第二芸術

2013年の1月に日報に載った「日本文学研究者 ドナルド・キーンさんのインタビュー」の切り抜きを、最近いただきました。共同通信の配信記事でしょうか。

昔、俳句は流派に偏って退屈な文学だと論争があったこと、俳句のように言葉を簡潔にして表現することを第二芸術と言うこと、市民が既存の芸術を鑑賞するばかりでなく自分で身の回りの世界を表現して楽しむこと。外国にはそういう文化はあまりないこと。
私の把握が間違っているかも知れませんが、そんなことが書いてありました。それについての反論もどこかにあるでしょう。大衆文化のことをそういうのかな、と思ってみたりしました。

思い出すのは、そういう短文形式の俳句のような芸術のこと、いわば「引き算の美学」のような表現についててす。それは、紙芝居脚本にもよく例えられる考え方だということは『絵芝居』誌や研究者の発言でよく聞きました。
また、記事にあるように、自分の生活に根差した作品を作って周囲に発表するという素人でもできる楽しみ方は、民話や手作り紙芝居の活動にも通じるものがあると思いました。

NPO法人語り手たちの会で 「芸術としての語り」という分野の活動があるのは何となく知っています。この場合は、第二ではなく第一(主流派?)といいましょうか、鑑賞に値するようなプロの語り、ということでしょう。
私のようなボランティアの語りは、第二芸術だなー、と思います。参加型の語りもそうみたいに思えます。
民話語りは、市民(大衆)の語りだからもともとが第二芸術なんだろうけど、「ストーリーテリング」という名札をつけて第一芸術という高みに登りたかったのかなあ、と思っています。第一芸術だから「まちがえちゃいけない」と、真面目に活字を暗記するようになったんじゃないかなあ。

先だって、ボランティアの交流会で、高学年向けの読み聞かせについて話が及んだ時、私が「参加交流型、笑いを取り入れてその次にしっかりしたおはなしを入れる」みたいな発言をしたら、「場がもりあがることよりも、心に残るもの」という反論がありました。

特に高学年では、第一芸術のように語って(読み聞かせして)、しっかりと深い物語を届けたい、という方針なのでしょう。子どももそういうものを求めているだろうし。笑いで息を抜いておいて、その次にストーリー性重視のものをやればいいんだよ、って言ったつもりだったんだけど、その場にいた方は「だから紙芝居はおちゃらけてんのよ」と思われたことでしょう。自分の利益より相手の利益を優先させるボランティアの気持ちも、理解してほしかったです。
 脳科学でもそういうことは言うでしょう?ピカピカと刺激を与えておいて脳を活性化させれば、次のものが入りやすいんだよね。
一日の授業をおはなし会に例えると、朝学習は導入(つかみ)にあたります。だから笑いや刺激を届けることは「次」がやりやすくなるから、大切だよね。
「とにかく真面目に隙間なく無駄なく良いものだけを」という意識を、教育現場はどうしても捨てられないんだな、と思いました。それをやっている限り、図書館は子どもに嫌われるんじゃないかと思います。「子どもの文化」を無視していることだからね。

 

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