図書館・語り・紙芝居・集団相手の絵本よみ・ボランティアなどについて書きます。
絵解きボランティア
市立幼稚園図書室
市立幼稚園の子育て支援に訪問しています。そこの本の部屋は保護者が関わって運営しておられます。ずっと昔はいわゆる良い本だけ置かれてほとんど動かないものでしたが、ここ数年はいろいろな本が置かれて楽しく拝見していました。
ところが19年の年度最初に行った時に、棚の様子が一変していたのです。たまたま居合わせた委員さんに尋ねたら、「自分は勉強不足で」と悲しそうに語尾をにごされ、絶版になった古い本をダンボールから出して並べていらしたのです。
なぜ、そういうことが起こったか。園は「変わった事はしていない」とのことでした。
(このページは別ブログから引っ越した時に、この最初の部分が消えてしまい、あとで書き足しました。19年末には、新旧取り混ぜた魅力的な棚になったことを、ここに書いておきます。保護者の方々はどんな感想をお持ちでしょうか)
自分から園に、「このように書きましたよ」と連絡し、それに対して述べたのが次ページの「市立幼稚園図書室その2」です。
さて、20年度、絵本の会がらがらどんは、継続して訪問を認めていただけるでしょうか。
以下、その意見です。
また箇条書きで私の意見を言わせていただきます。
1 人に例えて。
本にはそれぞれ人格にあたる本の性格があり、人に例えれば優良で平均的な子どもだけ揃えて、そうでない子どもは排除する、というのでは困ります。品格と表現したボランティアもいましたが、高潔な品格を持つ人間だけが存在すればいいというものではありません。人間誰でも、いいときも危うい時もあるからです。
2 親の不安。
園の現在の古い本に興味を示さない子どもも多いでしょう。親は「園にある良い本に興味がないのでは、この子はダメな子どもではないか」と不安がるでしょう。それが自分の子どもを受け入れられない原因にもなりかねません。園であっても幅広く、どれかの本に興味を示してくれるように、また、自分の知っているものがどこかに見つけられるように、配慮するのがあたりまえだと思います。そこから本との付き合いがはじまるからです。
3 子どもの権利。子どもを守る、という箇所について。
「A.有害な情報から守る」「B.情報遮断から守る」ということです。Aは極端に有害なものから守るということで、これはよく理解されています。
Bについて。
権力者というのは、自分に都合の悪い情報を隠そうとします。この場合、新しい本を遮断して隠し、自分の好みに誘導しようとすることです。こういう状態から子どもを守りましょう、と言う意味の「守る」です。
ところが最近までBがAと一緒くたにして捉えられていました。つまり、評価の定まらない本(それを有害な情報と混乱させ)を見せるのは子どもにとって無益なことだからなるべく本棚に置かず、まっすぐ良い本に向かうようにする。有害な情報から守る)のがいい、ということです。
それを市民に納得させるのが「勉強を進める」ことで、了解することで「あなたは勉強が進んだのね」と言ってほめていました。
ところがそれは、今では、子どもの知る権利を奪うという見方になり、人権宣言に反しているということを理解していただきたいです。人権侵害にあたります。
また、自分の好み、評価の定まった本だけあればいいというのは、究極の「自分さえ良ければ」にあたります。見苦しいことです。先生はご自分の良心を、もう一度奮い立たせていただきたい。
4 1人持てば他の子も同じ本を持てるように、という保育の論理について。
『おとうさんはウルトラマン』みやにしたつや/作(学研)のシリーズの本がわずかながら隅にありました。で、その本を見つけた子、同じものを見たがる子、は混乱しますね。その本の複本を他のように5,6冊揃えてなくてはなりません。最初からなくてはおかしいですね。それはちょっとダメだわ、とお思いですか。
それこそが表現に対する重大な差別で、公共の教育機関が本の差別をしているということになり、大問題になると思います。このブログは全国多数の方に見ていただいています。
5、6人以上、10人100人の子どもが騒いだら、複本を100冊入れますか?そうではない、順番に待ちましょうというのが教育というものではないでしょうか。 その理由は、どなたかの仰ったことをオウムがえしに言っているのではないですか。
先生が子どもの気持ちを研究・理解せずして、親が子どもの味方にならなくて、一体だれがなってあげられるでしょうか。自分の文化を理解し受け入れてもらってはじめて、子どもは生き生きとして相手の文化も知ろうとするのではないでしょうか。先生は、子どもや保護者の味方になって、ご自分でも学習を重ねて権威者に対応していただきたいと思います。
5 子どもが本を選ぶ力について
「最初に良いものを与えれば、子どもは自然に良いものを選んでくるようになる」・・C
「子どもは本来、本物を選ぶ力がある」・・D
と両方習いました。私はそのときCとDは矛盾しているのではないかと思ったのです。Dが真実ならば、雑多なものを最初から与えても、その中からめいめいの本物を選んでくるでしょう。最初にある種のものを限定することは「刷り込み」にあたり、もしもその刷り込みが間違っていたらどうするのでしょう。
6 「私は勉強不足で」とおっしゃる委員の方へ。
それは数年前の私たちと同じ姿です。今回のことで、教える側の論理にも、無理なものがあることがお分かりになったでしょうか。このブログ(新潟かみしばいクラブのブログ)の他のページにも書いてあります。ある権威者の言うなりになることを「勉強する」「学ぶ」と勘違いする方は多いのです。
今、私たちは自信を持って言います。勉強不足でも楽しめる図書館でなくては人は来ませんし、使いませんし、それは税金の無駄遣いです。一般市民として言わせていただきます。保護者は毎月お金も本のために積み立てているのですね。
子どもは誰でも勉強不足で、そこから始めます。どういう段階の子どもでも楽しめるように本は揃えていただかなくてはなりません。
他人を「勉強不足ね」と評価する先生が、実は最新の子ども学を勉強していないという悲劇です。
7 話し合いはいつされたか。
現在5月の中旬です。4月の新学期から1カ月しか経っていません。役員が決まってまだ数週間でしょう。委員の方もまだ不慣れな様子ですが、これだけ書棚を変革するために、園は保護者とどれだけの話し合いをなさったのでしょうか。双方の合意でやったとは到底思えないのです。それが民主的なやり方でしょうか。反論には「あなたは勉強不足なのね」などとおっしゃるでしょう。園のやり方は、子どもや保護者を無視して権威者に擦り寄った結果で「みごとな選書」をなりふり構わず押し通したのだと推測します。利用のない図書館になってもいいということです。
8 パートナーとして。
私は部外者ですし、私の考えが間違っているかも知れません。部外者で自分の子どもの利害に関係ないので客観的な批判を言える立場です。そして、学校や園は保護者と対等なパートナーだという立場ははっきりしています。
ですから、保護者の方はそれぞれのお考えをもって、遠慮せずに意見をおっしゃってください。これからは講演会としてある特定な意見を鵜呑みにするよりも、その時間を市民自ら考え討論する時間に当てたほうが合理的だと思います。それをくり返すことにより、大先生の意見も雑多な意見の一つと客観視できるようになります。権威主義から民主的に自分たちで治める(自治)に移っていってほしいものです。
園側は、大ごとになる前に、昔の権威者の意見も一市民として平らに尊重し、なお現実の子供をしっかり見て、それぞれが共にある図書室を工夫しながら育てていただきたいと思います。本棚は常に動いているほうが自然でしょう。書庫ではありません。かつてのほとんど借り手がなかったという状態に戻したいのですか?
権威者の意見を押し頂くのでなく、中立の立場でバランスをとる努力をなさるべきです。ボランティアに権威者の名前をちらつかせても、もう、誰も気にしないでしょう。歴代園長の写真を飾るのも、市民の奉仕者たる公務員を奉るのは立場が逆で無駄なお金の使い方だという批判があるのを、思い出してください。
古典ものが好きだという方も、今どきの本が好きな方も、子どもも、皆尊重されるようアイデアを絞ればいいだけです。はっきり言います、本が偏っています。
9 複本の問題。
もうすぐ6月です。『コッコさんとあめふり』だったか、「季節には多く読み聞かせに使われるから、図書館は複本を多くそろえて」と、市立図書館のボランティア交流会で意見が多く出た年がありました。そのとき私は、割り切れないものを感じていましたので、それには同調しませんでした。もちろん反論もできなかった。それから少し進歩(後退?)したのかな。
ところが19年の年度最初に行った時に、棚の様子が一変していたのです。たまたま居合わせた委員さんに尋ねたら、「自分は勉強不足で」と悲しそうに語尾をにごされ、絶版になった古い本をダンボールから出して並べていらしたのです。
なぜ、そういうことが起こったか。園は「変わった事はしていない」とのことでした。
(このページは別ブログから引っ越した時に、この最初の部分が消えてしまい、あとで書き足しました。19年末には、新旧取り混ぜた魅力的な棚になったことを、ここに書いておきます。保護者の方々はどんな感想をお持ちでしょうか)
自分から園に、「このように書きましたよ」と連絡し、それに対して述べたのが次ページの「市立幼稚園図書室その2」です。
さて、20年度、絵本の会がらがらどんは、継続して訪問を認めていただけるでしょうか。
以下、その意見です。
また箇条書きで私の意見を言わせていただきます。
1 人に例えて。
本にはそれぞれ人格にあたる本の性格があり、人に例えれば優良で平均的な子どもだけ揃えて、そうでない子どもは排除する、というのでは困ります。品格と表現したボランティアもいましたが、高潔な品格を持つ人間だけが存在すればいいというものではありません。人間誰でも、いいときも危うい時もあるからです。
2 親の不安。
園の現在の古い本に興味を示さない子どもも多いでしょう。親は「園にある良い本に興味がないのでは、この子はダメな子どもではないか」と不安がるでしょう。それが自分の子どもを受け入れられない原因にもなりかねません。園であっても幅広く、どれかの本に興味を示してくれるように、また、自分の知っているものがどこかに見つけられるように、配慮するのがあたりまえだと思います。そこから本との付き合いがはじまるからです。
3 子どもの権利。子どもを守る、という箇所について。
「A.有害な情報から守る」「B.情報遮断から守る」ということです。Aは極端に有害なものから守るということで、これはよく理解されています。
Bについて。
権力者というのは、自分に都合の悪い情報を隠そうとします。この場合、新しい本を遮断して隠し、自分の好みに誘導しようとすることです。こういう状態から子どもを守りましょう、と言う意味の「守る」です。
ところが最近までBがAと一緒くたにして捉えられていました。つまり、評価の定まらない本(それを有害な情報と混乱させ)を見せるのは子どもにとって無益なことだからなるべく本棚に置かず、まっすぐ良い本に向かうようにする。有害な情報から守る)のがいい、ということです。
それを市民に納得させるのが「勉強を進める」ことで、了解することで「あなたは勉強が進んだのね」と言ってほめていました。
ところがそれは、今では、子どもの知る権利を奪うという見方になり、人権宣言に反しているということを理解していただきたいです。人権侵害にあたります。
また、自分の好み、評価の定まった本だけあればいいというのは、究極の「自分さえ良ければ」にあたります。見苦しいことです。先生はご自分の良心を、もう一度奮い立たせていただきたい。
4 1人持てば他の子も同じ本を持てるように、という保育の論理について。
『おとうさんはウルトラマン』みやにしたつや/作(学研)のシリーズの本がわずかながら隅にありました。で、その本を見つけた子、同じものを見たがる子、は混乱しますね。その本の複本を他のように5,6冊揃えてなくてはなりません。最初からなくてはおかしいですね。それはちょっとダメだわ、とお思いですか。
それこそが表現に対する重大な差別で、公共の教育機関が本の差別をしているということになり、大問題になると思います。このブログは全国多数の方に見ていただいています。
5、6人以上、10人100人の子どもが騒いだら、複本を100冊入れますか?そうではない、順番に待ちましょうというのが教育というものではないでしょうか。 その理由は、どなたかの仰ったことをオウムがえしに言っているのではないですか。
先生が子どもの気持ちを研究・理解せずして、親が子どもの味方にならなくて、一体だれがなってあげられるでしょうか。自分の文化を理解し受け入れてもらってはじめて、子どもは生き生きとして相手の文化も知ろうとするのではないでしょうか。先生は、子どもや保護者の味方になって、ご自分でも学習を重ねて権威者に対応していただきたいと思います。
5 子どもが本を選ぶ力について
「最初に良いものを与えれば、子どもは自然に良いものを選んでくるようになる」・・C
「子どもは本来、本物を選ぶ力がある」・・D
と両方習いました。私はそのときCとDは矛盾しているのではないかと思ったのです。Dが真実ならば、雑多なものを最初から与えても、その中からめいめいの本物を選んでくるでしょう。最初にある種のものを限定することは「刷り込み」にあたり、もしもその刷り込みが間違っていたらどうするのでしょう。
6 「私は勉強不足で」とおっしゃる委員の方へ。
それは数年前の私たちと同じ姿です。今回のことで、教える側の論理にも、無理なものがあることがお分かりになったでしょうか。このブログ(新潟かみしばいクラブのブログ)の他のページにも書いてあります。ある権威者の言うなりになることを「勉強する」「学ぶ」と勘違いする方は多いのです。
今、私たちは自信を持って言います。勉強不足でも楽しめる図書館でなくては人は来ませんし、使いませんし、それは税金の無駄遣いです。一般市民として言わせていただきます。保護者は毎月お金も本のために積み立てているのですね。
子どもは誰でも勉強不足で、そこから始めます。どういう段階の子どもでも楽しめるように本は揃えていただかなくてはなりません。
他人を「勉強不足ね」と評価する先生が、実は最新の子ども学を勉強していないという悲劇です。
7 話し合いはいつされたか。
現在5月の中旬です。4月の新学期から1カ月しか経っていません。役員が決まってまだ数週間でしょう。委員の方もまだ不慣れな様子ですが、これだけ書棚を変革するために、園は保護者とどれだけの話し合いをなさったのでしょうか。双方の合意でやったとは到底思えないのです。それが民主的なやり方でしょうか。反論には「あなたは勉強不足なのね」などとおっしゃるでしょう。園のやり方は、子どもや保護者を無視して権威者に擦り寄った結果で「みごとな選書」をなりふり構わず押し通したのだと推測します。利用のない図書館になってもいいということです。
8 パートナーとして。
私は部外者ですし、私の考えが間違っているかも知れません。部外者で自分の子どもの利害に関係ないので客観的な批判を言える立場です。そして、学校や園は保護者と対等なパートナーだという立場ははっきりしています。
ですから、保護者の方はそれぞれのお考えをもって、遠慮せずに意見をおっしゃってください。これからは講演会としてある特定な意見を鵜呑みにするよりも、その時間を市民自ら考え討論する時間に当てたほうが合理的だと思います。それをくり返すことにより、大先生の意見も雑多な意見の一つと客観視できるようになります。権威主義から民主的に自分たちで治める(自治)に移っていってほしいものです。
園側は、大ごとになる前に、昔の権威者の意見も一市民として平らに尊重し、なお現実の子供をしっかり見て、それぞれが共にある図書室を工夫しながら育てていただきたいと思います。本棚は常に動いているほうが自然でしょう。書庫ではありません。かつてのほとんど借り手がなかったという状態に戻したいのですか?
権威者の意見を押し頂くのでなく、中立の立場でバランスをとる努力をなさるべきです。ボランティアに権威者の名前をちらつかせても、もう、誰も気にしないでしょう。歴代園長の写真を飾るのも、市民の奉仕者たる公務員を奉るのは立場が逆で無駄なお金の使い方だという批判があるのを、思い出してください。
古典ものが好きだという方も、今どきの本が好きな方も、子どもも、皆尊重されるようアイデアを絞ればいいだけです。はっきり言います、本が偏っています。
9 複本の問題。
もうすぐ6月です。『コッコさんとあめふり』だったか、「季節には多く読み聞かせに使われるから、図書館は複本を多くそろえて」と、市立図書館のボランティア交流会で意見が多く出た年がありました。そのとき私は、割り切れないものを感じていましたので、それには同調しませんでした。もちろん反論もできなかった。それから少し進歩(後退?)したのかな。
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