「覗き眼鏡」で本を検索していくうちに、鶴見俊輔の本『限界芸術論』(筑摩書房)もヒットしました。眺めるだけかも知れないけどいちおう見るだけ見てみようと思い、腰が引けた状態で取り寄せてみました。「のぞき眼鏡」の部分は当て外れでしたが、限界芸術という言葉や大衆芸術の説明があり、なーんだ、私が思ったのと同じだったじゃん、などと安心しています。以前、「紙芝居の窓」のブログの「選書」に書いたのと同じイメージでした。
その本の中で説明されている部分を書きます。
{今日の用語法で「芸術」とよばれている作品を、「純粋芸術」とよびかえることとし、この純粋芸術にくらべると俗悪なもの、非芸術的なもの、ニセモノ芸術と考えられている作品を「大衆芸術」と呼ぶこととし、両者よりされに広大な領域で芸術と生活との境界線にあたる作品を「限界芸術」と呼ぶことにして見よう。
純粋芸術は、専門的芸術家によってつくられ、それぞれの専門種目の作品の系列にたいして親しみを持つ専門的享受者をもつ。大衆芸術は、これもまた専門的芸術家によってつくられはするが、制作過程はむしろ企業家と専門的芸術家の合作の形をとり、その享受者としては大衆をもつ。限界芸術は、非専門的芸術家によってつくられ、非専門的享受者によって享受される。}
そして、その後、限界芸術の重要性などが書かれています。柳田国男の限界芸術の研究も、諸様式に切り離さずにたとえば共通な地下道を見つけていくような方法で研究され、それらが日本人の集団生活様式として位置づけられていることに注目しています。
私が「紙芝居の窓」の「選書」に書いたイラストですが、目玉焼きの黄身のところが純粋芸術で、白身の固い部j分が大衆芸術、白身のゆるい部分や周辺のお皿などが限界芸術にあたります。本の中では、純粋芸術と大衆芸術が「するどく引き裂かれている」のも、歴史上よくみられることなどと書かれていて、「ほんとにそうなんだよね」と私は納得するものがあるのです。絵本の研究者が、紙芝居の絵を批判したり、最近の絵本を「絵本の温暖化」などと書いてしまうのも、「専門的享受者」の苛立ちにちがいないと思っています。
そういう人たちは、学識もあるのだから、こういった哲学的な知識もあるだろうに、どうしたことでしょう。もちろん図書館も「司書は専門家だ」という立場で「純粋芸術」至上主義に長いあいだ留まっていました。限界芸術が下支えしているということに気づいてくださったでしょうか。アマチュアリズムの頁で筆者が書いていることも、限界芸術の説明なんだろうな、と考えています。