図書館・語り・紙芝居・集団相手の絵本よみ・ボランティアなどについて書きます。
絵解きボランティア
民の立場・官の立場
2008-02-27 / 資料
集団相手に絵本やおはなしをするイベント、それをいろんな立場から見てみました。
絵本中心型で始めて紙芝居を加え、2団体でやっている自分の目から見た話をします。
昔のことをぐずぐず言うように見えるかもしれませんが、現在の問題を考えるときには、「どうしてそうなったか」と過去にさかのぼるのは大切なことだと思います。歴史を無視して未来は語れない。そして事実を見据えて、次につなげて前向きに進めばいいですね。
1 民間の立場から
絵本研究会から始まった団体、読み聞かせ目的でできた団体、講座を受けた人受けなかった人さまざまです。介護や仕事、子どもの問題で、現実に直面することが多い。自費で出かけていき、立場の保証は何もない。家族の理解がなければ続けることはできません。
聞き手の反応が第一で、それがやりがいになっています。読んだ本に借り手がつけば最高です。ただ、上記のような理由で退会者が続けば、継続しておはなし会をすることができません。
学校からの依頼があるとおはなし会をするのですが、普段、図書館のおはなし会をやっていると、その経験を生かすことが出来ます。学校などに訪問するための練習を、月例会でやっているようなものです。
ところが、逆にもう、学校訪問のための平日に時間を作れる人が極端に少なくなっていきました。団塊世代が入会することもありますが、朗読を聞かせる感覚をうまく調整するには時間不足です。また、教室でも、退屈そうにしている高学年には申し訳ないような気がしていました。また、プログラムを作る段階で、会員同士で折り合いがつかない場合や、会の中で一段高くなる人が出て疲れることも多かったです。
紙芝居活動を再開する前・5~6年も前、ですが、「わたし、この人たち嫌い」と5才くらいの子どもににらまれたことがありました。図書館のおはなし会が始まる時間が迫り、誘って部屋に入ってもらったとたん、その子はそう言って私たちを睨みました。お母さんは慌てふためいて申し訳なさげに退室されました。何があったのかと呆然としながら、自分の心の中にもともとあった「なんとか問題の正体をつきとめたい」というどんよりとした悲しみが、大きくなっていきました。やる前に、嫌われている。楽しいはずなのに何故か後ろめたさがつきまとう感覚、しかもそれを止める事のできない不気味さ、選ぶ本や読み方・プログラムを否定されること、高価な講座に引っ張られる怖さ、皆マイナス要因ばかりです。
そういう活動をしているのですから、新規会員を募るのにも力が入りませんし、説得力はありません。なにもわからない人を引き込んで同じつらい目にあわせるほど私たちは厚顔ではないのです。が、募集しないと会の存続そのものが危うい。何か明るい材料を自分たちで作らなくてはなりません。
明るい材料といえば、聞き手選書で読むスタイルのことです。
黒埼図書館では定着し人数も冊数もボランティアのやりがいも、上昇しました。
中央図書館のおはなしのじかんも、子どもがうれしそうに選ぶこと、その勢いで拍子木をたたいたりする参加型のスタイルが参加者の楽しみにつながります。長時間の枠内を自由に出入りできるようにしているのですが、数組はずっと聞き、途中で入り、おはなしのへやの外から眺め、公園の紙芝居のようです。
「いっしょによもうよ・・」は、開始四カ月ですが、私の感じでは、冊数・聞き手とも、集団・一斉のときよりも上回っていると感じます。実際にやる会員さんごとに、すこしづつやり方が違う。自分でできる範囲で自分で考えてやっている。なにより空いている時間に、自分で本棚を眺められるというおまけが、もれなくついてくる。
「カミシバイハウス」は、「おはなしのじかん」とほとんど同じような感じになりつつあります。もう少し、笑える紙芝居があればいいし、そのように演じられるようになればいい。
プログラムをきちんと作る練習も入門講座の常識でしょうが、常識を壊していきました。学校では、時計を見ながら「もう一冊!」と子どもに言ってもらえるし、ライブ感と参加する意識が出て、高学年でも子どもの視線は穏やかになりました。
団体として活動せず、個人で書店ライブを含めいろんな場所に入るというのが一番、楽です。しかし、万一の場合の交代要員がなければ相手に迷惑がかかりますし、もっとも気をつけたい「独善」になりやすい。また、公的な場所で定例でやっているという、実績と信用は捨てがたいものがあります。ただ、そのことで雑用などが増えるという問題が起こりますし、昨今は、自分のやりたいことだけして、雑用などはパスする人も多いので、その理解もお願いしなくてはなりません。そういった、もろもろの事情をやりくりしながらやっている。
2 官の立場から。私は違う立場ですが、ボランティア講座を思い出して書きます。
A:図書館が主催。図書館員、元職が図書館員、司書、などが講師
B:教育委員会など生涯学習系の役所が主催。多方面から講師がやってくる。大学教授、子育て支援の現場の人、図書館員、他地域のボランティアなど
Aは、図書館のノウハウを市民に伝えて、これに沿ってやるように伝達する場。文献重視型で、この本はどうかと丹念に見ていく。官が民を引っ張るのだという古い思想もあります。絵本作家の表現方法・昔話理論を学ぶコマも入っているが、講師の一方的知識の伝授になりやすい。研究は常に受け手と共に進んでいるわけですから、受講生と意見交換する展開が必要で、講師も現場を学ぶ必要があります。
「一人でも二人でも、一冊でも二冊でも、地味に」というのは、縮小していっても最低限をよしとして現状維持を求めることです。たくさんある図書館サービスのうちの一つなので、聞き手が少なくてもちゃんとやっていればよいのです。本も、安定的支持のある本のほうが、問題が出ない。絵本の読み手になる市民に満足感も与えることができる。職員は、聞き手が少なくても、仕事の一部ですし、やったという実績があれば地位も安定しているしお給料も出る。(スミマセン・・これが決定的違いでしょうか)
しかし、行政側が、聞き手が極端に少なくてもそのままボランティアを使ってやっていればいいというのは、現在では「不作為という怠慢」ではないかと思います。不作為どころか「そーんなことまで考えなくてよろしいんですよ」と、引き止めている場合もありました。
ボランティアが動くのは人的財産を使っているということなので、「利用者がない」というのは財産を無駄に使っていること。渡る人のいない立派な橋をかけるようなものです。本を吟味せよというのは、地域の事情に関係なく橋の工法の水準やデザインを研究者だけで競争し、それを増長し続けていると例えられます。一般市民に「研究者向けの絵本指南書」を推薦する感覚は、まだそのおかしさに気づいていない、ということです。人が幸せに生きるための手段を探すのが図書館の役目だと思いますが、そのために絵本文化もあるのではないでしょうか。それとも、研究者になることが、市民の幸せでしょうか。
それを問題だと感じなかったのは、「一人でも二人でも地味にやっていればいい」と「呪文のように」誰かに言われたせいではなかったでしょうか。口承文芸の唱え言葉のように、耳に残ります。どうしてもそこで思考が停止するのです。そうすると、現在の担当者たちは、被害者でもある訳です。
良くしようと思えば、官側も各種方法を模索するはずですが、わらべうた程度しかその形跡がなく、「本で楽しませよ」と、本に集約し、しかも本自体も古典本に集約する方向がありました。
講座も、入門編・それを受けた人から選ぶステップアップ編、と三角のピラミッドになります。人を増やすのでなく、排除していく集約・集束型です。
自分たちは良いことをしているのだから、分かる人だけ来てくれればいいというのも、マイナスしていくこと。語りの会もマイナスを繰り返した結果、核になる人だけにご案内して行う形になりました。
公共の場所であるが、入場料を自分たちの活動費にするのでなく某財団法人に全部寄付する、というのも初心者にとっては不思議なことで、「学校の常識は世間の非常識」に似ています。透明性を確保されるべく、すでに改善されていることを願っています。この部分は後で詳しく投稿します。
Bは、新潟市は初めてこのタイプのものが昨年行われました。その後のことは、よくわかりませんが、そこから団体が立ち上がったようです。願わくば、Aタイプに引きずられて、同じことをくり返さないようにしてほしいです。
3 子どもの立場から見る
私は子どもではないのですが・・絵本を眺めるのは遊びだなー、と思うよ。やっぱり近くで読んで欲しいね。読み聞かせの人が来たら、本より人を観察する、その方がよく見えるし。自分たちを楽しませようと大人が用意してくれることが、うれしい。自分たちの文化を受け入れてくれそうな人って、なんだか分かる。大人って、子どもが喜ぶことを楽しみに働いているように見えるよ。子どもが受け入れてあげるから、大人は嬉しいんだね。
4 現在の状況から見る
Aパターンの講座を受けたボランティアが、図書館のおはなし会では、圧倒的多数です。そして、自分たちは「過去の官の方針を踏襲しているだけだという意識」が、ない。ないので、長くやっているボランティアが、初心者に、「一冊でも二冊でも~」とAスタイルを唱える現場に、平成20年の今になっても、私は出会いました。 市民活動系路線を行く人であっても口をついて出るのはAパターン。「市民社会」を目指しながら、「官主導」のスタイルをせっせと勧め、勧めることが市民活動だと思っているようです。
一方、図書館側は団体を自立させようとしますが、ボランティアは「一生懸命やってくださってありがとうございます」と言われれば「過去のやり方を一生懸命やればいいのだな」「自分は間違っていないのだな」と幸せになります。ますます依存が強くなり、自立などとんでもないのです。
図書館は、やる価値のある事業ならば利用者が少ないことにもう少し疑問の目を向けたでしょう。その形跡があまりないのだから、ただ官のために回しているだけの事業だったと、そう思うようになったのです。
過去を検証して問題点を明らかにしようとする私などは、「せっかく一生懸命やっている人に水をさす困ったボランティア」にあたります。しかし、官の仕事は、市民の一生懸命の方向に客観性を持たせて、価値をつけていくことではないかと思うのですが、どうでしょう。
図書館を強い支配者層と見て、それに寄りかかることに幸せ感を持つ人は官が想像する以上に多いのです。図書館に感謝され、地域の指導者にも大切にされ、幸せに感じます。その幸せを取り上げる権利など、誰にも、もちろん私にもありません。そのまま共存することに、賛成しています。
そういった循環が、延々と続いています。有能なフリーライターがいれば、取材して本にすることが出来るでしょう。厳しい言い方で申し訳ないのですが、これは戦争中の社会と同じです。
一人二人が続いたりゼロになったとき、その時間をやりくりして自費でやってくるボランティアの悲しみ。おはなしの部屋に入って、この本はどうだと無言の圧力を感じながら30分過ごす子どものとまどい。もともとそこが大人の職場である図書館員の感覚に、それを想像してついていけ、と言うほうが無理だったのでしょうか。
5 公共という感覚で見る
子どもの人権をしっかり理解している人や現実の保護者世代に期待します。現状がおかしいと思う人は、入会しませんし辞めていきます。辞めずに続けるためには、絵本を楽しむのは知識に関係のない楽しみという広い感覚を持って広場に出て行き、受け手から何物かを得て戻れればいいかと思います。その中に、たまに、自分のポリシーが相手に受け入れられればラッキーでしょう。図書館は、ノミの市のように資料を集めて提案する、受け手が各自学ぶ、という施設なのかなと思います。
資料は、本という印刷物に限定されません。おはなしを耳で聞いたり語り手の人柄に触れるのも「資料の提案」でしょう。ネット上の情報も「資料の提案を自分で選択する」ことです。それら全てひっくるめて公共の教育であり学習だと思います。こんなこと、私が言わなくても、大勢の方は分かっていると思いますが。
保育系で著名な講師が『んぐまーま』の文を、読みにくい・これのどこが美しい言葉だろうか、というようなことを『ブックエンド』に書いておられました。先日、新聞で、作者本人が「よみまちがえるように作った」というようなことを書いておられました。私も、指差ししながら文字を拾うように読み、聞くことは、子どもにとっても楽しく面白いことだと感じています。不足分を補おうとするのが想像力を高めることだと思うからです。どちらも対等な意見として、集約・集束にしないでほしいです。
今まで書いたことなど全て関係なく、深く疑うこともなく、図書館は教育機関だと位置づけて、何かを教えるつもりになっている人もいる。官の近くにいれば自分たちは指導者になれる、という無意識もある。ほんとうに人間の欲には限りがなく、皆存在しているのだな、と思います。
こんな風にして書いたけれど、これだってインチキでしかないような気もします。私は、署名活動をしようとか、新聞に投書しようとか、そういうつもりはありません。ただ、これ以上、つらい思いをするボランティアが増えないように、子どもが無理に取り繕う努力をしなくていいように、ここに自分の考えを一方的に書いておきたいのです。星の数ほどあるブログの一本として、です。
絵本中心型で始めて紙芝居を加え、2団体でやっている自分の目から見た話をします。
昔のことをぐずぐず言うように見えるかもしれませんが、現在の問題を考えるときには、「どうしてそうなったか」と過去にさかのぼるのは大切なことだと思います。歴史を無視して未来は語れない。そして事実を見据えて、次につなげて前向きに進めばいいですね。
1 民間の立場から
絵本研究会から始まった団体、読み聞かせ目的でできた団体、講座を受けた人受けなかった人さまざまです。介護や仕事、子どもの問題で、現実に直面することが多い。自費で出かけていき、立場の保証は何もない。家族の理解がなければ続けることはできません。
聞き手の反応が第一で、それがやりがいになっています。読んだ本に借り手がつけば最高です。ただ、上記のような理由で退会者が続けば、継続しておはなし会をすることができません。
学校からの依頼があるとおはなし会をするのですが、普段、図書館のおはなし会をやっていると、その経験を生かすことが出来ます。学校などに訪問するための練習を、月例会でやっているようなものです。
ところが、逆にもう、学校訪問のための平日に時間を作れる人が極端に少なくなっていきました。団塊世代が入会することもありますが、朗読を聞かせる感覚をうまく調整するには時間不足です。また、教室でも、退屈そうにしている高学年には申し訳ないような気がしていました。また、プログラムを作る段階で、会員同士で折り合いがつかない場合や、会の中で一段高くなる人が出て疲れることも多かったです。
紙芝居活動を再開する前・5~6年も前、ですが、「わたし、この人たち嫌い」と5才くらいの子どもににらまれたことがありました。図書館のおはなし会が始まる時間が迫り、誘って部屋に入ってもらったとたん、その子はそう言って私たちを睨みました。お母さんは慌てふためいて申し訳なさげに退室されました。何があったのかと呆然としながら、自分の心の中にもともとあった「なんとか問題の正体をつきとめたい」というどんよりとした悲しみが、大きくなっていきました。やる前に、嫌われている。楽しいはずなのに何故か後ろめたさがつきまとう感覚、しかもそれを止める事のできない不気味さ、選ぶ本や読み方・プログラムを否定されること、高価な講座に引っ張られる怖さ、皆マイナス要因ばかりです。
そういう活動をしているのですから、新規会員を募るのにも力が入りませんし、説得力はありません。なにもわからない人を引き込んで同じつらい目にあわせるほど私たちは厚顔ではないのです。が、募集しないと会の存続そのものが危うい。何か明るい材料を自分たちで作らなくてはなりません。
明るい材料といえば、聞き手選書で読むスタイルのことです。
黒埼図書館では定着し人数も冊数もボランティアのやりがいも、上昇しました。
中央図書館のおはなしのじかんも、子どもがうれしそうに選ぶこと、その勢いで拍子木をたたいたりする参加型のスタイルが参加者の楽しみにつながります。長時間の枠内を自由に出入りできるようにしているのですが、数組はずっと聞き、途中で入り、おはなしのへやの外から眺め、公園の紙芝居のようです。
「いっしょによもうよ・・」は、開始四カ月ですが、私の感じでは、冊数・聞き手とも、集団・一斉のときよりも上回っていると感じます。実際にやる会員さんごとに、すこしづつやり方が違う。自分でできる範囲で自分で考えてやっている。なにより空いている時間に、自分で本棚を眺められるというおまけが、もれなくついてくる。
「カミシバイハウス」は、「おはなしのじかん」とほとんど同じような感じになりつつあります。もう少し、笑える紙芝居があればいいし、そのように演じられるようになればいい。
プログラムをきちんと作る練習も入門講座の常識でしょうが、常識を壊していきました。学校では、時計を見ながら「もう一冊!」と子どもに言ってもらえるし、ライブ感と参加する意識が出て、高学年でも子どもの視線は穏やかになりました。
団体として活動せず、個人で書店ライブを含めいろんな場所に入るというのが一番、楽です。しかし、万一の場合の交代要員がなければ相手に迷惑がかかりますし、もっとも気をつけたい「独善」になりやすい。また、公的な場所で定例でやっているという、実績と信用は捨てがたいものがあります。ただ、そのことで雑用などが増えるという問題が起こりますし、昨今は、自分のやりたいことだけして、雑用などはパスする人も多いので、その理解もお願いしなくてはなりません。そういった、もろもろの事情をやりくりしながらやっている。
2 官の立場から。私は違う立場ですが、ボランティア講座を思い出して書きます。
A:図書館が主催。図書館員、元職が図書館員、司書、などが講師
B:教育委員会など生涯学習系の役所が主催。多方面から講師がやってくる。大学教授、子育て支援の現場の人、図書館員、他地域のボランティアなど
Aは、図書館のノウハウを市民に伝えて、これに沿ってやるように伝達する場。文献重視型で、この本はどうかと丹念に見ていく。官が民を引っ張るのだという古い思想もあります。絵本作家の表現方法・昔話理論を学ぶコマも入っているが、講師の一方的知識の伝授になりやすい。研究は常に受け手と共に進んでいるわけですから、受講生と意見交換する展開が必要で、講師も現場を学ぶ必要があります。
「一人でも二人でも、一冊でも二冊でも、地味に」というのは、縮小していっても最低限をよしとして現状維持を求めることです。たくさんある図書館サービスのうちの一つなので、聞き手が少なくてもちゃんとやっていればよいのです。本も、安定的支持のある本のほうが、問題が出ない。絵本の読み手になる市民に満足感も与えることができる。職員は、聞き手が少なくても、仕事の一部ですし、やったという実績があれば地位も安定しているしお給料も出る。(スミマセン・・これが決定的違いでしょうか)
しかし、行政側が、聞き手が極端に少なくてもそのままボランティアを使ってやっていればいいというのは、現在では「不作為という怠慢」ではないかと思います。不作為どころか「そーんなことまで考えなくてよろしいんですよ」と、引き止めている場合もありました。
ボランティアが動くのは人的財産を使っているということなので、「利用者がない」というのは財産を無駄に使っていること。渡る人のいない立派な橋をかけるようなものです。本を吟味せよというのは、地域の事情に関係なく橋の工法の水準やデザインを研究者だけで競争し、それを増長し続けていると例えられます。一般市民に「研究者向けの絵本指南書」を推薦する感覚は、まだそのおかしさに気づいていない、ということです。人が幸せに生きるための手段を探すのが図書館の役目だと思いますが、そのために絵本文化もあるのではないでしょうか。それとも、研究者になることが、市民の幸せでしょうか。
それを問題だと感じなかったのは、「一人でも二人でも地味にやっていればいい」と「呪文のように」誰かに言われたせいではなかったでしょうか。口承文芸の唱え言葉のように、耳に残ります。どうしてもそこで思考が停止するのです。そうすると、現在の担当者たちは、被害者でもある訳です。
良くしようと思えば、官側も各種方法を模索するはずですが、わらべうた程度しかその形跡がなく、「本で楽しませよ」と、本に集約し、しかも本自体も古典本に集約する方向がありました。
講座も、入門編・それを受けた人から選ぶステップアップ編、と三角のピラミッドになります。人を増やすのでなく、排除していく集約・集束型です。
自分たちは良いことをしているのだから、分かる人だけ来てくれればいいというのも、マイナスしていくこと。語りの会もマイナスを繰り返した結果、核になる人だけにご案内して行う形になりました。
公共の場所であるが、入場料を自分たちの活動費にするのでなく某財団法人に全部寄付する、というのも初心者にとっては不思議なことで、「学校の常識は世間の非常識」に似ています。透明性を確保されるべく、すでに改善されていることを願っています。この部分は後で詳しく投稿します。
Bは、新潟市は初めてこのタイプのものが昨年行われました。その後のことは、よくわかりませんが、そこから団体が立ち上がったようです。願わくば、Aタイプに引きずられて、同じことをくり返さないようにしてほしいです。
3 子どもの立場から見る
私は子どもではないのですが・・絵本を眺めるのは遊びだなー、と思うよ。やっぱり近くで読んで欲しいね。読み聞かせの人が来たら、本より人を観察する、その方がよく見えるし。自分たちを楽しませようと大人が用意してくれることが、うれしい。自分たちの文化を受け入れてくれそうな人って、なんだか分かる。大人って、子どもが喜ぶことを楽しみに働いているように見えるよ。子どもが受け入れてあげるから、大人は嬉しいんだね。
4 現在の状況から見る
Aパターンの講座を受けたボランティアが、図書館のおはなし会では、圧倒的多数です。そして、自分たちは「過去の官の方針を踏襲しているだけだという意識」が、ない。ないので、長くやっているボランティアが、初心者に、「一冊でも二冊でも~」とAスタイルを唱える現場に、平成20年の今になっても、私は出会いました。 市民活動系路線を行く人であっても口をついて出るのはAパターン。「市民社会」を目指しながら、「官主導」のスタイルをせっせと勧め、勧めることが市民活動だと思っているようです。
一方、図書館側は団体を自立させようとしますが、ボランティアは「一生懸命やってくださってありがとうございます」と言われれば「過去のやり方を一生懸命やればいいのだな」「自分は間違っていないのだな」と幸せになります。ますます依存が強くなり、自立などとんでもないのです。
図書館は、やる価値のある事業ならば利用者が少ないことにもう少し疑問の目を向けたでしょう。その形跡があまりないのだから、ただ官のために回しているだけの事業だったと、そう思うようになったのです。
過去を検証して問題点を明らかにしようとする私などは、「せっかく一生懸命やっている人に水をさす困ったボランティア」にあたります。しかし、官の仕事は、市民の一生懸命の方向に客観性を持たせて、価値をつけていくことではないかと思うのですが、どうでしょう。
図書館を強い支配者層と見て、それに寄りかかることに幸せ感を持つ人は官が想像する以上に多いのです。図書館に感謝され、地域の指導者にも大切にされ、幸せに感じます。その幸せを取り上げる権利など、誰にも、もちろん私にもありません。そのまま共存することに、賛成しています。
そういった循環が、延々と続いています。有能なフリーライターがいれば、取材して本にすることが出来るでしょう。厳しい言い方で申し訳ないのですが、これは戦争中の社会と同じです。
一人二人が続いたりゼロになったとき、その時間をやりくりして自費でやってくるボランティアの悲しみ。おはなしの部屋に入って、この本はどうだと無言の圧力を感じながら30分過ごす子どものとまどい。もともとそこが大人の職場である図書館員の感覚に、それを想像してついていけ、と言うほうが無理だったのでしょうか。
5 公共という感覚で見る
子どもの人権をしっかり理解している人や現実の保護者世代に期待します。現状がおかしいと思う人は、入会しませんし辞めていきます。辞めずに続けるためには、絵本を楽しむのは知識に関係のない楽しみという広い感覚を持って広場に出て行き、受け手から何物かを得て戻れればいいかと思います。その中に、たまに、自分のポリシーが相手に受け入れられればラッキーでしょう。図書館は、ノミの市のように資料を集めて提案する、受け手が各自学ぶ、という施設なのかなと思います。
資料は、本という印刷物に限定されません。おはなしを耳で聞いたり語り手の人柄に触れるのも「資料の提案」でしょう。ネット上の情報も「資料の提案を自分で選択する」ことです。それら全てひっくるめて公共の教育であり学習だと思います。こんなこと、私が言わなくても、大勢の方は分かっていると思いますが。
保育系で著名な講師が『んぐまーま』の文を、読みにくい・これのどこが美しい言葉だろうか、というようなことを『ブックエンド』に書いておられました。先日、新聞で、作者本人が「よみまちがえるように作った」というようなことを書いておられました。私も、指差ししながら文字を拾うように読み、聞くことは、子どもにとっても楽しく面白いことだと感じています。不足分を補おうとするのが想像力を高めることだと思うからです。どちらも対等な意見として、集約・集束にしないでほしいです。
今まで書いたことなど全て関係なく、深く疑うこともなく、図書館は教育機関だと位置づけて、何かを教えるつもりになっている人もいる。官の近くにいれば自分たちは指導者になれる、という無意識もある。ほんとうに人間の欲には限りがなく、皆存在しているのだな、と思います。
こんな風にして書いたけれど、これだってインチキでしかないような気もします。私は、署名活動をしようとか、新聞に投書しようとか、そういうつもりはありません。ただ、これ以上、つらい思いをするボランティアが増えないように、子どもが無理に取り繕う努力をしなくていいように、ここに自分の考えを一方的に書いておきたいのです。星の数ほどあるブログの一本として、です。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 当番表・連絡網 | 年度末 » |
コメント |
コメントはありません。 |
![]() |
コメントを投稿する |
![]() |
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません |