじめなかったのでしょう。近代化の途中で教養がじゃまをして、おやつ絵本のようなものは受け入れられなかったのではないかと推測しています。けれど、ここでそれを非難してもはじまりません。絶版にしたことで、大きなメッセージを発したことは高く評価しています。

 あれから数十年たち、家庭文庫は少なくなりましたが、「子どもを良い本で教育しよう」という勢力は(A)の意識のまま、顕在です。今でも、「本を真摯に選ばないで子どもに届けるのか」と風当たりは厳しいのです。「選ぶ」というのは、「よしあし」の他に「子どもの多様なニーズに応えられるように選ぶ」というものさしが、リテラシー型教育に必要なことなんじゃないでしょうか、と異論を申します。
 

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