以前「倉石侗窩(どうか)の子孫?」という記事を書きました。
上越市の江戸時代に私塾を創った人がいて(上越市の関連ページはこちら)
その人の子孫が私の小学校時代の司書の先生ではないか、という内容です。
数年前に帰省した日、その先生の自宅のあったあたりに行ってみたら 小さな祠と大きな看板があり、やっぱり御先祖は何かの功績のあった人なのだと思ったこと、そしてまた数年後、『ぶら高田』という本を読んで、その人の名前が「倉石侗窩(どうか)」らしい、と知ったこと。
そして数日前、またあのご自宅のあったあたりに行ってみました。看板と本の内容を突き合せてみようと思ったのです。けれど、その看板も祠も見当たらず、キョロキョロと辺りを見回すと、祠があったあたりに小さな土盛がありました。写真で、少し草がまばらになっているように見えるところです。直径は2メートルほど、高さはあの小さな祠が隠れるような50センチくらいです。周囲は舗装されていない駐車場でした。その一画だけ土盛りなのでそこに車は停められないでしょう。
有数の豪雪地帯であり、昨今は温暖化のせいか雨風もひどいのでしょう。あの大きな看板は管理が難しいのかもしれません。また、石の祠はいたずらでどんなトラブルがおこるか分かりませんから、とにかく今の住人の安全第一という気持ちが伝わってきます。司書の先生のお墓はどこか別にあるのでしょうから、土盛があるだけでも、地域の記憶に残るかもしれません。このブログも、その一つになればいいと思います。
(ネット上をもう少し探したら、倉石侗窩の正式な石碑は金谷山にあること、それから屋敷跡は隣りの倉庫を含む場所らしいと分かりました。またご子孫もおられる様子、失礼しました。前島密から検索していけばいいのですね。でも、普通に検索すると私のブログの方が先に出てしまうので、前の投稿も直しておきます。すみません。)