昔話を多様な語りで

 以前のページから続けて、昔話について書きます。

1 昔話のテキストについて

三びきの子ブタの昔話で、『イギリスとアイルランドの昔話』に入っているのがもとの形に忠実で、アニメ絵本のものはそうでないのだ、というようなことはよく言われます。『児童サービス論』の片方の本にも書いてありました。

そう言われると、ボランティアはその本の中のものをせっせと暗記することになるのですが、「元の形って何?」という疑問を私はずっと持っていました。
紙芝居をやる人は、いつでもこの改変の問題に突き当たるのです。だからこの問題について誰かが自分の意見を語る必要があると思っていました。
 
民話というのは、常に誰かに利用され変わっていくものですから、アレンジされ長くなったり短くなったり、聞き手の様子によりその都度言い換えられて当然だと思っています。
その本(『イギリスとアイルランドの昔話』に入っている話の、その前は、もしかしたらオオカミが死なない話で、ごく簡単なものだったかもしれないですよね。それをバトンタッチした人が結末を死んだことにしていろいろ付け加えて、たまたまそれが採話され活字になったのかも知れません。ではその前の前はどうだったのでしょう、その前の前の前は?
・ ・・という具合に民話というのは果てしなく語り変えられ、そうして伝わってきたものではないでしょうか。鶏と卵のように、どっちが最初と決められるものではないでしょう。

今、学校でも、子どもが昔話の最後を付け加えて作り直してみるというような授業がされているのを新聞で読んだことがあります。子ども達が笑いさざめきながら突拍子もないオチをくっつけていることを想像して、なんと楽しい授業だろうと思ったことを覚えています。
地域の昔話を廃れさせないようにと大人が子どもに覚えさせるという取り組みも確かに必然から生まれてきたものでしょうが、今までのものをお手本に子どもに押し付けるよりも、子どもが面白がってやるようにするために、大人が工夫し新しく構築していくことや、子どもの発想を取り入れてやる方が、子どもの創造力を養うために良い方法ではないでしょうか。

今、学校などで盛んな読書へのアニマシオンという言葉そのものが、「本を使っての活動全て」だそうですから、読み聞かせも、ブックトークも、語りも、その他もろもろ全て含まれます。大正昭和の時代も、文字を読める人がせっせと本を読んで「むかしむかし・・」と語っていったことはいろいろな本に書いてありました。口承がすたれた今は、民話はそうやって永らえていくんだよねと思います。
「変えないように、間違えないように」とまじめにやる他に、別の道があって当たり前ではないでしょうか。図書館は収集することが仕事であるならば、「これが正しい」ではなく、そういった別の道もあることを収集して、ボランティアに提示してもいいと思っています。

2 語り方について
ストーリーテリングをする時に、テキストをなるべく忠実に覚えた方がよいという意見があります。初心者が無駄なく的確な表現を使ってお話を進めるということが難しいこと、適当な言葉が見つからなくて何度もつっかえたり言い直しをしているうちに筋が混乱するから、というのがその理由です。
 私は、これを逆にとらえています。テキストを忠実に口から出そうとして、おまけに間違えないように緊張するから、結果として文字を思い出せずに何度もつっかえたり立ち往生したりするのではないかというとらえ方です。ですから、自分の言葉で構成しながら話をつなげるという習慣をつけることで立ち往生は防げるのではないかと推測しています。もともと家庭での語りはそういうものだから、家庭と同じようなやり方で公共の場所でもやり、裾野を広げることも重要です。やっていくうちに洗練されていく人、そうでない人、いろいろ存在してよいのではないでしょうか。

 例えば、全国各地で日常的に行われている各種ワークショップなどでの参加者意見発表のことを例に出しましょう。今、私たちボランティアを含めいろいろな人が受けるそれらの集まりでは、それぞれの意見が求められ、初心者であろうとなかろうと、自分の意見を自分の言葉で語ります。それが間違っていようがいまいが周囲はそれを受け止めて、それに対して別な意見を述べます。私がごくたまに参加する集まりでも、どなたも積極的に発言されて言葉もとても巧みであり、またどんな話し方でもその人の人柄が現れて、私は自分が発言するのも忘れて、そういった発言に聞き惚れてしまうのです。
また、学校でも、子ども達はことあるたびに自分の意見を発表するように指導がされています。
そして、そういう子どもがこれから成長して、自分の意見を前面に出しながら生きていくことでしょう。
 こういう状況において、ボランティアで語ろうとしたときに、図書館の方は「初心者だからあなたは的確な表現ができないでしょう。忠実に暗記したほうがいいですよ」とアドバイスするのでしょうか。

 逆転の発想でどうでしょうか。
周囲はまず、「緊張しない語りの環境を作る」こと。上下関係がないと、緊張の度合いが少なく新人でも思ったことを自由に発言なさいます。語りの場も同じように上下関係を作らず、語り手は自分の言葉で意見を述べるのと同じ感覚で、文法がおかしくても何でも、とにかく話の筋に沿って言葉をつなぐ語り方をします。また、普段からそういう練習をし、話の筋を確かめるために本を使えばよいのだと思います。

 「子どもの本を大切にする方々」が危惧しているのは、時流にのって権力者の思う方に語りの内容まで変えてしまうのではないか、ということでしょう。『子どもの文化を学ぶ人のために』にも書いてありましたが、口演童話の過去の失敗ですね。紙芝居も同じように思われています。しかし、失敗したのはそれらのメディアだけでなく、ほかの文化もみんなそうでした。やり方がまずかったのではなく、人それぞれが自分の考えを、権力者に対して媚びて近づいていった結果なのです。まるで図書館員が指導者に媚びて、疑問を持たずに暗誦型を推し進めていったのと同じことではないでしょうか。子育て支援センターの先生までが、私たちボランティアのことを「それらの先生方のお弟子さん」のようにおっしゃったのに呆然としたことがあります。いつの間に保育者にまでそういう思想が刷り込まれていったのでしょう。そうでない人もたくさんいるのですが。

3 ストーリーテリングの現場から子どもの育ちを応援する

 「一生懸命やったものだけが目標にたどり着く」のではなく「楽にできるように知恵を出してみんなが普通に継続してやれるようにする」ことをこれからも提唱していきます。だから、読み聞かせのボランティアも「5回も6回も講習に一生懸命通って立派なボランティアになる」のではなく、「誰でも楽にやれるように、先に始めた人が誰でも渡れる新しい橋を架ける」ことに発想を変えてみたらどうでしょうか。実は、当会は、そのやり方で道を開いてきたんだな、と時々思うのです。絵本や紙芝居が普通に家庭で楽しまれるようになり、道は開けてきました。おはなしも、普通に気楽にできるようにすれば開いていけると思います。

「図書館は、良いものを残す」というのは、「正しい昔話を残す」ことでなく、「果てしのない人間の可能性と自由を残す」という意味ではないかと、そのようなことを、このブログを書き始めたころから言い続けています。大切なのは、人間の能力を育てることであり、昔話を権威化することではないと思います。
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