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 ♪♪♪ H.Tokuda

電話

2017-04-02 23:54:46 | エッセイ


 携帯電話が普及し始めた頃は、警察無線みたいに大きくて、それを持つ人は専用のホルダーでベルトに装着していた。よほど迅速な連絡が必要な、特殊な職業の人だけが使用する物だと思っていた。まさか自分が電話(スマホ)を持ち歩くことになるなんて、夢にも思わなかった。
 ほんとに電話の進歩はめざましい。僕らが子供の頃、テレビ電話なるものがマンガに登場していたが、こんなのは空飛ぶ自動車やタイムマシンと同様に、ずっと遠い未来の話だと思っていた。

 僕の好きな歌にこんな歌詞がある。
♪ ダイヤルしようかな 
 ポケットにラッキーコイン
 ノートに書いたテレフォンナンバー
    尾崎亜美「マイ・ピュア・レディ」

 ポケットの中に十円玉を見つけて、それで公衆電話を掛けてみようかと思い立つ。ノートを見なければ番号が分からないくらいだから、まだそれほど親しい間柄でもないのだろう。どんな想いでダイヤルを回し、どんな話をするのだろう。想像力をかきたてられる。
 大学生時代、十円玉や百円玉をいっぱいポケットに入れて電話ボックスへ向かい、遠く離れた彼女と話していたことを思い出す。まだテレフォンカードすらなかった時代だ。彼女の部屋には電話がなく、下宿の大家さんに取り次いでもらっていた。カタンカタンと硬貨が消費される音を聞きながら、早口で言葉を選びながら喋った。
 中学生や高校生の頃、友達の家に電話をかけると、たいていはお母さんが出て、「あ、徳田くん。久しぶりやね。元気?」などと、ひとしきり挨拶を交わしてからでないと取り次いでもらえなかった。ガールフレンドの家に電話をして、たまたまお父さんが出たりすると、何だか気まずい感じだった。話の内容を家族に聞かれたくないので、電話機のコードを思いっきり伸ばして隣の部屋へ引き込んだ。今の中学生や高校生は、こういった試練も、大人とのちょっとした付き合い方なんてことも知らないんだろうな。

 最近はメールやSNSなどを使って連絡を取り合うため、仕事以外で電話をかけることが少なくなってしまった。以前は電話が苦手だった僕も、少し寂しく感じることがある。
 たとえ遠く離れていても、電話だと今の時間を共有しているという同時性を味わうことができる。話せばすぐに答えが返ってくるし、相手の声の表情や微妙な息づかいまで感じ取ることができる。メールやラインでいくら顔文字やスタンプを駆使したって、こうしたライブ感は表現できないだろう。

 先に「マイ・ピュア・レディ」の歌詞を書いたけど、他にも電話が登場する歌は数多くある。同じく尾崎亜美の「オリビアを聴きながら」。「夜更けの電話、あなたでしょう」と推測しているけど、今なら誰から掛かってきたのか、考えなくてもすぐ分かる。
 チェッカーズの「涙のリクエスト」。最後のコインに祈りを込めて、公衆電話から深夜放送のリクエスト番組に電話を掛けている。今の若い人にはまったく意味が解らないだろうな。
 「ダイヤル回して、手を止めた」というのもあった。スマホならピッとワンプッシュ。手を止めたって手遅れだ。相手が出るまでに慌てて切っても、着信履歴ですぐに分かってしまう。(笑)

 昔は電電公社からの貸与品だった無個性の黒電話。人差し指でダイヤルをジーコジーコと回す、あの感触が懐かしい。今から思えばいろいろと不便な点はあったにせよ、当時としては最も迅速で確実な通信手段だった。電話というメディアを通じて、数々の人々が繋がり、喋り合い、愛を語り合ったり、あるいは喧嘩をしたり、様々な人間ドラマが繰り広げられてきたことだろう。
 今では僕みたいなおじさんまでもがSNSに浸って電話離れ。またひとつの文化が消え去っていくような気がする。

好きな詩人 谷川俊太郎

2017-03-25 03:36:50 | エッセイ


 彼の姓は「たにがわ」ではなく「たにかわ」だそうである。以前テレビで司会のアナウンサーが「たにがわしゅんたろうさんです」と紹介した時、「いいえ、ぼくは、たにかわです」と、わざわざ訂正していた。やはり言葉を大切にする人は違う。
 谷川俊太郎は1952年に「二十億光年の孤独」と題する詩集でデビューした。人間の内的感情を宇宙的広がりの中に同化させようとする独特の作風はきわめて斬新なもので、当時の人々をあっと驚かせたという。あの三好達治も深く感動し、「二十億光年の孤独」の冒頭に寄稿詩を掲載することを自らかって出たというくらいだ。
宇宙的感覚というのは、例えば次のような詩のフレーズに代表される。

  万有引力とは
  ひき合う孤独の力である

  宇宙はひずんでいる
  それ故みんなはもとめ合う

  宇宙はどんどん膨らんでゆく
  それ故みんなは不安である

   「二十億光年の孤独」より抜粋

 この詩を初めて読んだとき、何か得体の知れぬ漠然としたショックに襲われた。当時そろそろ大学受験のことが気になりはじめ、志望校の選択に迷っていた僕は、そのショックを契機にさらに迷うことになった。手塚治虫の「火の鳥」を読んだのもちょうど同じころだった。当時は文学部志望だったが、宇宙だとか素粒子だとか生命の神秘とかいった理科系の事象に、がぜん興味を引かれた。文学と自然科学との微妙な接点、それは言い換えれば、精神世界と宇宙空間との接点でもある。
ついでにもうひとつ引用しよう。

 人々の祈りの部分がもっとつよくあるように
  人々が地球のさびしさをもっとひしひし感じるように
  ねむりのまえに僕は祈ろう

    (中略)

  一つの大きな主張が
  無限の時の突端に始まり
  今もなお続いている
  そして
  一つの小さな祈りは
  暗くて巨きな時の中に
  かすかながらもしっかり燃え続けようと
  今 炎をあげる

           「祈り」より抜粋

 結局、文学も自然科学も同じようなものだと安易な結論に達し、僕は大学の理学部へ進むことになった。当初の予定どおり文学部に進んでいれば、今とはまったく違う職業に就き、まったく違った生活を送っていたことだろう。人生においてもっとも多感なころに接した文学などの影響は、その後の人生を大きく左右するものである。
 この人のせいで僕は文系から理系へと方向転換をし、数学が出来なくて困り、大学へ入ってからも(理学部なのに)数学や物理がまったく解らなくて苦労した。結局のところ理学の道には挫折し、就職の際にはそれに近いと思われる農学系に進むことにした。はやり数学や理科は苦手で、今はもっぱら事務屋のような仕事に徹している。しかし、農業とは、自然と人との接点に位置するなりわいであり、僕は遠回りをしながらも自分の求めていた世界に近づいてきたように思っている。

 谷川俊太郎の詩は、時には論理的であり、読み手に対する強い説得力を備えているが、その全容は「人間」という存在物の持つさびしさとやさしさに包まれている。彼の詩は常に平易な言葉で綴られ、その平易さの中にとてつもなく巨大で難解なテーゼが潜んでいるのである。
 また、一方で彼はマザーグースの訳を試みたり、「イルカいないか、いないかいるか」などといった「ことばあそびうた」に取り組んだりもしている。彼は思想家であると同時に、言葉という生きた道具を巧みに操る優秀な技術者でもある。ちなみに、「空をこえて~ ラララ 星のかなた~」という鉄腕アトムの主題歌は彼の作詞によるものだし、漫画「スヌーピー」の翻訳者としても知られている。

 詩人というのは、ずいぶん楽な商売に見える。小説家やシナリオライターなどに比べると扱う文字数ははるかに少ないし、取材や事実関係の調査などもあまり必要ないだろうから、実労働時間は短くて済みそうだ。しかし、それだけに、詩人の生み出す言葉はそのひとつひとつが重く、大切に磨き抜かれたものでなければならない。変な例えになるが、小説家が原稿用紙1枚につきナンボの商売だとすれば、詩人は1文字につきナンボの商売である。詩を構成している文字や言葉は、研ぎ澄まされた感性や深い洞察力によって選び抜かれたものであり、それはいわば詩人の魂の結晶である。だから、僕は詩を読むときは、ゆっくりと、できるだけゆっくりと読むようにしている。
作者はこの詩を通じて何を訴えようとしているのか、この比喩はどういうことを表現しているのか、・・・そんなことに頭を使う必要はない。上等の詩は心地よい音楽と同じように、直接に読み手の感性を揺り動かしてくれるものなのである。谷川俊太郎の編み出す言葉には、理窟抜きに不思議な魅力がある。

 最後に僕の好きな詩を全文掲載しておこう。

   沈黙

  愛しあっている二人は
  黙ったまま抱きあう
  愛はいつも愛の言葉より
  小さすぎるか 稀には
  大きすぎるので
  愛しあっている二人は
  正確にかつ精密に
  愛しあうために
  黙ったまま抱きあう
  黙っていれば
  青空は友
  小石も友
  裸の足裏についた
  部屋の埃が
  敷布をよごして
  夜はゆっくりと
  すべてを無名にしていく
  空は無名
  部屋は無名
  世界は無名
  うずくまる二人は無名
  すべては無名の存在の兄弟
  ただ神だけが
  その最初の名の重さ故に
  ぽとりと
  やもりのように
  二人の間におちてくる

 やもりのように落ちてくる神様というのは、なんだか魅力的だ。こんな神様だったら信仰してもいいなという気になってくる。




盗作の世界

2017-03-18 01:52:14 | エッセイ(音楽)



 まず、楽器の「盗作」の話から始めよう。
 写真左は1970年代に製造された国産ギターで、マーチンD-41のモデルだと思われる。右は本物のマーチンで、こちらは2008年製のD-42。どちらも今僕の部屋にある。
 わが国ではマーチン社やギブソン社のギターを真似た製品が多数作られ、かつてはこの写真のように、社名やロゴまでパクっているものも見られた。こうした現象について、当時のマーチン社代表は次のように語ったという。
 「このように安いギターが当社の製品と誤認されることはないだろう。模造品だと納得したうえで買われるのなら、それで良いではないか。こういうギターで日本の若者が手軽に音楽に親しみ、いずれは当社の本物を使うようになってくれたら、そんなに嬉しいことはない」
 ふうむ、さすがは天下のマーチン社。先を見ている。実際に、偽物のマーチンでギターを始め、中年になってから本物を手に入れた人は多数いる。言うまでもなく、僕もその一人だ。中学生や高校生に向けた模造品に目くじらを立てて訴えたところで、どうせ彼らが本物を買うことはできない。本物のマーチンと偽物のマーチンとでは価格が違いすぎて、そもそも競合する商品ではないのだ。偽物が売れたところで、マーチン社が損をすることはない。

 実は音楽、文学、美術などについてもこれと同じことが言えるのではないか。
 例えば、日本の作詞家がボブ・ディランの詞を真似たとしても、そのことでボブ・ディランのレコード売上が減るわけでなく、彼自身には経済的な損失は生じない。いや、逆に、盗作疑惑云々で、その原作者たるボブ・ディランの名が広まれば、彼の音楽活動にとってプラスの効果が生まれる可能性だってある。
 例えば誰かが、村上春樹の小説からあちらこちらをパクって「ノルウェイの林」とか「執事をめぐる冒険」なんてのを書いて出版したとしても、そのことで村上氏に経済的な損害が生じることはない。そもそも原作が素晴らしいから真似されるのであり、そういうふうに考えれば精神的苦痛すら生まれてこないのではないか。

 だったら、いったい盗作の何が悪いのだろう?
 原作者からすれば、自分の作品に寄生して他人が儲けるのは、感情的に腹立たしいということだろうか。もっと社会的な見地から言えば、才能のない人間が他人の才能を盗んで金儲けをするのは人道的に許されないということだろうか。もし後者だとすれば、盗作をした者は、原作者からの訴えによる民事訴訟でなく、社会的に罰せられるべきである。
 ボブ・ディランの詞をパクった者に対してほんとに怒るのは、ボブ・ディラン本人でなく、その歌詞を聞いて感動したり、そのために対価を支払ってレコードやCDを購入した一般聴衆であるべきだ。
 うーん、なんだか難しい話になってきた。

 僕が先ほどからボブ・ディランの例を持ち出しているのには理由がある。まず、次の詞を読んでみてほしい。

----------------------------
スペイン革のブーツ
 詞:ボブ・ディラン 訳:片桐ユズル

 おお、恋人よ、わたしは船出する
 朝には船出してしまうのよ
 海のむこうから送ってほしいものはないかしら
 わたしが行く国から

 いいや、恋人よ、おくってほしいものはない
 なんにもほしいものはない
 ただ汚れずにかえっておいで
 あのさびしい海のむこうから

 おお、でもなにかほしいとかおもって
 銀とか金でできたものを
 マドリッドの山や
 バルセロナの岸辺から

 おお、まっくらな夜からとった星と
 ふかい海からとったダイヤモンドだって
 あなたのやさしいキスのほうがいい
 わたしがほしいのはそれだけだ
 (中略)
 
 さびしい日に手紙がきた
 それは船出した彼女からいってきた
 いつかえるかわかりません
 それはわたしの気分しだい
 (中略)

 では気をつけて、西風に気をつけて
 あらしの天気に気をつけて
 そう、なにかおくってくれるのならば
 スペイン革のスペイン・ブーツ
----------------------------

 男女の立場が逆転しているけど、内容は「木綿のハンカチーフ」にそっくり。
 かつて僕は、ボブ・ディランのこの詞を知って愕然とした。大好きだったあの歌がパクリだったとは! 作詞者の松本某は、この曲でたくさんのお金を儲けたのである。そして僕の大好きな太田裕美は、盗作と知ってか知らずか、この曲を一所懸命に歌い続けたのである。これは絶対に罪だ。

僕のギター 2

2017-03-09 20:21:08 | エッセイ(音楽)


 先日のFacebookでの会話。
 某ライブカフェで一緒に演奏したS氏のマンドリンが100万円以上の高級品だということが話題になっていたとき、彼のバンド仲間であるN氏が割り込んできた。
 N氏「S君のあのマンドリンは、通称『小判』と言うんですわ」
 S氏「それなら、あんたのギターは『真珠』やな」
 N氏「いや、俺のギターは『金棒』と呼んでほしい」

 お二人の風貌を知っている僕は思わず笑ってしまった。察しの良い方はすでにお判りだろうが、上記のやり取りは「猫に小判」「豚に真珠」「鬼に金棒」の喩えである。とっさにこういう会話で笑いを取れるのは、さすがに関西人。また息の合ったバンド仲間ならではのことだろう。

 さて、写真のこのギターは、僕が持っている中では最も高価なマーチンD42、通称「おつやさん」と言う。何年か前に、ある方のお通夜に行ったことがきっかけで買ったことから、そう呼んでいるのだ。
 お通夜は草津駅前のセレモニーホールで行われたのだが、駐車場がいっぱいで、僕は仕方なく近くの商業施設に車を停めた。せっかくだからギターの弦でも買おうと思って楽器店に入り、そこでこのギターに出会ってしまったのだった。
 表板の木目が細かくて、とてもきれいだ。スノーフレイクとキャッツアイのインレイ細工も素敵。D42の実物を見たのは初めてだった。隣に置いてあった上位機種のD45よりも、僕はこちらのほうに目を引かれた。
「よろしければ、試奏されますか?」と店員が声を掛けてきたが、そのとき僕はダブルの略礼服に真っ黒のネクタイ、どう考えてもギターを弾くような恰好ではない。丁重に断って弦だけ買って店を出た。
 しかし、寝るような時間になっても、どうもあのギターのことが気になって仕方がない。ああ、どんな音なのか弾いてみたい。このままでは夢にまで出てきそうな勢いだ。どうやら僕は、あのギターに一目惚れしてしまったようだ。

 翌日、僕は再び楽器店を訪れた。店員は待ってましたとばかりにガラスの陳列棚からD42を取り出した。
 気持ちよく伸びる低音の響き。中高音は倍音が豊富で、シャラシャラときらびやかな音。弦高も低くて、とても弾きやすい。ああ、なんという心地よさ。僕はすっかりこのギターに魅了されてしまった。考えてみれば、一目惚れなんて初めての経験だった。僕は女性に恋するのにもけっこう時間がかかるのだ。
 その後何度か店へ足を運び、値切りに値切り倒した後に、清水の舞台からダイビングするつもりでこのギターを買うことに決めた。手持ちのヘソクリをすべて注ぎ込み、足りない分は毎月1万円のローンを組んだ。それを支払うために、大好きなタバコを一定期間やめることにした。その頃は人前で演奏する機会なんてなかったのだが、一生の宝として、このギターを手元に置いておきたいと考えたのだった。

 こうして僕の部屋へやってきた「おつやさん」だが、その後、このギターをきっかけとして僕の生活に大きな転機が訪れることになる。
 長いあいだ会ってなかった旧友のZENさんへの年賀状に「マーチンのギターを買ったよ」と書いたところ、彼から電話が掛かってきて、ギターを見せて欲しいと言う。数日後、彼が僕の家へやってきて、何十年ぶりかに一緒にギターを弾き、その勢いで僕は彼のバンドHITOMAZzに参加することになった。その延長で「おとぎ猫」の活動を始め、今では月に2~3回、どこかのライブカフェなどで演奏するようになった
 おつやさんが僕の部屋に来なかったら、ZENさんと再会する機会もなかっただろうし、人前で演奏しようなんて思いもしなかっただろう。元はと言えば、たまたま上司のお母さんのお通夜に参列したことで出会ったギター、まさに一期一会のめぐり逢いといったところか。

 ZENさんはこのギターにピックアップを取り付けてライブで使うことを勧めるが、僕はどうもその美しいボディーに手を加える気になれず、ほぼ家庭での練習専用となっている。まあ僕の演奏レベルからすれば、豚に小判、いや猫に真珠?と言ったところだが、「宝の持ち腐れ」ということにならないよう、たまにはライブに持ち出し、マイク録りで生音を楽しんでいきたいと思っている。





僕のギター 1

2017-03-09 00:06:32 | エッセイ(音楽)


 ギターはたくさん持っているけど、一番よく弾いてるのはこれ。ラリビーというメーカーで、元はカナダの職人気質のおじさんが家内的手工業みたいな感じで細々と制作していたのだが、今はアメリカに拠点を移して会社も大きくなった。美しいインレイ細工は、カナダ時代から職人おじさんの奥さんが担当していた。しかし、最近では高齢のため細かい作業ができなくなったということで、単純なデザインのものに変更されている。広いアメリカ、他にも職人を探せば見つかると思うのだが、どうやらこのおじさん、奥さん以外の人にインレイ細工を頼む気がないらしい。そういうわけで、僕が持っている物は、社長夫人の最後の方の作品というわけだ。

 表板はアディロンダッグ・スプルース。サイド&バックはワシントン条約で使用できなくなった最高級材ハカランダに最も近いとされるマダガスカル・ローズウッド。表板の木目はきめ細かく、きれいに揃っていて、ほんとに美しいギターだ。見ているだけで惚れ惚れする。無精者の僕もこのギターだけは時々クロスで拭き上げるなど、丁寧に手入れをしている。
 もちろん音色も美しいし、弾き心地も良い。ネット通販で写真だけ見て買ったのだが、予想以上の大当たり。これより高価なマーチン社のギターも持っているけど、ラリビーを弾く機会のほうがはるかに多い。

 僕は楽器に関してはかなり面食いで、重視するポイントは、①外観 ②音色 ③弾きやすさ の順だ。プロの演奏家だと、まったく逆の順番になると思う。僕の趣味は楽器の収集。演奏については、持っているから弾くといった感じだ。弾くために買うのではない。陶器などの愛好家が、茶器を見て楽しみ、触って楽しみ、ごく稀にそれでお茶を淹れてみたりするのと同じようなものだと思う。
 楽器は弾き込むことによって、だんだん音が良くなってくる。そうした意味では、もっと弾いてやるほうがいいんだろうな。演奏するために良い音色を求めるのでなく、音色を良くするために演奏する。何だか本末転倒みたいな話だが、僕はいつもそういう気持ちでギターに接している。

 人前で演奏するときには、良い音を出すことが最大の課題。そのため、頻繁に弦を張り替え、硬めのピックを使い、アルペジオやスリーフィンガーのパターンもフラットピックで弾く。「ギター上手いですね」と言われるよりも「ギター良い音でしたよ」と言われるほうが嬉しい。いや、これは下手の負け惜しみではなく正直な気持ちだ。
 さらに言えば、楽器を見えやすくするために、譜面台はできるだけ使わないようにしている。まあこんなことは僕の自己満足に過ぎないんだけれど。
 自分の好きなものを見たり触ったりしている時間はとても幸せ。若い頃は上手くなろうと頑張っていたけど、今は技術的な問題よりも自分自身の満足感のほうが優先だ。そういう気持ちに応えて、今日もギターは優しく心地よい音をいっぱいに響かせて、僕の心を癒してくれる。とても幸せ。♡

高校の思い出 1

2017-02-24 01:23:33 | エッセイ


 僕らが属する、おじさん・おばさんアマチュアフォーク界では、この時期になると「卒業写真」を演奏する人がやたらと増える。しかし、どうも違和感を覚えるのだ。これは卒業式の歌ではないですよね。
 ♪悲しいときはいつも、開く革の表紙・・・、「いつも」なんだから、季節は特に限定されない。卒業アルバムを見て学生当時の様々な光景を懐かしんでいるのであって、卒業式自体を思い出しているわけでもないと思う。
 ちなみに、作者のユーミンが語ったところでは、「あなたは、わたしを、遠くで叱って」の「あなた」は、彼氏ではなく、高校時代の恩師を思い描いて書いたものらしい。ユーミンは立教女学院出身だから、卒業写真に男子生徒は写ってないはずだ。
 まあ、そんなにとやかく言うほどのことでもないけど、いかにも「季節に合わせたタイムリーな選曲ですよ」というふうにやられると、何か反感を覚えてしまう。「卒業写真」は大好きな歌だし、季節に関係なくいつやってもいいわけだけど、僕はこの時期にだけは絶対やりたくないです。(笑)



 さて、自分自身の高校生時代を振り返ってみる。
 いかにも京都らしい変な学校だった。写真は重要文化財に指定されているという校門。前身はわが国最初の女学校で、明治4年に創立。あの新島八重さんがここで教鞭をとっていたらしい。僕はいつも河原町通りに近い裏門から出入りしていて、寺町通りに面した正門は、あまり拝観することもなかった。校舎や図書館も立派な建物だったが、僕にはあまり深い思い入れはない。



 それよりも懐かしいのは、校舎の裏にあったサークルボックス。この写真は数年前に撮ったものだが、僕の通っていた頃も同じような雰囲気だった。僕たちはこの一室で語り合い、本を読み、ギターを弾き、創作もした。授業をサボってここで屯することも多かった。部屋にはコカ・コーラの空き缶が灰皿代わりに置かれ、いつもタバコの匂いが漂っていた。テーブルの上には、少年マガジン、宝島、りぼん、大学への数学、ロッキンF、プレイボーイ、ユリイカなど、いろんなジャンルの雑誌類が散乱していた。家へ帰ってもどうせ勉強しないので、教科書一式はサークルボックスに置き、ギターだけ持って通学していたときもあった。
 学校内にありながら教師たちの干渉を受けない治外法権の場。僕はここで友人たちと無為な時間を過ごしながら、音楽や文学や様々な思想に触れ、少年から大人への長い階段を登り始めた。 

 服装は自由だったし、夏はたいてい裸足にサンダル履き。授業をサボっては百万遍界隈でよく遊び、学校帰りにはライブハウスやパブなんかにも出入りした。ほんとに自由奔放な高校生活だった。もし別の学校へ通っていたとしたら、僕は今とはまったく別の人生を歩んでいたのに違いない。
 できることなら、当時の友人たちとサークルボックスに集まり、酒でも酌み交わしながら昔話に花を咲かせたいと思う。でも、現在行われている校舎改築に併せて、懐かしいサークルボックスはきれいさっぱり取り壊されてしまった。
 まあ、それはそれで仕方ないと思うのだ。形あるものはいつか壊れる。思い出は自分の胸の中で、いつまでも生き続けてくれるだろう。僕にはそれで十分だ。
 最近、歳のせいか思い出に浸ることが多くなってきた。現実の世界にしっかりと腰を据えながらも、時々はノスタルジーの世界を気ままに散策したいと思う。

 *冒頭の写真は学園祭の準備風景。真ん中のエプロン姿が僕です。

浅川マキの世界

2017-02-18 00:58:50 | エッセイ(音楽)


 好きなミュージシャンについて書こうと思う。第1回目は浅川マキ。とてもマニアックな話です。

 浅川マキは1942年に石川県で生まれた。高校卒業後、町役場で国民年金窓口係の職に就くが、すぐに辞めて上京。ビリー・ホリデイのようなスタイルを指向し、米軍キャンプやキャバレーなどで歌手として活動を始めた。1967年にビクターから「東京挽歌」を発表するが、この作品は本人の意にそぐわなかったようで、その後彼女はこの曲を封印してしまう。
 1968年、寺山修司に見出され新宿のアンダー・グラウンド・シアター「蠍座」で初のワンマン公演を 三日間にわたり催行、クチコミで徐々に知名度が上がる。やがてレコード会社を移籍し、1969年に「夜が明けたら/かもめ」で正式にレコード・デビュー。以後、数々の作品を発表しつつステージを主体に音楽活動を行う。
 CDの音質に対して懐疑的であったため、1998年以降は新譜を発表せず、ライブ活動に専念している。2010年1月、ライブ公演で滞在していた名古屋市内のホテルで倒れ、そのまま死亡。享年67歳。死因は急性心不全とみられる。

 以上は、インターネットで調べた浅川マキの略歴である。ここで僕が初めて知ったことが二つあった。ひとつは歌手になる前は役場の国民年金窓口係だったということ。これは意外だ。全然似合っていない。あの顔とあの声で受付をされたら、国民年金の申し込みに来た人も先行き暗い気持ちになるだろう。
 もうひとつは「東京挽歌」の話。僕は「夜が明けたら」がデビュー曲だと思っていた。浅川マキ本人はこの「東京挽歌」を自らの汚点のように思っているらしく、これまでの発表曲を記録したディスコグラフィーからも抹消されている。浅川ファンとして知られる音楽ライターが「東京挽歌の音源を持っている」と自慢げに本人に話したところ、「棄ててください」と言われたそうだ。

 浅川マキに関するエピソードをもう少し紹介しよう。
 自らの作品において「作詞」と表記する際、「詞」ではなく「詩」を用いている。また、外国作品を自ら日本語で歌う場合、原作の持つ世界観を損なわぬよう、まず翻訳家に対訳を依頼し、メロディーから受けるイメージも採り入れたうえで練り直して新たに詩作を行う。そのため表記を「訳詩:浅川マキ」とせず「日本語詩:浅川マキ」としている。
 1993年、東芝EMIが「音蔵シリーズ」と称するアルバム作品群のCD化企画を行い、その中に浅川マキのアルバムが4タイトル含まれていたが、発売後短期間で廃盤となった。「音質が気に入らなかった」とマキ本人が語っており、その強い意向で会社側としても廃盤にせざるを得なかったらしい。
 このように「詩」について、また「音」について、徹底したこだわりを持ち続けた。数々の有名ミュージシャンと協演しているが、山下洋輔のような大御所に対しても、演奏が気に入らなければ容赦なくやり直しを命じたと言われている。

 僕が浅川マキを知ったのは中学生の頃だった。ラジオの深夜放送で流れているのを耳にした程度で、不気味な音楽という印象だけが残っている。当時の僕はまだ清純で、その不気味さを心地よく感じるほど成長していなかったのだ。
 高校に入学してクラブ紹介のとき、フォークソング部の発表で有吉さんという先輩が浅川マキの曲を歌った。「♪ あたしが着いたのはニューオリンズの 朝日楼という名の女郎屋だった」他の部員はかぐや姫だとかチューリップだったが、有吉さんはギター1本で「朝日楼」だ。この演奏には度肝を抜かれ、さすがに高校はすごいところだと実感した。ちなみにこの人は、高校卒業後アメリカへ渡り、今ではブルースの本場シカゴでピアニストとして活躍されている。高校1年生の時、その有吉先輩から「MAKI・Ⅱ」というアルバムを録音したテープを借りて聴いた。それが浅川マキとの最初の出会いと言ってよいだろう。

 中島みゆきの歌は暗いだとか、いや山崎ハコはもっと暗いだとかいう議論があったが、暗さに関して言えば浅川マキの右に出る人はいないだろう。彼女の歌は陰鬱で、寂しく、たまらなく悲惨だ。
 しかし、そこに登場する風景はアメリカの貧民街であったり、港町の酒場であったり、また刑務所であったりと、ほとんど自分には縁のない所だ。だから僕はその暗さや寂しさを客観的に見つめることができる。言うなれば他人事の暗さや寂しさなのだが、それでも浅川マキの歌は、その遠い世界の悲惨さを僕のすぐ近くまでひしひしと伝えてくる。僕は迫り来る悲惨さを体の表面ぎりぎりで受け止め、その歌の世界に聴き入る。体の中にまで侵入させてしまったら、あまりに痛々しくて、とても聴いていられないだろう。
 高校生時代は友人の家で浅川マキのレコードをよく聴いた。ナイショでタバコを吸ったり酒を飲んだりして聴くものだから、部屋中に背徳の匂いが立ちこめる。そうして、しばし陰鬱かつ退廃的なムードに浸ったあとは、自転車に二人乗りして「天下一品」のラーメンを食べに出掛けたりしたものだった。

 浅川マキの初期作品は寺山修司の演劇世界とつながっているが、彼女がほんとにやりたかったのはそういうものではなかったようだ。有名になってからはジャズ、ブルース、ゴスペルなど外国作品を多くカヴァーし、シンガー・ソングライターというよりもボーカリストといった色彩が強くなる。レコーディングやライブ公演には名だたるジャズ演奏家を招き入れるが、それはもはや浅川マキのバックバンドという存在ではなく、マキがボーカルを担当する全日本選抜セッションバンドといった感じになっている。

 僕が信州の大学に入学した年、松本市内で行われるライブ公演のポスターを見つけた。まさかこんな所で浅川マキに出会えるとは思わなかったので、うれしくなってすぐに前売りチケットを買った。
ライブ会場は、なんとお寺の本堂だった。最初に住職の読経があり、それに続いてマキが登場。客は畳の上であぐらをかき、中には寝そべっている人や一升瓶の酒をまわし飲みしている人もいた。場内には「勧煙」の貼り紙があり、客席となった畳の上には灰皿がいっぱい置いてあって、マキも他のミュージシャンもタバコを吸いながら演奏した。タバコと線香の煙で空気はひどい状態となり、愛煙家の僕でさえ気持ち悪くなるくらいだった。ジャズ系の曲が中心で、演奏された曲目はよく覚えていないのだが、そのとき受けた感銘はまだ胸の奥に残っている。真っ黒のドレスを着てお寺の本堂に立つ浅川マキは、何とも言えず不気味だった。

 そのあと、大学から帰省中の京都で浅川マキのライブを見た。冬の寒い日、四条大宮の映画館で夜の10時頃から開演し、なんと朝までやるという。この公演には「始発まで」というタイトルがついていた。長いライブが終わったあと、僕は本当に阪急電車の始発と京阪京津線に乗り継いで家へ帰った。
 1曲目、舞台中央に立ったマキ一人に薄暗いスポットライトが当たり、無伴奏で淡々と歌い始める。ワンコーラスが終わり、ツーコーラス目の途中からいきなり伴奏が入るのだが、その音程がぴったり合っていて驚いた。浅川マキは、その独特の雰囲気ばかりがクローズアップされがちだが、歌唱技術といった面でも素晴しいものを持っている。
 そのときのミュージシャンはそうそうたるメンバーだったが、特にギターは内田勘太郎&渡辺香津美という滅多に見られない二大巨匠の共演で、まさに感動物だった。後半は浅川マキもかなりノリノリの感じで、この人は実は明るい性格なのではないだろうかと思ったくらいだ。
 ほんとのところ、浅川マキのあの暗さは、意図的に作り出されたものではないかと僕は思っている。石川県からわざわざ上京して人前で歌おうなんて、陰鬱な性格の人ではまずできないことだ。また、全盛期でのレコーディングやライブ活動のスケジュールは非常に精力的で、エネルギッシュな人でなければとてもこなせない。CD化拒否に代表されるように「音」に対して徹底的なこだわりを見せ、さらにはレコードのジャケット、ライナーノート、ポスターのデザインなどにも一貫した美意識を持ち、終生その姿勢を崩すことがなかったという。こうしたこだわりを貫くためには強大なエネルギーを必要とするし、それは孤高の自意識と、プロとしての責任感みたいなところから生まれてくるのだと思う。
 浅川マキは意外とポジティブな性格の持ち主で、ステージで見せる言動や表情などについても、綿密な計算に基づいて演出されたものではないかという気がしてくる。

 日本人のジャズ・シンガーはたくさんいるが、概して言えば、みな上品すぎるような気がする。耳に心地よく入ってくるが、すぐにもう一方の耳から抜けていく。そこに残るものは何もなく、刺激もなければ毒もない。BGMとして聴くには丁度よいのだが、その歌によって創り出される世界に浸るという冒険はできそうにない。変な喩えだが標準語で演じられる吉本新喜劇みたいなもので、表現法の違い云々の問題でなく、そこに本来あるべき原点のようなものが完全に欠如してしまっているのだ。
 浅川マキの歌は、これらとはまったく異質だ。その声質は決して耳に心地よいものではなく、ときには不快でさえあるが、何か心の内面に直接響いてくるようなものがある。彼女の創り出す世界は、一般によく用いられる「泥臭い」といった表現をはるかに通り越した「血なま臭い」印象すら与え、本場のジャズやブルースの根底に流れる魂の叫びみたいなものを感じさせる。
 全身黒ずくめの衣装は、あたかも魔女を連想させるが、いやそんなに神秘的なものではない。彼女は現実に世界のどこかで起こっているであろう(あるいは過去に起こっていた)人間社会の悲哀を歌う。あの暗く陰鬱な独特の雰囲気は、たとえそれが一種の演出であったにしても、僕たちを遠い非日常の世界へと誘い込むための仕掛けとしては十分だ。

 浅川マキのライブを見たのは先に述べた二度だけだ。いくら望んでも、もう決して見ることができない。浅川マキのようなシンガーは類稀で、誰も彼女の代わりを務めることは不可能だろう。
名古屋のライブ公演を前にしたホテルで亡くなったというのは、どう考えても無念だ。せめて、できることなら、あとしばらくがんばって、ステージの上で息をひきとって欲しかった。そのほうが本人にとっても幸せなことだったと思うのだ。


かくれんぼ

2017-02-17 02:09:31 | エッセイ
 前回に続いて小学生時代の話。
 学校の休み時間や放課後に「鬼ごっこ」をした時期もあったが、これは単に足の速さを競い合うフィジカルな遊びで、どうも苦手だった。その点「かくれんぼ」は、鬼ごっこほどに疲れないし、遊びの過程にメンタルな要素があり、当然僕はこちらの方が好きだった。昔から、しんどいことを避ける子供だったのである。
 思えば、かくれんぼというのは理不尽な遊びだ。すぐに見つかってはつまらないし、逆にいつまでも見つからなかったら退屈なものである。かくれんぼをしている子供たちの心の中では、見つかることを恐れる気持ちと見つけに来てくれることを期待する気持ちとが複雑に交錯し、その結果、たいていの子供は適度に見つかりにくく、また適度に見つけやすい隠れ場所を選ぶのである。こうして子供たちの間には暗黙の協定が成立し、ちょうどよいくらいの間隔で鬼の交代が行なわれることになる。
 なかには誰にも見つからないような場所に隠れ潜む子供もいるが、最後には他のメンバーから忘れ去られ、知らないうちに鬼が代わっていたり、ゲームが終わってみんな家へ帰っていたりする。子供の世界は無情なものなのである。

 鬼ごっこやかくれんぼを発展させたような遊びで「どろじゅん」というのがあった。全国的には「どろぼうと刑事」で「どろけい」または「けいどろ」などと呼ばれているようだが、僕の地方では「どろぼうと巡査」で「どろじゅん」だった。
鬼ごっこやかくれんぼが多対一の遊びであるのに対して、こちらの方は多対多のチームプレーである。巡査に捕まった泥棒は刑務所と呼ばれるスペースに拘束されるが、泥棒の仲間が助けに来てタッチを交わすと、脱走して再び逃げ回ることができる。巡査側のチームは、遠くに逃げた泥棒を探し回る者や刑務所付近で監視する者などそれぞれ役割を分担し、捜査や警備に努めた。
 やり始めるとなかなか面白く、日が暮れるまで夢中で遊んだものだった。遊び方にも人それぞれの性格が出るもので、自らの危険を冒してでも仲間を助けようとする正義漢がいるかと思えば、仲間などそっちのけで自分が隠れることに専念している者もいた。
 僕の場合は、子供の頃から戦略家で、チームの作戦参謀を務めることが多かった。オトリを使って看守を混乱させたり、サインプレーで各方向から一斉に突撃したり、さまざまな戦術を試みる、言わば、どろじゅん界の諸葛孔明のような存在であった。おかげで、ガキ大将タイプのチームリーダーからも厚い信頼を寄せられ、彼らが中学生になって不良グループを結成した後も、僕は彼らとうまく付き合っていくことができた。

 かくれんぼやどろじゅんでは、鬼(巡査)になった者が目を閉じて数を数えるとき、数字の代わりに10文字または20文字の言葉を唱えることが普通だった。例えば「ぼんさんが、屁をこいた。においだら、くさかった」これで20文字である。「インディアンのふんどし」というのもあった。「インディアンのふんどし、インディアンのふんどし、インディアンのふんどし・・・」と十回数えても、実際には十秒ほどで済んでしまう。これで百数えたことになるのだから、子供の考えることはやっぱりすごい。
「ぼんさんが、屁をこいた」というのはユーモラスで、それになんと言っても京都らしくていいね。全国的には「だるまさんがころんだ」がポピュラーだと思うが、横浜育ちの妻は「のぎさんは、えらい人」と言ってたらしい。「のぎさん」とは日露戦争で活躍した乃木希典大将のことで、こりゃまたえらく古い話だ。
 ところで「インディアンのふんどし」って、いったい何なのだろう? インディアンがふんどしを締めているのか、あるいはインディアンの図柄が入ったふんどしなのか、どちらにしても想像すると笑いがこみ上げて来る。

 どろじゅんは、もうやってみたいとは思わないなぁ。無理に走ってアキレス腱を切ってしまうか、心臓発作でぶっ倒れるか、身体的リスクが非常に高い。運動量の少ないかくれんぼならやってみたい気もする。しかし、オッサンが大勢で物陰に隠れ潜んでたりすると、本物の警察に捕まってしまいそうだ。(^^;
 大人になって得たものもあれば、失ったものもある。もうあの頃の自分には戻れないけど、過去は戻れないからステキなのだ。懐かしい思い出を大切にしつつ、今という現実をしっかり生きていきたいと思う。


小学生時代の苦悩

2017-02-15 00:33:39 | エッセイ

  (注)写真は小学校の卒業アルバムより。
     顔写真は当時の僕。太ってる。
     隣はユミちゃん。かわいい!

 子供のころ学校で苦手なものといえば、一に図画、二に給食、三にフォークダンスだった。とりわけ絵を描くことはこの上なく嫌いで、嫌いだから当然ヘタだった。
 そもそも僕は絵を描くことを「物事を描写するための手段」としか理解しない子供で、この世に写真という便利な物がありながら、どうして絵など描く必要があるのだろうと、ずっと不思議に思っていた。時間をかけて精一杯うまく描いたとしても、その写実性に関しては写真にかないっこないし、第一、写真ならものの数秒でパチリと終わってしまう。写真の無かった時代なら仕方ないが、この現代社会においてなぜ絵を描くなんて無駄な努力を強いられるのだろう。
 版画となれば、さらにひどい。あれはそもそも印刷技術の無かった時代、絵や文字を大量複製するために用いられたものである。たった一枚の印刷物を提出するためにゴム版や木版を彫ることを強制するなんて、児童に対する嫌がらせか拷問としか考えられない。
 そんなわけで、中学生の頃には開き直ってほとんど作品を提出しなくなり、美術の成績はずっと「一」だった。でも結局は図画や美術なんて芸術家を志す一部の人を除いてはどちらでもいいようなものだと思う。僕がこれまでの人生において絵がヘタなために損をしたことは一度もない。微分積分なんて知らなくても何不自由なく生活していけるのと同じことだと思う。

 給食については言うに及ばす。人それぞれの嗜好も体質も許容量(または要求量)も無視して「ほれ、これだけ全部食べなさい」などとやるのは、児童虐待以外の何物でもない。こういった教育が無気力・没個性の現代人気質を生み出すのだ。そもそも「好き嫌いしない」ということがどうして美徳のひとつに数えられるのだろう。「食」は文化なのである。
 小学校三~四年の担任はとりわけ給食にうるさい人で、好き嫌いの多い僕はいつも厳しい立場に立たされた。ある日先生は非常にご機嫌が悪く、「給食を全部食べ終えるまで家に帰らせない」などと強行手段に出た。そんなことに屈するようではプライドが許さないから、僕の方も「それなら帰らない」と開き直ることにした。長い時間にらみ合いが続いたが、結局先生はあきらめたのか、それとも自らの蛮行を反省したのか、「もう遅いから帰りなさい」とぶっきらぼうに僕を教室から追い出したのだった。
 ちなみに今でも僕はシイタケを食べることができないが、「嫌い」だなんて子供じみたことはもう言わない。「このキノコは、宗教上の理由により食べてはいけないことになっております」と・・・。宗教上の理由となれば、誰もこれ以上介入することはできない。小学生の頃は、そこまで知恵が回らなかったのだ。われながら未熟だった。

 体育の時間にフォークダンスを踊らされることも大嫌いだった。女の子と手をつなぐのなんて照れ臭いし、とりわけ「マイム・マイム」などは「かごめかごめ」の巨大版みたいで気味悪い。江州音頭や河内音頭などわが国に伝わる盆踊りを教えずして、どうして外国の踊りを踊らせるのだろう。これも明治文明開化以来つづく西洋かぶれ教育の弊害であると思う。

 ところで、最近になって、やっと絵画の味わいがわかるようになった。もちろん自分で描こうなんて気にはならないが、少なくとも写真と絵との違いくらいは理解できる。ときどきは美術館へ足を運ぶことだってある。
 また、あれだけ嫌いだった給食についても、パサパサの食パン、アルミの食器、先割れスプーン、マトンのから揚げ、クジラの煮付けなど、妙に懐かしさを感じてしまい、ぜひもう一度食べてみたいと思うことがある。
 さらに、ごく稀にだが、フォークダンスを踊りたいような衝動に駆られることすらある。いったい、自分はどうなってしまったのだろう。謎だ。


ちょっと変な洋楽の邦題

2017-02-14 00:50:01 | エッセイ(音楽)


 ビートルズ初期の名曲「I Want to Hold Your Hand 」、日本語では「抱きしめたい」と訳されている。これはちょっと変だぞ。「Hold Your Hand」だったら、手をつなぐとか握るとかいうくらいのニュアンスで、抱きしめるのとはだいぶ感じが違う。「抱きしめる」までいってしまうと、原曲の持つ可愛らしさが損なわれてしまうように感じられる。
 当時は日本でビートルズを売り出そうという意図が強く、インパクトのある曲名が求められてこういうことになったのだろうか。「A Hard Day's Night」に至っては「ビートルズがやってくる ヤァ! ヤァ! ヤァ!」なんて変な邦題が付けられている。坂本九の「上を向いて歩こう」がアメリカでは「SUKIYAKI」というタイトルで売り出されたくらいだから、まあそういうこともあるのかもしれない。

 同じくビートルズの「Norwegian Wood」。村上春樹の小説タイトルにも使われた有名な曲である。誰が考えても「ノルウェーの森」あるいは「ノルウェイの森」(村上春樹はこちら)としか訳せないように思えるが、実はこれにも疑惑がある。
 「Wood」は、森、木のほか木製の家具という意味にも用いられ、それだと「ノルウェー調の家具」ということになる。実際、欧米の人はこのタイトルだけ見ると家具のほうを想像することが多いようだ。家具と解釈した場合、この歌の舞台は野外から室内に転じ、そこで出会った女の子のイメージもずいぶん違ってくる。
 それじゃ「Wood」は森なのか家具なのかどっちなんだ?ということだが、作者のポール・マッカートニーによると、答えはどっちでもなく、部屋の内装に使われている木材を指しているということだ。つまり、彼女の部屋に入ってみるとノルウェー産の木材で内装された部屋だった、ということを表現している。英国ではノルウェー産の木材は安物の扱いで、ここに登場する彼女は、安っぽいアパートに住んでいる、あまり裕福ではない娘という設定なのである。
 ポールが言うんだから、これは間違いないだろう。僕はその曲想から、深い森の奥に迷い込んでしまったような雰囲気を感じ取り、そこで森の精みたいな女の子に出会った・・・というようなイメージを抱いていたのだが、なんだ、安アパートの一室の話だったのか。
 しかし、歌の中ではこの女性を鳥に喩えていることもあり、ウッド調の部屋の雰囲気が「まるで森の中にいるようだった」と比喩しているのだとも解釈できる。それならやっぱり「ノルウェーの森」でいいのかな?

 キング・クリムゾンのセカンド・アルバム「In the Wake of Poseidon」は「ポセイドンのめざめ」と訳されているが、これはまったくの誤訳だと言われている。「in the wake of」は、「目覚め」という意味ではなく、「ポセイドンの跡を追って」、「ポセイドンに続いて」程度の意味らしい。

 誤訳とまではいかなくても、何かちょっと違うなぁと感じるものはたくさんある。例えば「朝日のあたる家」。
 原曲は「The House of the Rising Sun」という古いブルースだ。「Rising Sun」は固有名詞で、ニューオリンズにそういう名称の建物があるというところから歌が始まる。これがアパートだったら「日の出荘」とか訳するところだろう。ところがこの曲は、娼婦として売られていく悲しい女を歌ったもので、「Rising Sun」は娼婦館の名称なのである。それを「朝日のあたる家」なんて訳されると、なんだか健康的な感じがして、この曲を知らない人が題名だけ耳にすると、明るく幸せな家庭を歌ったマイホームソングかな、とかいう具合に、とんでもない誤解が生まれてしまいそうだ。その点、浅川マキによる「朝日楼」は名訳だと思う。いかにも安っぽく、物悲しく、名前とは裏腹に薄暗い感じがにじみ出ている。
 なお、1960年代にヒットしたアニマルズのバージョンでは、原曲の歌詞の女性を不良少年に変えており、「Rising Sun」は少年院を指すと解釈される。この場合にしても、「朝日のあたる家」はやっぱり変だ。

 そもそも、英語と日本語とでは表現方法などが全然違うのだから、題名を直訳しようなどと考えず、歌詞の意味を噛み砕いて日本語の題名を新たに作るほうがよいのかもしれない。例えば、松任谷由実の訳による「雨音はショパンの調べ」(原題I Like Chopin)などはよく出来ていると思う。また、古いジャズ曲の和訳版で「月光値千金」(原題Get Out and Get Under the Moon)というのがあるが、これもなかなか洒落ている。
 高石ともやは「Roll in My Sweet Baby's Arms」を「あの娘のひざまくら」と訳した。好きな女の子に抱き着かれるよりも、ひざ枕のほうが、われわれ日本人男性にはしっくり来る。諸口あきらはジョン・デンバーの「Country Roads」を「いなか道」と歌っていた。こちらの方は直訳ながら素朴な味わいで、僕は好きだ。

 しかし、なんといってもすごいと思うのは、ピンク・フロイドの「原子心母」。
 原題の「Atom Heart Mother」をそれぞれの単語ごとに漢字に直し、それをつないだだけだ。ほんとにこれ以上ないというくらいの直訳なのだが、訳されたってちっとも意味が分からない。その分からないところがいかにもピンク・フロイドらしくて良いね。

これも遺伝!?

2017-02-11 23:49:56 | エッセイ


 「月の砂漠を はるばると 旅のらくだが 行きました」という童謡がある。子供の頃、と言ってもけっこう大きくなるまでのあいだ、僕はこの歌を月世界の風景を描いたものだと思っていた。砂漠のように荒れ果てた月面をラクダがゆっくりと歩いて行く。ラクダも、それに乗っている人も、酸素ボンベにつながった透明のマスクをかぶっている。金の鞍に銀の鞍、いかにもメタリックで近未来的ではないか。
 家族での夕食時にその話をしたら、なんと息子もそれと同じようなイメージを描いていたという。なんだ、やっぱりそうか。そういうふうに考える人もけっこういるんだなと僕は少し安心したのだが、妻の見解は違った。
「それは絶対おかしいわよ。月の砂漠といえば、普通は月夜の砂漠を指すものよ。月面のクレーターみたいな場所を想像するなんて、百人に聞いてもあなたたち二人くらいのものだわ」
 試しにその後何人かの人に聞いてみたが、月面の風景と答えた人は一人もいなかった。僕はそれまで息子に「月の砂漠」の話なんてしたことないから、それぞれが別々に同じような風景をイメージしていたのだろう。思考パターンが似ているということか。
 確かに息子は物の考え方において僕に似たところがある。親子だからまあ当然なのかもしれないが、あまりにも変な部分で似ていることに気付くと、わが事ながら面白くもあり、時には怖くも感じる。

 僕は空間把握能力が極度に低くて、方向とか左右の認識が曖昧だ。例えば商店街を歩いていて、どこかの店に入ると、店から出てきたときに、どちらから歩いてきたのか分からなくなってしまう。たぶんこちらだろうと思ってしばらく歩いた後、先に通り過ぎた店を見つけて、慌てて反対方向へ向きを変えることもしばしば。アルファベットの「E」とカタカナの「ヨ」が、どっちがどっちだか分からなくなってしまう。小文字の「e」を指で書いてみて、やっと「E」の向きを確認するという始末。
 息子も子供の頃、鏡文字をよく書いていた。今でも僕と同じように、「E」の向きが分からなくなってしまうらしい。こうしたこともDNAの遺伝情報に刻み込まれているのだろうか。ある種の怖さを感じる。

 さて、息子が大学生で家に居たときのことだ。家族でテレビのニュースを見ていると、どこかで起こった火事についてアナウンサーが「放火の疑いで捜査中です」と言った。それを聞いて僕と息子はまったく同時に「ほうか・・・」と言ってしまった。これは怖いというよりも、かなり恥ずかしい出来事だ。まあ僕の場合は文字通りオヤジなのだからオヤジギャグでも仕方ないが、二十歳やそこらの青年がこんなことでは困るぞ。
 それから後のある日のこと、また家族でテレビを見ていると、冬山で登山者が遭難したというニュースが流れた。僕はとっさに「そうなん?」と言いかけ、慌てて言葉を飲み込んだ。また息子とダブってしまってはいけないと思ったのだ。息子もそのときは何も言わなかった。彼も僕と同じように自重したのか、あるいは今回は思いつかなかったのか、その真相は定かではない。

 ところでこの息子、困ったことに外見も僕に似ている。そういうのが身近にいると、まるで自分の人生の繰り返しを見ているようで複雑な気持ちになってくる。今は東京の会社に勤務しているが、三十を過ぎてまだ独身。彼女もいる気配がない。このあたりは僕とだいぶ違っている。僕は大学生の頃に婚約し、社会人になってすぐに結婚、今の息子の歳にはもう子供が小学生だった。大事なところが似てないので、僕はなかなか孫の顔を拝むことができない。
 娘も三十歳でまだ独身。このままでは我が家の血筋が途絶えてしまうよ。若いおじいちゃんになりたかったのだが、その夢は叶いそうにない。せめて僕が元気なうちに、孫の顔を見せてほしい。
 孫が生まれて小学生くらいになったら、「月の砂漠」の歌を聴かせて、どのような風景を想像するか確かめてみたいと思っているのだ。「月面のクレーター」と言ったらどう感じるだろう。ちょっと怖いようであり、嬉しいようでもある。


バレンタイン事情

2017-02-11 01:52:00 | エッセイ
 僕はクリスマスやバレンタインデーといった外来的風習が好きでなく、批判的な話をよく口にする。そのせいか、最近では家族など親しい女性からの義理チョコすら貰えなくなってしまった。
 しかし、こんな僕も、何年か前には若い女性からチョコレートをたくさん貰っていたことがあったのだ。それは農業大学校の教員をしていた時のこと。もちろん義理チョコである。いや、ちょうど進級の試験や卒業論文の提出時期と重なっていたから「賄賂チョコ」と言ったほうがいいかもしれない。(笑)
 この時期には仕事が忙しくなり、女子学生からプレゼントされたチョコを有難くいただきながら残業に精を出していた。普段はチョコレートなんてめったに口にしないのだが、疲れているときには甘いものが欲しくなる。というわけで、バレンタインデーにチョコをプレゼントされるというのは、僕にとって実に都合の良い習慣となっていたわけだ。この際、義理チョコでも営業用チョコでも賄賂チョコでも、何だっていい。

 チョコレートの中でもちょっと高級なものは、今や季節商品のような存在である。バレンタインデー前に需要が一気に高まるわけで、各メーカーはそれに合わせて工場をフル稼働しているのだろう。儲かるときに儲けない手はない。
 チョコのような工業製品ならば供給する側にあまり問題はないのだが、これが母の日のカーネーションのように農産物の場合だと、少し事情が違ってくる。日本中のカーネーション農家は、母の日に大量出荷できるよう開花時期を調節して作っているのだが、それでも生産量に限りがあり、価格が暴騰してしまう。母の日に十分供給できるだけの生産規模を持てば、それ以外の時期に生産過剰となる。日持ちの悪い農産物は、よく売れる日に備えて前々から作り貯めしておくというわけにもいかないのだ。
 そこで花を扱っている人々は、誕生日や結婚記念日に花束を贈るという習慣が定着するよう、切に願っているのである。これだと人によって贈る日が異なるので、一年を通じてコンスタントに需要が伸びることになる。生産農家やフラワーショップで働く人々は、忙しい時期が分散し、仕事がやりやすくなるのでとてもありがたい。
 しかし、実際には、こうした習慣はなかなか人々の間に浸透していかないようだ。母の日やバレンタインデーになると、マスコミやクチコミにつられて、みんなが一斉にカーネーションやチョコを買いに走る。そこには一種の群集心理のような力が働いているわけだが、人それぞれに贈る日が違うということになれば、そうした力は極端に弱まってしまう。花の生産者と生花市場とフラワーショップとが手を組んで、いかなるキャンペーンを展開したところで、群集を一斉に動かすような大きな力は生まれてこないのである。

 日本人はそもそも、こうした群集心理に扇動されやすいのだろうか。最初はごく一部の人々の間で行われていた行事が、お菓子屋の陰謀に乗せられ、瞬く間に全国津々浦々にまで広まった。口裂け女の伝説と同じようにである。そして、いまやバレンタインデーにチョコを贈らない女性は変人のように言われ、誰からもチョコをもらえなかった男性は自分の不甲斐無さに気を落とすといったところまで事態は進んでいる。ああ恐ろしや、群集心理。皆が買うから自分も買う。いや、買いたくなくても買わねばならぬ。

 現代社会では行動様式の多様化や個性化が進んできたと言われている。デパートなどの特設会場へ行けば、ありとあらゆる種類のチョコレートが並んでいて、女性たちは自分の個性をアピールしようと熱心にチョコ選びに精を出す。しかし、みんなと同じようにバレンタイン特設会場へと足を運んでいる時点で、それは個性的な行動とは言えないのではないか。別に悪いことではないが、なぜこのようなことになってしまったのか、どうも不思議でならない。
 かく言う僕も、かつては義理チョコを貰い、残業用補助食料として重宝していたのだから、この変な習慣の恩恵を受けていたということになる。しかし、あえてわがままを言わせてもらえば、それは何もチョコレートに限定される必要はないわけで、たまには大福やシュークリームや551の豚饅なんかをくれる人がいた方がむしろありがたいと思う。いやホントにわがままな言い分だけど。

 僕がまだ純情可憐な少年だった頃、可愛い女の子からチョコレートをもらって喜んでいたことがあった。ちょうどバレンタインデーの習慣が浸透し始めた頃だったと思う。まだ義理チョコなどと呼ばれるものはなく、ホントに好きな人にだけ贈られていた。贈るほうも貰うほうも胸をドキドキさせてその日を待っていたものだ。
 そういうふうにして貰ったチョコレートなら、嫌な残業の合間に食べたりしないだろうな。机の引出しにそっと仕舞い込み、大切に取っておくうちにカビが生えるか、夏の暑さで溶けてしまうか、まあそんなところだ。
 あの頃のようなドキドキ感は、もう再び自分には訪れて来ないのだろうな。青春多感な時代は、はるか彼方に過ぎ去ってしまった。どうせ貰うなら551の豚饅のほうがいいなんて考えている今の自分が、何となく虚しく思えてくる。

僕の音楽遍歴2 「おとぎ猫」秘話

2017-02-09 21:18:09 | エッセイ(音楽)


 ユミさんとのデュオを始めて1年と少しが経過した。試しに一度やってみようと軽い気持ちで始めたのだが、今ではこちらのほうがメインとなり、月に2~3回はどこかのライブカフェなどで演奏するようになった。基本は二人だが、HITOMAZzのZENさんを加えて三人でやることもあるし、他の方々の力を借りてセッションをする機会も増えてきた。

 ユミさんとは中学校の同級生だが、別々の高校へ進学してからは互いに音沙汰がなく、何年か前の同窓会で数十年ぶりに再会した。カラオケで彼女が歌うのを聴いて「上手いなぁ」と感心したが、一緒にカラオケに行ったのはその1回きり。僕がライブ喫茶などに出入りしていることを話すと、「私もライブで歌いたい」と彼女が言う。「ほなら、一度一緒に出るか?」と冗談で訊いたら、彼女は「出る!」と本気で答えた。

 初めての出番は「森のくまさん」のフリーライブ。1組2曲、約10分間の短いステージだ。
「彼女、人前で歌うのは、今日が初めてなんです」と僕が言うと、本人は「違う」という。「幼稚園のころ、地蔵盆ののど自慢大会で浴衣を着て歌ったことがあります」
 このMCがけっこうウケて、会場は温かな空気に包まれた。1曲目はいまいち合ってないハーモニーでジロースの「愛とあなたのために」、2曲目は「東京ブギウギ」という、何とも妙な取り合わせ。特に意図したわけでなく、それぞれのやりたい曲を一つずつ選んだらこういうことになったというだけの話だ。
 「東京ブギウギ」では彼女はノリノリで踊りながら歌い、最後はくるくる回って大きな拍手をもらった。およそ50年ぶりのステージで、この舞台度胸は大したものだ。終演後、森のくまさんのマスターから「豊郷小学校旧講堂で開催するフォークジャンボリーに出ないか」とお誘いを受けた。豊郷小学校と言えばアニメ「けいおん」の聖地として名高い所。彼女はその大舞台でもまたノリノリで歌い、くるくると回った。
 最初のうちユミさんはマイクを持って歌うだけだったが、そのうちバナナやイチゴの形をしたシェーカー、八坂神社の御神鈴などの変なパーカッションを使うようになり、さらにはオートハープを弾くようになった。

 僕は彼女の低く柔らかな声が大好きだし、彼女は僕のギターが好きだと言う。このあたりは相思相愛の関係だ。(笑)
 ところが、音楽に対する好みの違いが大きく、演奏曲を選ぶときはよく喧嘩になる。彼女の好きな井上陽水は僕が嫌いだし、僕の好きな吉田拓郎やかぐや姫は彼女が嫌い。そういうわけで、これらの曲はまだやったことがない。最初のうちは昭和歌謡を好んで演奏していたのだが、ユミさんがオートハープを弾くようになってから、ナターシャセブンなどアメリカン・フォークのレパートリーが増えた。
 彼女は曲を選ぶとき、常に衣装のことを気にしている。「1曲目、異邦人でどう?」と言うと、「うん、ええよ」と答える。そのとき、彼女の頭の中では「異邦人に合った服はどれか」と思いが巡らされている。「2曲目、天使のウィンク」と言うと、「それはアカン」とNGが返ってくる。「この服は天使のウィンクには合わへん」と。特に冬場は自分で編んだニットを着るので、余計にこだわりが強い。
 さらに彼女は季節に合った曲を選ぼうとするし、一度やった曲はしばらく間を置かないとやりたくないと言う。そういう難しい問題があり、もちろん技量的な制約もあるので、互いに満足できるように演奏曲を選ぶのは至難の業だ。最近では30分くらいのステージも増え、5~6曲のセットリストを考える必要があるのだが、たいていは二人の妥協の産物となっている。

 さて、これまでに人前で演奏した曲を列挙してみよう。
 東京ブギウギ、蘇州夜歌、月光値千金、上海リル、Side by side、リンゴの木の下で、星の流れに、石狩挽歌、私の彼は左きき、さらば恋人、街の灯り、花の首飾り、ガンダーラ、友達よ泣くんじゃない、アタックナンバーワン、ジョニィへの伝言、涙のリクエスト、あんたのバラード、青い珊瑚礁、スィートメモリーズ、桃色吐息、かもめ、ふしあわせという名の猫、サルビアの花、異邦人、世情、化粧、待つわ、天使のウィンク、オリビアを聴きながら、愛とあなたのために、戦争を知らない子供たち、まぼろしの翼と共に、花嫁、出発の歌、サルビアの花、太陽がくれた季節、サラダの国から来た娘、Top of the world、近江の子守唄、ランブリンボーイ、陽のあたる道、今宵恋に泣く、別れの恋唄、ダイヤの指輪、さよならが言えない、海原、春を待つ少女、せめて今夜だけ、パン売りのロバさん、海に向かって、リターン・トゥ・パラダイス、私を待つ人がいる、森かげの花、初恋、陽気に行こう、ヘイ・ヘイ・ヘイ、柳の木の下、テネシーワルツ、サンタが街にやってくる、アメイジング・グレイス・・・まだあったかな。

 1年余りでよくこれだけやったもんだ。戦前の流行歌から歌謡曲、フォーク、浅川マキからナターシャまでと、ジャンルはかなり広い。同じ曲を何度も演奏すれば少しずつでも上手くなるんだろうけど、前述のような事情で、それもままならない。いつも新鮮な気持ちで、次々と新しい曲に取り組んでいる。上手い下手よりも、まずは自分たちが楽しむことが肝心だと思う。
 彼女は聖飢魔ⅡやXジャパンなどもやりたいらしいが、そんなん、アコギとオートハープでは無理やでぇ。ロックっぽいのをやりたいのなら、と僕が代わりに提案するサディスティック・ミカ・バンドやシーナ&ロケッツには、彼女はまったく関心を示してこない。
 陽水vs拓郎の抗争は今もなお続いている。妥協の産物として中島みゆきをレパートリーに入れているが、僕の大好きな「化粧」は「拓郎みたいな曲や」と言って、一度歌ってそれきりやってくれない。
 そんな中、森のくまさんの「中島みゆきデー」に参加することになった。妥協の産物としての中島みゆき。コアなみゆきファンの方々には、ほんとに申し訳ない気持ちでいっぱいだ。


僕の音楽遍歴1

2017-02-08 23:10:56 | エッセイ(音楽)


 初めて人前で演奏したのは高校生の頃。写真はその時の様子だ。なんだか鬱陶しい面持ちでうつむいてバンジョーを弾く姿は、現在の僕とあまり変わらない。隣でマンドリンを弾いているカワイイ顔の男の子はHITOMAZzの盟友ZENちゃん。彼はこの頃からギターやマンドリンが上手かったし、僕も今よりはバンジョーが弾けた。

 当時僕たちはナターシャセブンに夢中で、その演奏を真似することに明け暮れていた。そこから本格的なブルーグラスの世界へ突き進んでいく人も多かったが、僕たちはそれほど深入りせず、むしろジャンルを広げる方向で、フォーククルセダーズなど一昔前のフォークや、当時リアルタイムだったチューリップ、かぐや姫、吉田拓郎などをレパートリーに加えていった。沢田研二やキャンディーズなどの歌謡曲もやった。
 コンサートに出たのは写真の1回きりだが、誰かの家に集まってはよく練習をした。お母ちゃんが「うるさい!」と言って怒るので、疏水の公園まで楽器を持って練習に出掛けたこともあった。当時はバンドスコアや教則本もあまり良いものがなかったし、ビデオやyoutubeなんて便利なものはない。カセットテープを何度も繰り返し聴き、コンサートでは双眼鏡を使ってプレイヤーの指の動きをチェックした。若い頃は、集中力、記憶力、運動神経、リズム感など、今よりはだいぶ優れていたので、比較的短い時間でマスターすることができた。その頃に覚えた曲の歌詞やコード、フレーズなどは、数十年経った今もしっかり頭に残っている。最近では、やっと覚えたと思っても、2~3日経てばもう忘れているという始末だ。

 仲間たちと一緒に演奏することは、とても楽しかった。僕は他のメンバーとは別の高校だったので日曜日にしか練習ができない。平日は高校の友人と麻雀をしたり、クラブハウスで文芸活動、ライブハウスでロックを聴いたり、そして休日はバンド仲間とフォークの演奏。迫り来る大学受験を気にしながらも、充実した高校生活をエンジョイしていた。
 ところが、僕は遠くの大学へ進み、バンド活動に参加できなくなってしまった。大学の寮では一人でギターをポロポロ弾く程度。酒に酔ってしょっちゅう寮歌を歌っていたが、フォークソングなどを歌う機会はめっきり少なくなった。今から思えば、大学の同級生や寮生の中にも、誘えば一緒に演奏できそうな友人は幾人かいた。やろうと思わなかったのは、音楽に対する僕自身の情熱が冷めてしまっていたためだと思う。また、高校時代のメンバーほど気の合う仲間に巡り合えるとも思えなかった。
 大学を出て就職したらすぐに結婚、またすぐに子供ができて、もうバンド遊びどころではなくなった。その後も長いあいだ楽器に触れることがなく、再びギターを手にするようになったのは、40歳を過ぎてからだった。

 40代の頃は「憂歌団」にハマっていたが、内田勘太郎氏のギターは超絶すぎて、ちょいと真似しようという気すら起こらない。またナターシャでもやりたいと考えたが、一緒に演奏する仲間が見当たらなかったので、一人でギターやバンジョーをいじって遊んでいた。やがて楽器収集が趣味となり、僕は楽器オタクへの道を進んでいくのである。たくさんのギターやバンジョーに囲まれて、一人でポロポロと弾く。ちゃんと練習しないし、ぜんぜん上手くもならない。ただ良い音が出せればそれで満足。そういうオタク生活が10年間くらい続いた。

 そして今から5年くらい前、ZENさんが久しぶりに我が家へ遊びにやってきた。数十年ぶりに二人で演奏してみると、あの頃の記憶がひしひしと甦ってきた。深い海の底から捕ってきたばかりのアワビみたいに新鮮な感触だった。また一緒にやろうと誘われ、僕は彼のバンドHITOMAZzの一員に加わることになった。



 写真は野洲市のライブ喫茶「森のくまさん」のナターシャ・ナイトに参加したときのもの。僕がバンジョーでZENさんがマンドリン、ギターは以前のメンバーとは異なるが、僕ら二人は40年前と同じことをやっている。ここ数年間いろんな会場で演奏してきたが、他のレパートリーでは、チューリップ、吉田拓郎、かぐや姫、ジローズ、沢田研二、堺正章など、結局は昔と何も変わっていない。ただ腹が出たり、髪が薄くなったりしただけだ。(笑)
 集まって練習する時間はあまりないが、ステージで互いに顔を見合わせると、次にやろうとしていることがだいたい伝わってくる。彼のギターに音を重ねるのはホントに気持ちが良い。やっぱり古くからの友は良いものだ。

 何でも器用にこなすZENさんはあちこち引っ張りダコで、最近では京都の有名アマチュアバンド、〇〇堂のサポートメンバーにも加わっている。一方こちらは別ユニット「おとぎ猫」で地元活動。月に一度集まれるかどうかの頻度だが、僕にとってHITOMAZzはとても楽しいホームチーム。互いの個別活動を尊重し合いながら、今後も良い付き合いを続けていきたいと考えている。

コーヒー

2017-02-06 22:44:55 | エッセイ


 幼い頃、まだ独身だった叔父が同居していて、よく近くの喫茶店へ連れて行ってもらった。僕はジュースやミルクなんかを飲んでいたのだと思うけど、そのことはよく覚えてなくて、店内に立ち込めるコーヒーの香りだけが強く印象に残っている。
 そうした幼児体験も影響しているのか、僕は喫茶店へ行くのが好きだ。コーヒーの通というほどではないので、味そのものよりも店の雰囲気を楽しむ。高校生の頃は授業をさぼって友人たちと「ほんやら洞」や「しあんくれーる」へよく行ったし、大学生の頃はジャズ喫茶の「エオンタ」などでひとりの時間を過ごした。松本は小さな町だが、変わった喫茶店がたくさんあった。「山猫軒」「エイハブ船長」「翁堂」「アミ」など、店の名前を思い出すだけで何だかわくわくしてくる。喫茶店は僕にとって思索の空間であり、友人との語らいの場であり、読書室であり、音楽鑑賞室であり、創作の場でもあった。

 ところが、二十代の半ば頃から、どうしたことかコーヒーが飲めなくなってしまった。胃がむかむかして気持ち悪くなり、ときには軽い立ち眩みのような感じになる。これはたぶんアレルギー症状だということで、長い間(10年間くらい)コーヒーから遠ざかっていた。ある日、叔父に話したら、自分もまったく同じ状態になったことがあるが、いつの間にか治ってしまったと言う。その言葉に勇気づけられ、試しに飲んでみたら、例の症状はまったく感じなかった。久しぶりに飲むコーヒーはたまらなく旨かった。それ以来コーヒーを飲み続けているが、今のところ体に異変を感じることはない。いったいあの症状は何だったのだろう? 叔父と同じということは、遺伝的な体質のせいなのだろうか? 父はコーヒーを飲まなかったので、そこのところはよく分からないのだが。

 今もおいしいコーヒーを飲みたいときは喫茶店へ立ち寄る。ひとりの時はたいていカウンター席だ。煎りたての豆をミルで挽いて、専門的な手つきでお湯が注がれる。淹れてもらっている間も、高い香りと魅惑的な音を存分に楽しむことができる。コーヒー1杯とタバコを数本、ほんの20~30分の間だが、僕にとってはささやかな贅沢。昔のように、ここで本を読んだり文章を書いたりはしない。音楽なんてなくてもいい。純粋な気持ちでコーヒータイムを楽しみたいと思っている。

 自分で淹れるのは、もっぱらインスタントばかり。職場と家を合わせると、一日に5~6杯は飲む。いわゆるカフェイン中毒の部類だ。特に文章を書いているときはコーヒーをたくさん飲む。そこでふと気づいたのだが、アレルギー症状のためコーヒーを断っていた期間は、ほとんど小説などを書かなかった。三十代の半ば、創作を再開した時期は、コーヒーを再び飲むようになった時期とほぼ一致する。ひょっとすると、僕の創作力はカフェインの作用によって生み出されているのかもしれない。

 さて、今日もコーヒーの魔力を借りながら、こうして文章を書いている。濃いめに淹れたネスカフェ・ゴールドブレンドだ。これもまあまあ旨い。喫茶店へ行くことに比べると、コスパは抜群に良い。
 僕はいくらコーヒーを飲んでも、夜はちゃんと眠れる。ものすごく寝つきが良く、ベッドに入ってから眠りに落ちるまで大抵2~3分。眠れなくて困ったことなんてほとんどない。今日も一日は目覚めのコーヒーに始まり、就寝前のコーヒーで終わる。コーヒーは人生の友。アレルギーなどの症状が再発することのないように祈るばかりである。