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 ♪♪♪ H.Tokuda

好きな詩人 谷川俊太郎

2017-03-25 03:36:50 | エッセイ


 彼の姓は「たにがわ」ではなく「たにかわ」だそうである。以前テレビで司会のアナウンサーが「たにがわしゅんたろうさんです」と紹介した時、「いいえ、ぼくは、たにかわです」と、わざわざ訂正していた。やはり言葉を大切にする人は違う。
 谷川俊太郎は1952年に「二十億光年の孤独」と題する詩集でデビューした。人間の内的感情を宇宙的広がりの中に同化させようとする独特の作風はきわめて斬新なもので、当時の人々をあっと驚かせたという。あの三好達治も深く感動し、「二十億光年の孤独」の冒頭に寄稿詩を掲載することを自らかって出たというくらいだ。
宇宙的感覚というのは、例えば次のような詩のフレーズに代表される。

  万有引力とは
  ひき合う孤独の力である

  宇宙はひずんでいる
  それ故みんなはもとめ合う

  宇宙はどんどん膨らんでゆく
  それ故みんなは不安である

   「二十億光年の孤独」より抜粋

 この詩を初めて読んだとき、何か得体の知れぬ漠然としたショックに襲われた。当時そろそろ大学受験のことが気になりはじめ、志望校の選択に迷っていた僕は、そのショックを契機にさらに迷うことになった。手塚治虫の「火の鳥」を読んだのもちょうど同じころだった。当時は文学部志望だったが、宇宙だとか素粒子だとか生命の神秘とかいった理科系の事象に、がぜん興味を引かれた。文学と自然科学との微妙な接点、それは言い換えれば、精神世界と宇宙空間との接点でもある。
ついでにもうひとつ引用しよう。

 人々の祈りの部分がもっとつよくあるように
  人々が地球のさびしさをもっとひしひし感じるように
  ねむりのまえに僕は祈ろう

    (中略)

  一つの大きな主張が
  無限の時の突端に始まり
  今もなお続いている
  そして
  一つの小さな祈りは
  暗くて巨きな時の中に
  かすかながらもしっかり燃え続けようと
  今 炎をあげる

           「祈り」より抜粋

 結局、文学も自然科学も同じようなものだと安易な結論に達し、僕は大学の理学部へ進むことになった。当初の予定どおり文学部に進んでいれば、今とはまったく違う職業に就き、まったく違った生活を送っていたことだろう。人生においてもっとも多感なころに接した文学などの影響は、その後の人生を大きく左右するものである。
 この人のせいで僕は文系から理系へと方向転換をし、数学が出来なくて困り、大学へ入ってからも(理学部なのに)数学や物理がまったく解らなくて苦労した。結局のところ理学の道には挫折し、就職の際にはそれに近いと思われる農学系に進むことにした。はやり数学や理科は苦手で、今はもっぱら事務屋のような仕事に徹している。しかし、農業とは、自然と人との接点に位置するなりわいであり、僕は遠回りをしながらも自分の求めていた世界に近づいてきたように思っている。

 谷川俊太郎の詩は、時には論理的であり、読み手に対する強い説得力を備えているが、その全容は「人間」という存在物の持つさびしさとやさしさに包まれている。彼の詩は常に平易な言葉で綴られ、その平易さの中にとてつもなく巨大で難解なテーゼが潜んでいるのである。
 また、一方で彼はマザーグースの訳を試みたり、「イルカいないか、いないかいるか」などといった「ことばあそびうた」に取り組んだりもしている。彼は思想家であると同時に、言葉という生きた道具を巧みに操る優秀な技術者でもある。ちなみに、「空をこえて~ ラララ 星のかなた~」という鉄腕アトムの主題歌は彼の作詞によるものだし、漫画「スヌーピー」の翻訳者としても知られている。

 詩人というのは、ずいぶん楽な商売に見える。小説家やシナリオライターなどに比べると扱う文字数ははるかに少ないし、取材や事実関係の調査などもあまり必要ないだろうから、実労働時間は短くて済みそうだ。しかし、それだけに、詩人の生み出す言葉はそのひとつひとつが重く、大切に磨き抜かれたものでなければならない。変な例えになるが、小説家が原稿用紙1枚につきナンボの商売だとすれば、詩人は1文字につきナンボの商売である。詩を構成している文字や言葉は、研ぎ澄まされた感性や深い洞察力によって選び抜かれたものであり、それはいわば詩人の魂の結晶である。だから、僕は詩を読むときは、ゆっくりと、できるだけゆっくりと読むようにしている。
作者はこの詩を通じて何を訴えようとしているのか、この比喩はどういうことを表現しているのか、・・・そんなことに頭を使う必要はない。上等の詩は心地よい音楽と同じように、直接に読み手の感性を揺り動かしてくれるものなのである。谷川俊太郎の編み出す言葉には、理窟抜きに不思議な魅力がある。

 最後に僕の好きな詩を全文掲載しておこう。

   沈黙

  愛しあっている二人は
  黙ったまま抱きあう
  愛はいつも愛の言葉より
  小さすぎるか 稀には
  大きすぎるので
  愛しあっている二人は
  正確にかつ精密に
  愛しあうために
  黙ったまま抱きあう
  黙っていれば
  青空は友
  小石も友
  裸の足裏についた
  部屋の埃が
  敷布をよごして
  夜はゆっくりと
  すべてを無名にしていく
  空は無名
  部屋は無名
  世界は無名
  うずくまる二人は無名
  すべては無名の存在の兄弟
  ただ神だけが
  その最初の名の重さ故に
  ぽとりと
  やもりのように
  二人の間におちてくる

 やもりのように落ちてくる神様というのは、なんだか魅力的だ。こんな神様だったら信仰してもいいなという気になってくる。




盗作の世界

2017-03-18 01:52:14 | エッセイ(音楽)



 まず、楽器の「盗作」の話から始めよう。
 写真左は1970年代に製造された国産ギターで、マーチンD-41のモデルだと思われる。右は本物のマーチンで、こちらは2008年製のD-42。どちらも今僕の部屋にある。
 わが国ではマーチン社やギブソン社のギターを真似た製品が多数作られ、かつてはこの写真のように、社名やロゴまでパクっているものも見られた。こうした現象について、当時のマーチン社代表は次のように語ったという。
 「このように安いギターが当社の製品と誤認されることはないだろう。模造品だと納得したうえで買われるのなら、それで良いではないか。こういうギターで日本の若者が手軽に音楽に親しみ、いずれは当社の本物を使うようになってくれたら、そんなに嬉しいことはない」
 ふうむ、さすがは天下のマーチン社。先を見ている。実際に、偽物のマーチンでギターを始め、中年になってから本物を手に入れた人は多数いる。言うまでもなく、僕もその一人だ。中学生や高校生に向けた模造品に目くじらを立てて訴えたところで、どうせ彼らが本物を買うことはできない。本物のマーチンと偽物のマーチンとでは価格が違いすぎて、そもそも競合する商品ではないのだ。偽物が売れたところで、マーチン社が損をすることはない。

 実は音楽、文学、美術などについてもこれと同じことが言えるのではないか。
 例えば、日本の作詞家がボブ・ディランの詞を真似たとしても、そのことでボブ・ディランのレコード売上が減るわけでなく、彼自身には経済的な損失は生じない。いや、逆に、盗作疑惑云々で、その原作者たるボブ・ディランの名が広まれば、彼の音楽活動にとってプラスの効果が生まれる可能性だってある。
 例えば誰かが、村上春樹の小説からあちらこちらをパクって「ノルウェイの林」とか「執事をめぐる冒険」なんてのを書いて出版したとしても、そのことで村上氏に経済的な損害が生じることはない。そもそも原作が素晴らしいから真似されるのであり、そういうふうに考えれば精神的苦痛すら生まれてこないのではないか。

 だったら、いったい盗作の何が悪いのだろう?
 原作者からすれば、自分の作品に寄生して他人が儲けるのは、感情的に腹立たしいということだろうか。もっと社会的な見地から言えば、才能のない人間が他人の才能を盗んで金儲けをするのは人道的に許されないということだろうか。もし後者だとすれば、盗作をした者は、原作者からの訴えによる民事訴訟でなく、社会的に罰せられるべきである。
 ボブ・ディランの詞をパクった者に対してほんとに怒るのは、ボブ・ディラン本人でなく、その歌詞を聞いて感動したり、そのために対価を支払ってレコードやCDを購入した一般聴衆であるべきだ。
 うーん、なんだか難しい話になってきた。

 僕が先ほどからボブ・ディランの例を持ち出しているのには理由がある。まず、次の詞を読んでみてほしい。

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スペイン革のブーツ
 詞:ボブ・ディラン 訳:片桐ユズル

 おお、恋人よ、わたしは船出する
 朝には船出してしまうのよ
 海のむこうから送ってほしいものはないかしら
 わたしが行く国から

 いいや、恋人よ、おくってほしいものはない
 なんにもほしいものはない
 ただ汚れずにかえっておいで
 あのさびしい海のむこうから

 おお、でもなにかほしいとかおもって
 銀とか金でできたものを
 マドリッドの山や
 バルセロナの岸辺から

 おお、まっくらな夜からとった星と
 ふかい海からとったダイヤモンドだって
 あなたのやさしいキスのほうがいい
 わたしがほしいのはそれだけだ
 (中略)
 
 さびしい日に手紙がきた
 それは船出した彼女からいってきた
 いつかえるかわかりません
 それはわたしの気分しだい
 (中略)

 では気をつけて、西風に気をつけて
 あらしの天気に気をつけて
 そう、なにかおくってくれるのならば
 スペイン革のスペイン・ブーツ
----------------------------

 男女の立場が逆転しているけど、内容は「木綿のハンカチーフ」にそっくり。
 かつて僕は、ボブ・ディランのこの詞を知って愕然とした。大好きだったあの歌がパクリだったとは! 作詞者の松本某は、この曲でたくさんのお金を儲けたのである。そして僕の大好きな太田裕美は、盗作と知ってか知らずか、この曲を一所懸命に歌い続けたのである。これは絶対に罪だ。

僕のギター 2

2017-03-09 20:21:08 | エッセイ(音楽)


 先日のFacebookでの会話。
 某ライブカフェで一緒に演奏したS氏のマンドリンが100万円以上の高級品だということが話題になっていたとき、彼のバンド仲間であるN氏が割り込んできた。
 N氏「S君のあのマンドリンは、通称『小判』と言うんですわ」
 S氏「それなら、あんたのギターは『真珠』やな」
 N氏「いや、俺のギターは『金棒』と呼んでほしい」

 お二人の風貌を知っている僕は思わず笑ってしまった。察しの良い方はすでにお判りだろうが、上記のやり取りは「猫に小判」「豚に真珠」「鬼に金棒」の喩えである。とっさにこういう会話で笑いを取れるのは、さすがに関西人。また息の合ったバンド仲間ならではのことだろう。

 さて、写真のこのギターは、僕が持っている中では最も高価なマーチンD42、通称「おつやさん」と言う。何年か前に、ある方のお通夜に行ったことがきっかけで買ったことから、そう呼んでいるのだ。
 お通夜は草津駅前のセレモニーホールで行われたのだが、駐車場がいっぱいで、僕は仕方なく近くの商業施設に車を停めた。せっかくだからギターの弦でも買おうと思って楽器店に入り、そこでこのギターに出会ってしまったのだった。
 表板の木目が細かくて、とてもきれいだ。スノーフレイクとキャッツアイのインレイ細工も素敵。D42の実物を見たのは初めてだった。隣に置いてあった上位機種のD45よりも、僕はこちらのほうに目を引かれた。
「よろしければ、試奏されますか?」と店員が声を掛けてきたが、そのとき僕はダブルの略礼服に真っ黒のネクタイ、どう考えてもギターを弾くような恰好ではない。丁重に断って弦だけ買って店を出た。
 しかし、寝るような時間になっても、どうもあのギターのことが気になって仕方がない。ああ、どんな音なのか弾いてみたい。このままでは夢にまで出てきそうな勢いだ。どうやら僕は、あのギターに一目惚れしてしまったようだ。

 翌日、僕は再び楽器店を訪れた。店員は待ってましたとばかりにガラスの陳列棚からD42を取り出した。
 気持ちよく伸びる低音の響き。中高音は倍音が豊富で、シャラシャラときらびやかな音。弦高も低くて、とても弾きやすい。ああ、なんという心地よさ。僕はすっかりこのギターに魅了されてしまった。考えてみれば、一目惚れなんて初めての経験だった。僕は女性に恋するのにもけっこう時間がかかるのだ。
 その後何度か店へ足を運び、値切りに値切り倒した後に、清水の舞台からダイビングするつもりでこのギターを買うことに決めた。手持ちのヘソクリをすべて注ぎ込み、足りない分は毎月1万円のローンを組んだ。それを支払うために、大好きなタバコを一定期間やめることにした。その頃は人前で演奏する機会なんてなかったのだが、一生の宝として、このギターを手元に置いておきたいと考えたのだった。

 こうして僕の部屋へやってきた「おつやさん」だが、その後、このギターをきっかけとして僕の生活に大きな転機が訪れることになる。
 長いあいだ会ってなかった旧友のZENさんへの年賀状に「マーチンのギターを買ったよ」と書いたところ、彼から電話が掛かってきて、ギターを見せて欲しいと言う。数日後、彼が僕の家へやってきて、何十年ぶりかに一緒にギターを弾き、その勢いで僕は彼のバンドHITOMAZzに参加することになった。その延長で「おとぎ猫」の活動を始め、今では月に2~3回、どこかのライブカフェなどで演奏するようになった
 おつやさんが僕の部屋に来なかったら、ZENさんと再会する機会もなかっただろうし、人前で演奏しようなんて思いもしなかっただろう。元はと言えば、たまたま上司のお母さんのお通夜に参列したことで出会ったギター、まさに一期一会のめぐり逢いといったところか。

 ZENさんはこのギターにピックアップを取り付けてライブで使うことを勧めるが、僕はどうもその美しいボディーに手を加える気になれず、ほぼ家庭での練習専用となっている。まあ僕の演奏レベルからすれば、豚に小判、いや猫に真珠?と言ったところだが、「宝の持ち腐れ」ということにならないよう、たまにはライブに持ち出し、マイク録りで生音を楽しんでいきたいと思っている。





僕のギター 1

2017-03-09 00:06:32 | エッセイ(音楽)


 ギターはたくさん持っているけど、一番よく弾いてるのはこれ。ラリビーというメーカーで、元はカナダの職人気質のおじさんが家内的手工業みたいな感じで細々と制作していたのだが、今はアメリカに拠点を移して会社も大きくなった。美しいインレイ細工は、カナダ時代から職人おじさんの奥さんが担当していた。しかし、最近では高齢のため細かい作業ができなくなったということで、単純なデザインのものに変更されている。広いアメリカ、他にも職人を探せば見つかると思うのだが、どうやらこのおじさん、奥さん以外の人にインレイ細工を頼む気がないらしい。そういうわけで、僕が持っている物は、社長夫人の最後の方の作品というわけだ。

 表板はアディロンダッグ・スプルース。サイド&バックはワシントン条約で使用できなくなった最高級材ハカランダに最も近いとされるマダガスカル・ローズウッド。表板の木目はきめ細かく、きれいに揃っていて、ほんとに美しいギターだ。見ているだけで惚れ惚れする。無精者の僕もこのギターだけは時々クロスで拭き上げるなど、丁寧に手入れをしている。
 もちろん音色も美しいし、弾き心地も良い。ネット通販で写真だけ見て買ったのだが、予想以上の大当たり。これより高価なマーチン社のギターも持っているけど、ラリビーを弾く機会のほうがはるかに多い。

 僕は楽器に関してはかなり面食いで、重視するポイントは、①外観 ②音色 ③弾きやすさ の順だ。プロの演奏家だと、まったく逆の順番になると思う。僕の趣味は楽器の収集。演奏については、持っているから弾くといった感じだ。弾くために買うのではない。陶器などの愛好家が、茶器を見て楽しみ、触って楽しみ、ごく稀にそれでお茶を淹れてみたりするのと同じようなものだと思う。
 楽器は弾き込むことによって、だんだん音が良くなってくる。そうした意味では、もっと弾いてやるほうがいいんだろうな。演奏するために良い音色を求めるのでなく、音色を良くするために演奏する。何だか本末転倒みたいな話だが、僕はいつもそういう気持ちでギターに接している。

 人前で演奏するときには、良い音を出すことが最大の課題。そのため、頻繁に弦を張り替え、硬めのピックを使い、アルペジオやスリーフィンガーのパターンもフラットピックで弾く。「ギター上手いですね」と言われるよりも「ギター良い音でしたよ」と言われるほうが嬉しい。いや、これは下手の負け惜しみではなく正直な気持ちだ。
 さらに言えば、楽器を見えやすくするために、譜面台はできるだけ使わないようにしている。まあこんなことは僕の自己満足に過ぎないんだけれど。
 自分の好きなものを見たり触ったりしている時間はとても幸せ。若い頃は上手くなろうと頑張っていたけど、今は技術的な問題よりも自分自身の満足感のほうが優先だ。そういう気持ちに応えて、今日もギターは優しく心地よい音をいっぱいに響かせて、僕の心を癒してくれる。とても幸せ。♡