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反戦歌&プロテストソング特集

2021-08-19 17:09:50 | エッセイ(音楽)
コミュニティーカフェ・スマイルの「平和がいちばんコンサート」に参加し、反戦歌やプロテストソングを5曲演奏しました。
近頃ではあまり歌われなくなったけど、僕としてはたいへん思い入れの深い曲ばかりです。世界平和は、いつの世にも恒久のみんなの願い。これからも大切に歌い継いでいきたいと考えています。

それぞれの曲について、簡単な解説を加えつつ、歌に対する想いを述べてみたいと思います。
青文字で書かれたURLをクリックすると、Youtubeの演奏動画が開くようになっています。


1. イマジン (日本語版)
https://youtu.be/jQHNeOe1cQE

まずはジョン・レノンの「イマジン」。
歌詞は相方のユミさんと相談しながら、自分たちなりに翻訳しました。
天国なんてない。地獄もない。僕たちの上には大空が広がり、ずっと世界中につながっている。
宗教もなく、国境もなく、貧富の違いもなく、武器もなく、戦争もない。・・・そんな世界は絵空事かもしれないけれど、ただ想像するだけでも心が安らかになれる。
世界中のみんながそういう気持ちになれば、少なくとも戦争はなくなるのではないだろうか。

オリンピックを見ていて思ったのだけど、マスコミは自国の選手を応援することばかりを煽り、自国のメダル取得数ばかりを報道する。スポーツという枠での国同士の戦い。なんでこういうことになるのだろう。
日本人選手はよく「日の丸を背負って」という言葉を口にするが、そんなもの背負わなくても、自分自身が世界一になることを目標に頑張れば良いではないか。
観戦する側も、国籍なんかにとらわれずグローバルな気持ちで、素晴らしいプレーをした選手に拍手を贈れば良いではないか。

「イマジン」は、中学生の頃にラジオで聴いて以来、現在に至るまで、ずっと大好きな曲。今回は世界平和を心の中で祈りながら、ゆったりしたリズムで演奏しました。

2. 大統領殿
https://youtu.be/nsfHlvs8iho

元はフランスの歌で、作家・詩人・ジャズトランぺッター・シンガーソングライターとして活躍したボリス・ヴィアンの作。
原作のタイトルは「脱走兵」との意味だが、日本では高石友也が「拝啓大統領殿」と翻訳して歌い、フォーク・クルセダーズ時代の加藤和彦なども、同様の歌詞で歌っていた。
また、日本のシャンソン歌手が別の訳詞で歌っている例も見られ、なんと、あの沢田研二も歌っている。(Youtubeにアップされています。これがすごくカッコイイ。)

僕は、加藤和彦のバージョンが好きで、今回はこれを手本としながら、ちょっとシャンソン風のコード進行を加えてみた。
戦争で両親を失った青年が徴兵令状を受け取り、それを拒否して逃げ出そうとするストーリー。人を殺すくらいなら、自分が殺される方がいい。「憲兵たちよ、撃つがいい」という最後の一節に、作者の強い情念が感じられる。
「戦争反対!」と声高に叫ぶような反戦歌が多かった中、「僕は逃げる」というきわめて現実的な反戦行動に、当時中学生だった僕は何とも言えぬ衝撃を受けたものだった。

3. 腰まで泥まみれ
https://youtu.be/n4uRGce29Hw

ピート・シーガー、1966年の作。シーガーはこの歌をコンサートや反戦集会などで歌い、1967年には人気テレビ番組の収録で歌ったが、放送局幹部の判断で全面カットされてしまい話題となった。
泥沼化していくベトナム戦争を象徴した歌詞とされ、隊長が断固「進めー!」と叫ぶ姿は、変わりゆく情勢などを顧みずに戦争を継続しようとする米国政府を揶揄したもの。歌詞の中で、撤退を進言する軍曹に対して隊長が「Nervous Nelly(臆病者)」と叱責するところがあるが、これは当時のジョンソン大統領が戦争への批判に対してよく口にした言葉だと言われている。

日本では、1967年のピート・シーガー日本公演でこの曲に接した中川五郎が、すぐに訳詞を作って歌い始めた。このとき中川はまだ18歳。その後、先輩フォークシンガーである高石友也や岡林信康などによってカヴァーされ、1970年安保闘争関連の集会などでも、よく歌われるようになった。

おとぎ猫では、これまでにも何度かこの曲を演奏しています。やるたびに違った感じになるのだけど、今回はちょっとゆっくりしたテンポになりました。

4. 死んだ男の残したものは
https://youtu.be/An_LZOxbuDQ

ベトナム戦争さなかの1965年、詩人の谷川俊太郎が「ベトナムの平和を願う市民の集会」に寄せて詩を書き、クラシック音楽家の武満徹が曲をつけたもの。最初はバリトン歌手によって歌われたが、その後に高石友也が歌い、他にも小室等、石川セリ、カルメン・マキ、森山良子など、数多くのミュージシャンによってカヴァーされている。

とにかく、詞のインパクトが凄い。「墓石ひとつ残せなかった」なんて、普通では思いつかないな。さすがは詩人!と思わされるフレーズが随所に散りばめられ、全体としては戦争の悲惨さや無慈悲さを切々と物語っている。
ベトナム反戦に向けて書かれた歌だが、思い起こされるのは日本の敗戦直後の風景。「墓石」「着物」といった言葉が、それを連想させるのだろう。また「ゆがんだ地球」は核戦争後の世界を思わせる。唯一の核兵器被爆国として、わが国から世界に向けて発信されるべきメッセージソングではないだろうか。

この曲は他の出演者の方も歌われると聞いていたので、ちょっとアレンジを工夫して、オートハープを中心とする演奏にしました。
ユミさん、渾身の熱唱。その表情にも気迫がこもっています。

5. 風に吹かれて
https://youtu.be/ERhomvMrGlo

ボブ・ディランの代表曲。歌詞は中川五郎さん訳詞のもの。
中川さんは「blowin'」の現在進行形を大切にするとのことで「風に吹かれ続けている」と訳されている。題名もそのように表記するべきかと迷ったが、中川さん自身も「風に吹かれて」と表記されていることもあるので、今回はこちらの邦題を用いた。

中川五郎さんは、ライブのMCで次のように語っている。
「その答えは風の中に舞っていて、いつまでも掴むことができない」という歌かと若い頃は思っていたけれど、いや、いつまでも舞い続けているのならば、その風の中に自分自身が飛び込んで行ってもっと大きく手を伸ばしたら、しっかり掴めるじゃないか。ボブ・ディランは、きっとそういうことを言いたかったんじゃないかと、最近になって考えるようになった。

さすがは50年以上にわたってボブ・ディランを歌い続けている中川さん。なるほど、そういう解釈なのかと納得し、僕らも前向きな気持ちで、この曲に取り組んでみた。
わが国ではPPM(ピーター・ポール&マリー)がしっとり美しいハーモニーで歌っているバージョンでよく知られているが、頑張ってみてもこんなにきれいにハモれるわけはないし、今回は中川さんのライブバージョンに近いアレンジにしてみた。

最後のほうではシュプレッヒコールのようなサビの繰り返し。これは、学生運動当時のフォーク集会をイメージしたものです。
さあ、みんなで風の中に飛び込んでみようよ。そういうメッセージを込めて歌いました。

6. We Shall Overcome (大きな壁が崩れる)
https://www.youtube.com/watch?v=cAAgP58l0ok

これは「平和がいちばんコンサート」収録のものではないが、シリーズの締め括りとして掲載したいと思う。
この曲のメロディーは古くからある讃美歌で、黒人労働者たちの間でゴスペルのような感じで歌われていた。
元は「we will overcome」だったのだが、この曲を聴いたピート・シーガーが「we shall ~」に改め、歌詞も付け加えて広めたものとされる。
「we will ~」だと単なる未来形だが、「we shall overcome」では「必ず乗り越えよう」という強い意志を表すようになる。

日本では「勝利の日まで 闘い抜くぞ~」と翻訳され、労働運動や学生運動などでよく歌われていた。
以前からこの曲をやってみたいと考えていたのだが、どうも既存の日本語歌詞が気に入らない。「overcome」の対象は、「この闘い」とかいう個別のものでなく、もっと大きく、僕たちの前に漠然と立ちふさがる強敵のように思えたのだ。
「勝利」ではなく「乗り越える」というようなニュアンス。そうして訳詞を始めたのだが、なかなか上手い言葉が思いつかず、お蔵入りとなってしまった。
それから数年後、中川五郎さんの訳詞に出会った。
「大きな壁が崩れる」あ、これ、ええじゃないか!
そんなわけで、中川さんの訳詞に、最後だけ英語の原詞を付けて歌わせていただきました。

「大きな壁」は、人種や民族の違いであり、イデオロギーの違いであり、金持ちと貧乏の違いであり、宗教の違いであり、・・・いろんなものを分け隔てる無用な壁があるのなら、みんなでぶつかり崩して取り去ってしまおう。
また、僕たちの前に「大きな壁」が立ちふさがり、行く手を阻まれているのだとしたら、それを打ち崩して自由を手に入れよう。今、コロナ禍で喘ぐ僕たちには、そちらのニュアンスの方がぴったり来るのかもしれない。
世界中のみんなが同じ気持ちで向き合えば、戦争は起こらないだろうし、差別はなくなるだろうし、きっと地球温暖化や気象災害や感染症にも打ち勝っていけるだろう。
「イマジン」でジョン・レノンが語っている理想的な世界。それは「大きな壁」が崩された世界と同じものかもしれない。
そうした理想的な世界に少しずつでも近づいて行けるよう、地球市民のひとりとして、強く願ってやまない。

7. ダイジェスト動画、母の手記

今年の「平和がいちばんコンサート」には15組の方々が参加され、それぞれ別々に動画を収録して、8月8日に一斉公開されました。
この日のために15組出演によるダイジェスト版の動画が作成されています。とても上手く編集されており、出演者皆様の想いがよく伝わってきます。
こちらです。
https://www.youtube.com/watch?v=3y8mrn6GYdM

おとぎ猫の全編動画はこちらです。
MC込みで約27分。もしお時間があればご覧になってください。
https://www.youtube.com/watch?v=vGT32Ghczdw

なお、MCでも紹介している僕の母の手記「戦争の思い出」は、こちらから見ることができます。
http://www.eonet.ne.jp/~hisa2/essay1.pdf

母は小学生の頃、大阪の大空襲を体験しました。慕っていた兄はビルマで戦死。少女目線で語られる戦時下の記憶はとてもリアルで、戦争を知らない僕たちにその恐ろしさを切々と伝えてくれます。
「自分の子や孫たちが、二度とあのような無残な体験をしませんように。今の平和がいつまでも続きますようにと、祈らずにはいられない。」
「あとがき」は、このように結ばれています。僕たちが当たり前だと思っている今の平和は、母にとっては特別なものなのです。

これを書いている今日は終戦記念日。戦争の犠牲となられた方々のご冥福を祈りつつ、真に平和な世界の到来を想い描いて、静かに合掌したいと思います。

  2021/8/15



神田川

2017-12-27 18:17:25 | エッセイ(音楽)


 「後世に残したい昭和の名曲」なんてテレビ番組ではたいてい上位にランクインする、かぐや姫の「神田川」。その歌の舞台は、おそらくこんな所だと思う。
 もっと大きな川を想像する人もいるかもしれないが、早稲田大学に近い高田馬場辺りの街中を流れている神田川はこんな感じらしい。この写真は、都内在住の友人が数年前に撮影したもの。さすがに「三畳一間の小さな下宿」はないだろうけど、今でもこういう建物が残っているとは驚きだ。

 汚い川に安下宿、同棲、銭湯通い、テレビなんてないから絵を描いたりして時間をつぶしている。たまらなく貧乏で虚しい。それでも二人で過ごしているのが幸せだった。安心感と不安感が隣り合わせに二人を包んでいる。こういう状況は悲しいまでによく理解できる。  
 僕が学生時代を過ごした信州の冬は、「洗い髪が芯まで冷えて」というくらいでは済まなかった。連れ合いを待っているわずかの時間に、濡れた髪はバシバシに凍結し、銭湯から下宿へと帰る道すがら、体中の骨の芯まで冷え付いた。
 僕が転がり込んでいた彼女の下宿は六畳一間。神田川の下宿より2倍も豪勢だ。(笑) しかし風呂はなく、トイレ、洗面所は共同。部屋にはテレビもなく、FMラジオばかり聴いていた。エアコンもストーブもなく、冬はずっとコタツに入ってた。彼女が中華鍋で(鍋といえばそれしかなかった)インスタントラーメンを作り、二人で仲良く啜った。デートといってもお金がないので、本屋で立ち読みばかり。そんな貧乏生活ではあったが、なぜか毎日が充実していた。「神田川」の歌を聴くたび、若かりし日々を思い出しては涙が出そうになってくる。

 さて、「神田川」の話に戻る。この歌に地名が登場するのは、2番の「窓の下には神田川」というフレーズ、この一回だけなのだが、そこで詞のイメージが一気に膨らんでいく。窓から遠くを眺めるのでなく、おそらく窓の直下に川が見えるのだろう。だとすれば、この写真のように川岸ぎりぎりにアパートが建てられているはずだ。部屋から見下ろす川の流れは風流と言うには程遠く、窓を開けるとドブの臭いが漂ってくる。川面にはコーラの空き缶や軟式野球のボールや花火の燃えカスや、そういった文明生活の残骸が数々と浮遊し、ときには段ボールに乗せられた子猫が流されて来たりもする。そうした川の風景を横目で見ながら、若い男女は慎ましくも愛情に満ちた三畳一間の空間に閉じこもる。
 これが隅田川だと「春のうらら」だし、多摩川だったら巨人軍の練習用グラウンドを想像してしまう。「神田川」というたった一つの固有名詞が、この物語の背景を切なげに語っている。

 「神田川」の作詞者である喜多条忠は、「詞ができたよ」と言って南こうせつに電話を掛け、ノートに書いた歌詞を読み上げた。まだメールもFAXもなかった時代だ。こうせつはそれを聞いてメモを取っている間に、直ちにメロディーを思い浮かべたと言う。切ない歌詞と語りかけるようなメロディー、そして哀しみを誘うバイオリンの音色。すばらしい名曲だと思う。
 この曲は、南こうせつの優しく明るい声で歌われるから、ちょうど良い感じなのだ。暗く沈んだ声だと、ほんとに陰鬱な歌になってしまう。僕はギターでよくこの曲を弾いてみるが、自分で歌おうという気にはならない。あまりに好き過ぎて歌えない歌。

 今の僕は浴室もトイレも洗面所もある家に住み、風呂に行くと言えば車で日帰り温泉。箱の中でカタカタ鳴るような石鹸なんて使わない。シトラスやハーブの香りのボディーソープだ。部屋にはテレビもエアコンもあり、床暖房も入っている。妻は中華鍋のほか、さまざまな調理器具を使い分けて凝った料理を作る。二人の子供は社会人となり、僕はあと数年働けば退職金をもらって家のローンを完済。決して裕福ではないが、人並みに安定した生活には違いない。でも、その安定感が、何だかしっくりこないのだ。
 「若かったあの頃 何も怖くなかった」・・・失うものがないから怖いものもなかった。洗い髪を凍らせながら、互いの体の温みだけを頼りに寄り添って歩いた信州の夜。下宿へとたどりつき、コタツに入って熱い紅茶を入れ、一つのカップから交代で飲んだときのあの幸福感は、もう二度と味わうことができないのか。
 そんな学生時代を回想しながら、「神田川」のコードをアルペジオで弾き、心の中でそっと静かに口ずさんでみる。下宿の壁に付いていたシミの形までもが、はっきりと思い出されてくるような気がする。

(写真撮影:鎌田宏 氏)

盗作の世界

2017-03-18 01:52:14 | エッセイ(音楽)



 まず、楽器の「盗作」の話から始めよう。
 写真左は1970年代に製造された国産ギターで、マーチンD-41のモデルだと思われる。右は本物のマーチンで、こちらは2008年製のD-42。どちらも今僕の部屋にある。
 わが国ではマーチン社やギブソン社のギターを真似た製品が多数作られ、かつてはこの写真のように、社名やロゴまでパクっているものも見られた。こうした現象について、当時のマーチン社代表は次のように語ったという。
 「このように安いギターが当社の製品と誤認されることはないだろう。模造品だと納得したうえで買われるのなら、それで良いではないか。こういうギターで日本の若者が手軽に音楽に親しみ、いずれは当社の本物を使うようになってくれたら、そんなに嬉しいことはない」
 ふうむ、さすがは天下のマーチン社。先を見ている。実際に、偽物のマーチンでギターを始め、中年になってから本物を手に入れた人は多数いる。言うまでもなく、僕もその一人だ。中学生や高校生に向けた模造品に目くじらを立てて訴えたところで、どうせ彼らが本物を買うことはできない。本物のマーチンと偽物のマーチンとでは価格が違いすぎて、そもそも競合する商品ではないのだ。偽物が売れたところで、マーチン社が損をすることはない。

 実は音楽、文学、美術などについてもこれと同じことが言えるのではないか。
 例えば、日本の作詞家がボブ・ディランの詞を真似たとしても、そのことでボブ・ディランのレコード売上が減るわけでなく、彼自身には経済的な損失は生じない。いや、逆に、盗作疑惑云々で、その原作者たるボブ・ディランの名が広まれば、彼の音楽活動にとってプラスの効果が生まれる可能性だってある。
 例えば誰かが、村上春樹の小説からあちらこちらをパクって「ノルウェイの林」とか「執事をめぐる冒険」なんてのを書いて出版したとしても、そのことで村上氏に経済的な損害が生じることはない。そもそも原作が素晴らしいから真似されるのであり、そういうふうに考えれば精神的苦痛すら生まれてこないのではないか。

 だったら、いったい盗作の何が悪いのだろう?
 原作者からすれば、自分の作品に寄生して他人が儲けるのは、感情的に腹立たしいということだろうか。もっと社会的な見地から言えば、才能のない人間が他人の才能を盗んで金儲けをするのは人道的に許されないということだろうか。もし後者だとすれば、盗作をした者は、原作者からの訴えによる民事訴訟でなく、社会的に罰せられるべきである。
 ボブ・ディランの詞をパクった者に対してほんとに怒るのは、ボブ・ディラン本人でなく、その歌詞を聞いて感動したり、そのために対価を支払ってレコードやCDを購入した一般聴衆であるべきだ。
 うーん、なんだか難しい話になってきた。

 僕が先ほどからボブ・ディランの例を持ち出しているのには理由がある。まず、次の詞を読んでみてほしい。

----------------------------
スペイン革のブーツ
 詞:ボブ・ディラン 訳:片桐ユズル

 おお、恋人よ、わたしは船出する
 朝には船出してしまうのよ
 海のむこうから送ってほしいものはないかしら
 わたしが行く国から

 いいや、恋人よ、おくってほしいものはない
 なんにもほしいものはない
 ただ汚れずにかえっておいで
 あのさびしい海のむこうから

 おお、でもなにかほしいとかおもって
 銀とか金でできたものを
 マドリッドの山や
 バルセロナの岸辺から

 おお、まっくらな夜からとった星と
 ふかい海からとったダイヤモンドだって
 あなたのやさしいキスのほうがいい
 わたしがほしいのはそれだけだ
 (中略)
 
 さびしい日に手紙がきた
 それは船出した彼女からいってきた
 いつかえるかわかりません
 それはわたしの気分しだい
 (中略)

 では気をつけて、西風に気をつけて
 あらしの天気に気をつけて
 そう、なにかおくってくれるのならば
 スペイン革のスペイン・ブーツ
----------------------------

 男女の立場が逆転しているけど、内容は「木綿のハンカチーフ」にそっくり。
 かつて僕は、ボブ・ディランのこの詞を知って愕然とした。大好きだったあの歌がパクリだったとは! 作詞者の松本某は、この曲でたくさんのお金を儲けたのである。そして僕の大好きな太田裕美は、盗作と知ってか知らずか、この曲を一所懸命に歌い続けたのである。これは絶対に罪だ。

僕のギター 2

2017-03-09 20:21:08 | エッセイ(音楽)


 先日のFacebookでの会話。
 某ライブカフェで一緒に演奏したS氏のマンドリンが100万円以上の高級品だということが話題になっていたとき、彼のバンド仲間であるN氏が割り込んできた。
 N氏「S君のあのマンドリンは、通称『小判』と言うんですわ」
 S氏「それなら、あんたのギターは『真珠』やな」
 N氏「いや、俺のギターは『金棒』と呼んでほしい」

 お二人の風貌を知っている僕は思わず笑ってしまった。察しの良い方はすでにお判りだろうが、上記のやり取りは「猫に小判」「豚に真珠」「鬼に金棒」の喩えである。とっさにこういう会話で笑いを取れるのは、さすがに関西人。また息の合ったバンド仲間ならではのことだろう。

 さて、写真のこのギターは、僕が持っている中では最も高価なマーチンD42、通称「おつやさん」と言う。何年か前に、ある方のお通夜に行ったことがきっかけで買ったことから、そう呼んでいるのだ。
 お通夜は草津駅前のセレモニーホールで行われたのだが、駐車場がいっぱいで、僕は仕方なく近くの商業施設に車を停めた。せっかくだからギターの弦でも買おうと思って楽器店に入り、そこでこのギターに出会ってしまったのだった。
 表板の木目が細かくて、とてもきれいだ。スノーフレイクとキャッツアイのインレイ細工も素敵。D42の実物を見たのは初めてだった。隣に置いてあった上位機種のD45よりも、僕はこちらのほうに目を引かれた。
「よろしければ、試奏されますか?」と店員が声を掛けてきたが、そのとき僕はダブルの略礼服に真っ黒のネクタイ、どう考えてもギターを弾くような恰好ではない。丁重に断って弦だけ買って店を出た。
 しかし、寝るような時間になっても、どうもあのギターのことが気になって仕方がない。ああ、どんな音なのか弾いてみたい。このままでは夢にまで出てきそうな勢いだ。どうやら僕は、あのギターに一目惚れしてしまったようだ。

 翌日、僕は再び楽器店を訪れた。店員は待ってましたとばかりにガラスの陳列棚からD42を取り出した。
 気持ちよく伸びる低音の響き。中高音は倍音が豊富で、シャラシャラときらびやかな音。弦高も低くて、とても弾きやすい。ああ、なんという心地よさ。僕はすっかりこのギターに魅了されてしまった。考えてみれば、一目惚れなんて初めての経験だった。僕は女性に恋するのにもけっこう時間がかかるのだ。
 その後何度か店へ足を運び、値切りに値切り倒した後に、清水の舞台からダイビングするつもりでこのギターを買うことに決めた。手持ちのヘソクリをすべて注ぎ込み、足りない分は毎月1万円のローンを組んだ。それを支払うために、大好きなタバコを一定期間やめることにした。その頃は人前で演奏する機会なんてなかったのだが、一生の宝として、このギターを手元に置いておきたいと考えたのだった。

 こうして僕の部屋へやってきた「おつやさん」だが、その後、このギターをきっかけとして僕の生活に大きな転機が訪れることになる。
 長いあいだ会ってなかった旧友のZENさんへの年賀状に「マーチンのギターを買ったよ」と書いたところ、彼から電話が掛かってきて、ギターを見せて欲しいと言う。数日後、彼が僕の家へやってきて、何十年ぶりかに一緒にギターを弾き、その勢いで僕は彼のバンドHITOMAZzに参加することになった。その延長で「おとぎ猫」の活動を始め、今では月に2~3回、どこかのライブカフェなどで演奏するようになった
 おつやさんが僕の部屋に来なかったら、ZENさんと再会する機会もなかっただろうし、人前で演奏しようなんて思いもしなかっただろう。元はと言えば、たまたま上司のお母さんのお通夜に参列したことで出会ったギター、まさに一期一会のめぐり逢いといったところか。

 ZENさんはこのギターにピックアップを取り付けてライブで使うことを勧めるが、僕はどうもその美しいボディーに手を加える気になれず、ほぼ家庭での練習専用となっている。まあ僕の演奏レベルからすれば、豚に小判、いや猫に真珠?と言ったところだが、「宝の持ち腐れ」ということにならないよう、たまにはライブに持ち出し、マイク録りで生音を楽しんでいきたいと思っている。





僕のギター 1

2017-03-09 00:06:32 | エッセイ(音楽)


 ギターはたくさん持っているけど、一番よく弾いてるのはこれ。ラリビーというメーカーで、元はカナダの職人気質のおじさんが家内的手工業みたいな感じで細々と制作していたのだが、今はアメリカに拠点を移して会社も大きくなった。美しいインレイ細工は、カナダ時代から職人おじさんの奥さんが担当していた。しかし、最近では高齢のため細かい作業ができなくなったということで、単純なデザインのものに変更されている。広いアメリカ、他にも職人を探せば見つかると思うのだが、どうやらこのおじさん、奥さん以外の人にインレイ細工を頼む気がないらしい。そういうわけで、僕が持っている物は、社長夫人の最後の方の作品というわけだ。

 表板はアディロンダッグ・スプルース。サイド&バックはワシントン条約で使用できなくなった最高級材ハカランダに最も近いとされるマダガスカル・ローズウッド。表板の木目はきめ細かく、きれいに揃っていて、ほんとに美しいギターだ。見ているだけで惚れ惚れする。無精者の僕もこのギターだけは時々クロスで拭き上げるなど、丁寧に手入れをしている。
 もちろん音色も美しいし、弾き心地も良い。ネット通販で写真だけ見て買ったのだが、予想以上の大当たり。これより高価なマーチン社のギターも持っているけど、ラリビーを弾く機会のほうがはるかに多い。

 僕は楽器に関してはかなり面食いで、重視するポイントは、①外観 ②音色 ③弾きやすさ の順だ。プロの演奏家だと、まったく逆の順番になると思う。僕の趣味は楽器の収集。演奏については、持っているから弾くといった感じだ。弾くために買うのではない。陶器などの愛好家が、茶器を見て楽しみ、触って楽しみ、ごく稀にそれでお茶を淹れてみたりするのと同じようなものだと思う。
 楽器は弾き込むことによって、だんだん音が良くなってくる。そうした意味では、もっと弾いてやるほうがいいんだろうな。演奏するために良い音色を求めるのでなく、音色を良くするために演奏する。何だか本末転倒みたいな話だが、僕はいつもそういう気持ちでギターに接している。

 人前で演奏するときには、良い音を出すことが最大の課題。そのため、頻繁に弦を張り替え、硬めのピックを使い、アルペジオやスリーフィンガーのパターンもフラットピックで弾く。「ギター上手いですね」と言われるよりも「ギター良い音でしたよ」と言われるほうが嬉しい。いや、これは下手の負け惜しみではなく正直な気持ちだ。
 さらに言えば、楽器を見えやすくするために、譜面台はできるだけ使わないようにしている。まあこんなことは僕の自己満足に過ぎないんだけれど。
 自分の好きなものを見たり触ったりしている時間はとても幸せ。若い頃は上手くなろうと頑張っていたけど、今は技術的な問題よりも自分自身の満足感のほうが優先だ。そういう気持ちに応えて、今日もギターは優しく心地よい音をいっぱいに響かせて、僕の心を癒してくれる。とても幸せ。♡

浅川マキの世界

2017-02-18 00:58:50 | エッセイ(音楽)


 好きなミュージシャンについて書こうと思う。第1回目は浅川マキ。とてもマニアックな話です。

 浅川マキは1942年に石川県で生まれた。高校卒業後、町役場で国民年金窓口係の職に就くが、すぐに辞めて上京。ビリー・ホリデイのようなスタイルを指向し、米軍キャンプやキャバレーなどで歌手として活動を始めた。1967年にビクターから「東京挽歌」を発表するが、この作品は本人の意にそぐわなかったようで、その後彼女はこの曲を封印してしまう。
 1968年、寺山修司に見出され新宿のアンダー・グラウンド・シアター「蠍座」で初のワンマン公演を 三日間にわたり催行、クチコミで徐々に知名度が上がる。やがてレコード会社を移籍し、1969年に「夜が明けたら/かもめ」で正式にレコード・デビュー。以後、数々の作品を発表しつつステージを主体に音楽活動を行う。
 CDの音質に対して懐疑的であったため、1998年以降は新譜を発表せず、ライブ活動に専念している。2010年1月、ライブ公演で滞在していた名古屋市内のホテルで倒れ、そのまま死亡。享年67歳。死因は急性心不全とみられる。

 以上は、インターネットで調べた浅川マキの略歴である。ここで僕が初めて知ったことが二つあった。ひとつは歌手になる前は役場の国民年金窓口係だったということ。これは意外だ。全然似合っていない。あの顔とあの声で受付をされたら、国民年金の申し込みに来た人も先行き暗い気持ちになるだろう。
 もうひとつは「東京挽歌」の話。僕は「夜が明けたら」がデビュー曲だと思っていた。浅川マキ本人はこの「東京挽歌」を自らの汚点のように思っているらしく、これまでの発表曲を記録したディスコグラフィーからも抹消されている。浅川ファンとして知られる音楽ライターが「東京挽歌の音源を持っている」と自慢げに本人に話したところ、「棄ててください」と言われたそうだ。

 浅川マキに関するエピソードをもう少し紹介しよう。
 自らの作品において「作詞」と表記する際、「詞」ではなく「詩」を用いている。また、外国作品を自ら日本語で歌う場合、原作の持つ世界観を損なわぬよう、まず翻訳家に対訳を依頼し、メロディーから受けるイメージも採り入れたうえで練り直して新たに詩作を行う。そのため表記を「訳詩:浅川マキ」とせず「日本語詩:浅川マキ」としている。
 1993年、東芝EMIが「音蔵シリーズ」と称するアルバム作品群のCD化企画を行い、その中に浅川マキのアルバムが4タイトル含まれていたが、発売後短期間で廃盤となった。「音質が気に入らなかった」とマキ本人が語っており、その強い意向で会社側としても廃盤にせざるを得なかったらしい。
 このように「詩」について、また「音」について、徹底したこだわりを持ち続けた。数々の有名ミュージシャンと協演しているが、山下洋輔のような大御所に対しても、演奏が気に入らなければ容赦なくやり直しを命じたと言われている。

 僕が浅川マキを知ったのは中学生の頃だった。ラジオの深夜放送で流れているのを耳にした程度で、不気味な音楽という印象だけが残っている。当時の僕はまだ清純で、その不気味さを心地よく感じるほど成長していなかったのだ。
 高校に入学してクラブ紹介のとき、フォークソング部の発表で有吉さんという先輩が浅川マキの曲を歌った。「♪ あたしが着いたのはニューオリンズの 朝日楼という名の女郎屋だった」他の部員はかぐや姫だとかチューリップだったが、有吉さんはギター1本で「朝日楼」だ。この演奏には度肝を抜かれ、さすがに高校はすごいところだと実感した。ちなみにこの人は、高校卒業後アメリカへ渡り、今ではブルースの本場シカゴでピアニストとして活躍されている。高校1年生の時、その有吉先輩から「MAKI・Ⅱ」というアルバムを録音したテープを借りて聴いた。それが浅川マキとの最初の出会いと言ってよいだろう。

 中島みゆきの歌は暗いだとか、いや山崎ハコはもっと暗いだとかいう議論があったが、暗さに関して言えば浅川マキの右に出る人はいないだろう。彼女の歌は陰鬱で、寂しく、たまらなく悲惨だ。
 しかし、そこに登場する風景はアメリカの貧民街であったり、港町の酒場であったり、また刑務所であったりと、ほとんど自分には縁のない所だ。だから僕はその暗さや寂しさを客観的に見つめることができる。言うなれば他人事の暗さや寂しさなのだが、それでも浅川マキの歌は、その遠い世界の悲惨さを僕のすぐ近くまでひしひしと伝えてくる。僕は迫り来る悲惨さを体の表面ぎりぎりで受け止め、その歌の世界に聴き入る。体の中にまで侵入させてしまったら、あまりに痛々しくて、とても聴いていられないだろう。
 高校生時代は友人の家で浅川マキのレコードをよく聴いた。ナイショでタバコを吸ったり酒を飲んだりして聴くものだから、部屋中に背徳の匂いが立ちこめる。そうして、しばし陰鬱かつ退廃的なムードに浸ったあとは、自転車に二人乗りして「天下一品」のラーメンを食べに出掛けたりしたものだった。

 浅川マキの初期作品は寺山修司の演劇世界とつながっているが、彼女がほんとにやりたかったのはそういうものではなかったようだ。有名になってからはジャズ、ブルース、ゴスペルなど外国作品を多くカヴァーし、シンガー・ソングライターというよりもボーカリストといった色彩が強くなる。レコーディングやライブ公演には名だたるジャズ演奏家を招き入れるが、それはもはや浅川マキのバックバンドという存在ではなく、マキがボーカルを担当する全日本選抜セッションバンドといった感じになっている。

 僕が信州の大学に入学した年、松本市内で行われるライブ公演のポスターを見つけた。まさかこんな所で浅川マキに出会えるとは思わなかったので、うれしくなってすぐに前売りチケットを買った。
ライブ会場は、なんとお寺の本堂だった。最初に住職の読経があり、それに続いてマキが登場。客は畳の上であぐらをかき、中には寝そべっている人や一升瓶の酒をまわし飲みしている人もいた。場内には「勧煙」の貼り紙があり、客席となった畳の上には灰皿がいっぱい置いてあって、マキも他のミュージシャンもタバコを吸いながら演奏した。タバコと線香の煙で空気はひどい状態となり、愛煙家の僕でさえ気持ち悪くなるくらいだった。ジャズ系の曲が中心で、演奏された曲目はよく覚えていないのだが、そのとき受けた感銘はまだ胸の奥に残っている。真っ黒のドレスを着てお寺の本堂に立つ浅川マキは、何とも言えず不気味だった。

 そのあと、大学から帰省中の京都で浅川マキのライブを見た。冬の寒い日、四条大宮の映画館で夜の10時頃から開演し、なんと朝までやるという。この公演には「始発まで」というタイトルがついていた。長いライブが終わったあと、僕は本当に阪急電車の始発と京阪京津線に乗り継いで家へ帰った。
 1曲目、舞台中央に立ったマキ一人に薄暗いスポットライトが当たり、無伴奏で淡々と歌い始める。ワンコーラスが終わり、ツーコーラス目の途中からいきなり伴奏が入るのだが、その音程がぴったり合っていて驚いた。浅川マキは、その独特の雰囲気ばかりがクローズアップされがちだが、歌唱技術といった面でも素晴しいものを持っている。
 そのときのミュージシャンはそうそうたるメンバーだったが、特にギターは内田勘太郎&渡辺香津美という滅多に見られない二大巨匠の共演で、まさに感動物だった。後半は浅川マキもかなりノリノリの感じで、この人は実は明るい性格なのではないだろうかと思ったくらいだ。
 ほんとのところ、浅川マキのあの暗さは、意図的に作り出されたものではないかと僕は思っている。石川県からわざわざ上京して人前で歌おうなんて、陰鬱な性格の人ではまずできないことだ。また、全盛期でのレコーディングやライブ活動のスケジュールは非常に精力的で、エネルギッシュな人でなければとてもこなせない。CD化拒否に代表されるように「音」に対して徹底的なこだわりを見せ、さらにはレコードのジャケット、ライナーノート、ポスターのデザインなどにも一貫した美意識を持ち、終生その姿勢を崩すことがなかったという。こうしたこだわりを貫くためには強大なエネルギーを必要とするし、それは孤高の自意識と、プロとしての責任感みたいなところから生まれてくるのだと思う。
 浅川マキは意外とポジティブな性格の持ち主で、ステージで見せる言動や表情などについても、綿密な計算に基づいて演出されたものではないかという気がしてくる。

 日本人のジャズ・シンガーはたくさんいるが、概して言えば、みな上品すぎるような気がする。耳に心地よく入ってくるが、すぐにもう一方の耳から抜けていく。そこに残るものは何もなく、刺激もなければ毒もない。BGMとして聴くには丁度よいのだが、その歌によって創り出される世界に浸るという冒険はできそうにない。変な喩えだが標準語で演じられる吉本新喜劇みたいなもので、表現法の違い云々の問題でなく、そこに本来あるべき原点のようなものが完全に欠如してしまっているのだ。
 浅川マキの歌は、これらとはまったく異質だ。その声質は決して耳に心地よいものではなく、ときには不快でさえあるが、何か心の内面に直接響いてくるようなものがある。彼女の創り出す世界は、一般によく用いられる「泥臭い」といった表現をはるかに通り越した「血なま臭い」印象すら与え、本場のジャズやブルースの根底に流れる魂の叫びみたいなものを感じさせる。
 全身黒ずくめの衣装は、あたかも魔女を連想させるが、いやそんなに神秘的なものではない。彼女は現実に世界のどこかで起こっているであろう(あるいは過去に起こっていた)人間社会の悲哀を歌う。あの暗く陰鬱な独特の雰囲気は、たとえそれが一種の演出であったにしても、僕たちを遠い非日常の世界へと誘い込むための仕掛けとしては十分だ。

 浅川マキのライブを見たのは先に述べた二度だけだ。いくら望んでも、もう決して見ることができない。浅川マキのようなシンガーは類稀で、誰も彼女の代わりを務めることは不可能だろう。
名古屋のライブ公演を前にしたホテルで亡くなったというのは、どう考えても無念だ。せめて、できることなら、あとしばらくがんばって、ステージの上で息をひきとって欲しかった。そのほうが本人にとっても幸せなことだったと思うのだ。


ちょっと変な洋楽の邦題

2017-02-14 00:50:01 | エッセイ(音楽)


 ビートルズ初期の名曲「I Want to Hold Your Hand 」、日本語では「抱きしめたい」と訳されている。これはちょっと変だぞ。「Hold Your Hand」だったら、手をつなぐとか握るとかいうくらいのニュアンスで、抱きしめるのとはだいぶ感じが違う。「抱きしめる」までいってしまうと、原曲の持つ可愛らしさが損なわれてしまうように感じられる。
 当時は日本でビートルズを売り出そうという意図が強く、インパクトのある曲名が求められてこういうことになったのだろうか。「A Hard Day's Night」に至っては「ビートルズがやってくる ヤァ! ヤァ! ヤァ!」なんて変な邦題が付けられている。坂本九の「上を向いて歩こう」がアメリカでは「SUKIYAKI」というタイトルで売り出されたくらいだから、まあそういうこともあるのかもしれない。

 同じくビートルズの「Norwegian Wood」。村上春樹の小説タイトルにも使われた有名な曲である。誰が考えても「ノルウェーの森」あるいは「ノルウェイの森」(村上春樹はこちら)としか訳せないように思えるが、実はこれにも疑惑がある。
 「Wood」は、森、木のほか木製の家具という意味にも用いられ、それだと「ノルウェー調の家具」ということになる。実際、欧米の人はこのタイトルだけ見ると家具のほうを想像することが多いようだ。家具と解釈した場合、この歌の舞台は野外から室内に転じ、そこで出会った女の子のイメージもずいぶん違ってくる。
 それじゃ「Wood」は森なのか家具なのかどっちなんだ?ということだが、作者のポール・マッカートニーによると、答えはどっちでもなく、部屋の内装に使われている木材を指しているということだ。つまり、彼女の部屋に入ってみるとノルウェー産の木材で内装された部屋だった、ということを表現している。英国ではノルウェー産の木材は安物の扱いで、ここに登場する彼女は、安っぽいアパートに住んでいる、あまり裕福ではない娘という設定なのである。
 ポールが言うんだから、これは間違いないだろう。僕はその曲想から、深い森の奥に迷い込んでしまったような雰囲気を感じ取り、そこで森の精みたいな女の子に出会った・・・というようなイメージを抱いていたのだが、なんだ、安アパートの一室の話だったのか。
 しかし、歌の中ではこの女性を鳥に喩えていることもあり、ウッド調の部屋の雰囲気が「まるで森の中にいるようだった」と比喩しているのだとも解釈できる。それならやっぱり「ノルウェーの森」でいいのかな?

 キング・クリムゾンのセカンド・アルバム「In the Wake of Poseidon」は「ポセイドンのめざめ」と訳されているが、これはまったくの誤訳だと言われている。「in the wake of」は、「目覚め」という意味ではなく、「ポセイドンの跡を追って」、「ポセイドンに続いて」程度の意味らしい。

 誤訳とまではいかなくても、何かちょっと違うなぁと感じるものはたくさんある。例えば「朝日のあたる家」。
 原曲は「The House of the Rising Sun」という古いブルースだ。「Rising Sun」は固有名詞で、ニューオリンズにそういう名称の建物があるというところから歌が始まる。これがアパートだったら「日の出荘」とか訳するところだろう。ところがこの曲は、娼婦として売られていく悲しい女を歌ったもので、「Rising Sun」は娼婦館の名称なのである。それを「朝日のあたる家」なんて訳されると、なんだか健康的な感じがして、この曲を知らない人が題名だけ耳にすると、明るく幸せな家庭を歌ったマイホームソングかな、とかいう具合に、とんでもない誤解が生まれてしまいそうだ。その点、浅川マキによる「朝日楼」は名訳だと思う。いかにも安っぽく、物悲しく、名前とは裏腹に薄暗い感じがにじみ出ている。
 なお、1960年代にヒットしたアニマルズのバージョンでは、原曲の歌詞の女性を不良少年に変えており、「Rising Sun」は少年院を指すと解釈される。この場合にしても、「朝日のあたる家」はやっぱり変だ。

 そもそも、英語と日本語とでは表現方法などが全然違うのだから、題名を直訳しようなどと考えず、歌詞の意味を噛み砕いて日本語の題名を新たに作るほうがよいのかもしれない。例えば、松任谷由実の訳による「雨音はショパンの調べ」(原題I Like Chopin)などはよく出来ていると思う。また、古いジャズ曲の和訳版で「月光値千金」(原題Get Out and Get Under the Moon)というのがあるが、これもなかなか洒落ている。
 高石ともやは「Roll in My Sweet Baby's Arms」を「あの娘のひざまくら」と訳した。好きな女の子に抱き着かれるよりも、ひざ枕のほうが、われわれ日本人男性にはしっくり来る。諸口あきらはジョン・デンバーの「Country Roads」を「いなか道」と歌っていた。こちらの方は直訳ながら素朴な味わいで、僕は好きだ。

 しかし、なんといってもすごいと思うのは、ピンク・フロイドの「原子心母」。
 原題の「Atom Heart Mother」をそれぞれの単語ごとに漢字に直し、それをつないだだけだ。ほんとにこれ以上ないというくらいの直訳なのだが、訳されたってちっとも意味が分からない。その分からないところがいかにもピンク・フロイドらしくて良いね。

僕の音楽遍歴2 「おとぎ猫」秘話

2017-02-09 21:18:09 | エッセイ(音楽)


 ユミさんとのデュオを始めて1年と少しが経過した。試しに一度やってみようと軽い気持ちで始めたのだが、今ではこちらのほうがメインとなり、月に2~3回はどこかのライブカフェなどで演奏するようになった。基本は二人だが、HITOMAZzのZENさんを加えて三人でやることもあるし、他の方々の力を借りてセッションをする機会も増えてきた。

 ユミさんとは中学校の同級生だが、別々の高校へ進学してからは互いに音沙汰がなく、何年か前の同窓会で数十年ぶりに再会した。カラオケで彼女が歌うのを聴いて「上手いなぁ」と感心したが、一緒にカラオケに行ったのはその1回きり。僕がライブ喫茶などに出入りしていることを話すと、「私もライブで歌いたい」と彼女が言う。「ほなら、一度一緒に出るか?」と冗談で訊いたら、彼女は「出る!」と本気で答えた。

 初めての出番は「森のくまさん」のフリーライブ。1組2曲、約10分間の短いステージだ。
「彼女、人前で歌うのは、今日が初めてなんです」と僕が言うと、本人は「違う」という。「幼稚園のころ、地蔵盆ののど自慢大会で浴衣を着て歌ったことがあります」
 このMCがけっこうウケて、会場は温かな空気に包まれた。1曲目はいまいち合ってないハーモニーでジロースの「愛とあなたのために」、2曲目は「東京ブギウギ」という、何とも妙な取り合わせ。特に意図したわけでなく、それぞれのやりたい曲を一つずつ選んだらこういうことになったというだけの話だ。
 「東京ブギウギ」では彼女はノリノリで踊りながら歌い、最後はくるくる回って大きな拍手をもらった。およそ50年ぶりのステージで、この舞台度胸は大したものだ。終演後、森のくまさんのマスターから「豊郷小学校旧講堂で開催するフォークジャンボリーに出ないか」とお誘いを受けた。豊郷小学校と言えばアニメ「けいおん」の聖地として名高い所。彼女はその大舞台でもまたノリノリで歌い、くるくると回った。
 最初のうちユミさんはマイクを持って歌うだけだったが、そのうちバナナやイチゴの形をしたシェーカー、八坂神社の御神鈴などの変なパーカッションを使うようになり、さらにはオートハープを弾くようになった。

 僕は彼女の低く柔らかな声が大好きだし、彼女は僕のギターが好きだと言う。このあたりは相思相愛の関係だ。(笑)
 ところが、音楽に対する好みの違いが大きく、演奏曲を選ぶときはよく喧嘩になる。彼女の好きな井上陽水は僕が嫌いだし、僕の好きな吉田拓郎やかぐや姫は彼女が嫌い。そういうわけで、これらの曲はまだやったことがない。最初のうちは昭和歌謡を好んで演奏していたのだが、ユミさんがオートハープを弾くようになってから、ナターシャセブンなどアメリカン・フォークのレパートリーが増えた。
 彼女は曲を選ぶとき、常に衣装のことを気にしている。「1曲目、異邦人でどう?」と言うと、「うん、ええよ」と答える。そのとき、彼女の頭の中では「異邦人に合った服はどれか」と思いが巡らされている。「2曲目、天使のウィンク」と言うと、「それはアカン」とNGが返ってくる。「この服は天使のウィンクには合わへん」と。特に冬場は自分で編んだニットを着るので、余計にこだわりが強い。
 さらに彼女は季節に合った曲を選ぼうとするし、一度やった曲はしばらく間を置かないとやりたくないと言う。そういう難しい問題があり、もちろん技量的な制約もあるので、互いに満足できるように演奏曲を選ぶのは至難の業だ。最近では30分くらいのステージも増え、5~6曲のセットリストを考える必要があるのだが、たいていは二人の妥協の産物となっている。

 さて、これまでに人前で演奏した曲を列挙してみよう。
 東京ブギウギ、蘇州夜歌、月光値千金、上海リル、Side by side、リンゴの木の下で、星の流れに、石狩挽歌、私の彼は左きき、さらば恋人、街の灯り、花の首飾り、ガンダーラ、友達よ泣くんじゃない、アタックナンバーワン、ジョニィへの伝言、涙のリクエスト、あんたのバラード、青い珊瑚礁、スィートメモリーズ、桃色吐息、かもめ、ふしあわせという名の猫、サルビアの花、異邦人、世情、化粧、待つわ、天使のウィンク、オリビアを聴きながら、愛とあなたのために、戦争を知らない子供たち、まぼろしの翼と共に、花嫁、出発の歌、サルビアの花、太陽がくれた季節、サラダの国から来た娘、Top of the world、近江の子守唄、ランブリンボーイ、陽のあたる道、今宵恋に泣く、別れの恋唄、ダイヤの指輪、さよならが言えない、海原、春を待つ少女、せめて今夜だけ、パン売りのロバさん、海に向かって、リターン・トゥ・パラダイス、私を待つ人がいる、森かげの花、初恋、陽気に行こう、ヘイ・ヘイ・ヘイ、柳の木の下、テネシーワルツ、サンタが街にやってくる、アメイジング・グレイス・・・まだあったかな。

 1年余りでよくこれだけやったもんだ。戦前の流行歌から歌謡曲、フォーク、浅川マキからナターシャまでと、ジャンルはかなり広い。同じ曲を何度も演奏すれば少しずつでも上手くなるんだろうけど、前述のような事情で、それもままならない。いつも新鮮な気持ちで、次々と新しい曲に取り組んでいる。上手い下手よりも、まずは自分たちが楽しむことが肝心だと思う。
 彼女は聖飢魔ⅡやXジャパンなどもやりたいらしいが、そんなん、アコギとオートハープでは無理やでぇ。ロックっぽいのをやりたいのなら、と僕が代わりに提案するサディスティック・ミカ・バンドやシーナ&ロケッツには、彼女はまったく関心を示してこない。
 陽水vs拓郎の抗争は今もなお続いている。妥協の産物として中島みゆきをレパートリーに入れているが、僕の大好きな「化粧」は「拓郎みたいな曲や」と言って、一度歌ってそれきりやってくれない。
 そんな中、森のくまさんの「中島みゆきデー」に参加することになった。妥協の産物としての中島みゆき。コアなみゆきファンの方々には、ほんとに申し訳ない気持ちでいっぱいだ。


僕の音楽遍歴1

2017-02-08 23:10:56 | エッセイ(音楽)


 初めて人前で演奏したのは高校生の頃。写真はその時の様子だ。なんだか鬱陶しい面持ちでうつむいてバンジョーを弾く姿は、現在の僕とあまり変わらない。隣でマンドリンを弾いているカワイイ顔の男の子はHITOMAZzの盟友ZENちゃん。彼はこの頃からギターやマンドリンが上手かったし、僕も今よりはバンジョーが弾けた。

 当時僕たちはナターシャセブンに夢中で、その演奏を真似することに明け暮れていた。そこから本格的なブルーグラスの世界へ突き進んでいく人も多かったが、僕たちはそれほど深入りせず、むしろジャンルを広げる方向で、フォーククルセダーズなど一昔前のフォークや、当時リアルタイムだったチューリップ、かぐや姫、吉田拓郎などをレパートリーに加えていった。沢田研二やキャンディーズなどの歌謡曲もやった。
 コンサートに出たのは写真の1回きりだが、誰かの家に集まってはよく練習をした。お母ちゃんが「うるさい!」と言って怒るので、疏水の公園まで楽器を持って練習に出掛けたこともあった。当時はバンドスコアや教則本もあまり良いものがなかったし、ビデオやyoutubeなんて便利なものはない。カセットテープを何度も繰り返し聴き、コンサートでは双眼鏡を使ってプレイヤーの指の動きをチェックした。若い頃は、集中力、記憶力、運動神経、リズム感など、今よりはだいぶ優れていたので、比較的短い時間でマスターすることができた。その頃に覚えた曲の歌詞やコード、フレーズなどは、数十年経った今もしっかり頭に残っている。最近では、やっと覚えたと思っても、2~3日経てばもう忘れているという始末だ。

 仲間たちと一緒に演奏することは、とても楽しかった。僕は他のメンバーとは別の高校だったので日曜日にしか練習ができない。平日は高校の友人と麻雀をしたり、クラブハウスで文芸活動、ライブハウスでロックを聴いたり、そして休日はバンド仲間とフォークの演奏。迫り来る大学受験を気にしながらも、充実した高校生活をエンジョイしていた。
 ところが、僕は遠くの大学へ進み、バンド活動に参加できなくなってしまった。大学の寮では一人でギターをポロポロ弾く程度。酒に酔ってしょっちゅう寮歌を歌っていたが、フォークソングなどを歌う機会はめっきり少なくなった。今から思えば、大学の同級生や寮生の中にも、誘えば一緒に演奏できそうな友人は幾人かいた。やろうと思わなかったのは、音楽に対する僕自身の情熱が冷めてしまっていたためだと思う。また、高校時代のメンバーほど気の合う仲間に巡り合えるとも思えなかった。
 大学を出て就職したらすぐに結婚、またすぐに子供ができて、もうバンド遊びどころではなくなった。その後も長いあいだ楽器に触れることがなく、再びギターを手にするようになったのは、40歳を過ぎてからだった。

 40代の頃は「憂歌団」にハマっていたが、内田勘太郎氏のギターは超絶すぎて、ちょいと真似しようという気すら起こらない。またナターシャでもやりたいと考えたが、一緒に演奏する仲間が見当たらなかったので、一人でギターやバンジョーをいじって遊んでいた。やがて楽器収集が趣味となり、僕は楽器オタクへの道を進んでいくのである。たくさんのギターやバンジョーに囲まれて、一人でポロポロと弾く。ちゃんと練習しないし、ぜんぜん上手くもならない。ただ良い音が出せればそれで満足。そういうオタク生活が10年間くらい続いた。

 そして今から5年くらい前、ZENさんが久しぶりに我が家へ遊びにやってきた。数十年ぶりに二人で演奏してみると、あの頃の記憶がひしひしと甦ってきた。深い海の底から捕ってきたばかりのアワビみたいに新鮮な感触だった。また一緒にやろうと誘われ、僕は彼のバンドHITOMAZzの一員に加わることになった。



 写真は野洲市のライブ喫茶「森のくまさん」のナターシャ・ナイトに参加したときのもの。僕がバンジョーでZENさんがマンドリン、ギターは以前のメンバーとは異なるが、僕ら二人は40年前と同じことをやっている。ここ数年間いろんな会場で演奏してきたが、他のレパートリーでは、チューリップ、吉田拓郎、かぐや姫、ジローズ、沢田研二、堺正章など、結局は昔と何も変わっていない。ただ腹が出たり、髪が薄くなったりしただけだ。(笑)
 集まって練習する時間はあまりないが、ステージで互いに顔を見合わせると、次にやろうとしていることがだいたい伝わってくる。彼のギターに音を重ねるのはホントに気持ちが良い。やっぱり古くからの友は良いものだ。

 何でも器用にこなすZENさんはあちこち引っ張りダコで、最近では京都の有名アマチュアバンド、〇〇堂のサポートメンバーにも加わっている。一方こちらは別ユニット「おとぎ猫」で地元活動。月に一度集まれるかどうかの頻度だが、僕にとってHITOMAZzはとても楽しいホームチーム。互いの個別活動を尊重し合いながら、今後も良い付き合いを続けていきたいと考えている。