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 ♪♪♪ H.Tokuda

還暦を迎えるにあたって

2019-01-22 22:19:06 | エッセイ


還暦――。えらい歳になってしまった。昔なら、ここまで生きたらまあ上等といったところだったのだろう。十干十二支がひと回りして、生まれた暦の位置まで戻って来たわけだ。
4月の誕生日で60歳になるのだが、マラソンに例えれば今ちょうど陸上競技場のトラックに差し掛かったあたり。あのテープを切ればゴールインかと思えば、「はい、2周目頑張ってくださいね」と手を振ってまた送り出される。2巡目のゴールはどう考えても無理なので、どこかの路上でぶっ倒れてリタイヤということになるのだろう。人生にゴールはない。あるのは自分自身が残してきたあやふやな足跡だけだ。

成人になってから早40年が過ぎた。その間にオリンピックが10回開催され、西暦は21世紀を迎えた。昭和は平成へと変わり、さらに新しい元号へ変わろうとしている。
元号が2つも違うってのは、昭和から見た明治みたいなもので、ずいぶん古めかしい感じ。しかし僕はいまだに徹底した昭和人間で、やっている音楽は昭和のものばかりだし、聴く音楽も読む本も、ほとんど昭和の時代のものだ。
平成は30年間も続いたのに、何となくするっと抜けて行ったような感じで、この時代を生きてきたという実感はあまりない。やはり僕には昭和の風景が懐かしく、特にその時代の音楽や文学作品、漫画などのサブカルチャーにたまらない魅力を感じる。

僕のやっていること自体は、高校生の頃とほとんど変わっていない。ギターやバンジョーを弾き、パソコンを使って将棋を指したり、こうして文章を書いたり、・・・使っている道具が違うだけで、やっていることは昔とまったく同じだ。
将棋はずいぶん弱くなったし、楽器の演奏もなかなか上達しない。加齢とともに学習能力は衰える一方で、上達どころか現状を維持するのが精一杯。ずっと昔に覚えた曲は歌詞やコードをしっかり思い出せるのに、最近覚えた曲は1週間も経てばすっかり忘れてしまっている。昨日の夕食に何を食べたかも覚えてないくらいなので、まあ仕方ないか。
しかし、失ったものがあれば、新たに得たものもある。今の僕は、かつて高嶺の花だったマーチンやギブソンのギターを弾き、ライブハウスなどで演奏させてもらい、気の向くまま好きな音楽を楽しんでいる。高校生の頃のバンド仲間とは今も親しくしているし、新しく知り合った音楽仲間もたくさんできた。
高校生の頃は女の子と一緒にフォークソングを歌うことに憧れていたのだが、その夢も今頃になってやっと実現した。(笑)

冒頭の画像は、フェイスブックでの新年あいさつ用に作成したもの。「猪突猛進」をもじったものだが、「ちょっとずつ」の文字には、「無理せず、気楽に、マイペースで」という思いが込められている。ちょっとずつ、休み休みでも、気持ちだけは「猛進」の勢いを忘れずにいたい。
人生2巡目の節目にあたって、新たに決意することなど何もない。願わくは、子供に還ったつもりで、あの昭和の時代、青春時代に置き忘れたことをやり直してみたい。若い頃のようには急がず、一日一日をゆっくり味わいながら、定年退職後の余生を楽しく過ごして行きたいと思っている。


海への想い

2018-07-15 22:34:03 | エッセイ


 海の見える町で暮らしたことがないのに、潮風の香りに不思議な懐かしさを覚える。遠い先祖は海を渡ってやって来たんだなぁと実感する。

  やっと見つかった!
  永遠というもの
  没陽といっしょに去ってしまった
  海のことだ

 アルチュール・ランボーの詩の一節。青春多感なりし十代の終り頃、意味が分かったような分からないようなこのフレーズに、ひどく感動したことを覚えている。海に沈む夕日が見たくて、信州からわざわざ電車に乗って日本海まで出掛けたこともあった。
 水平線へとろけるように沈んでいく夕日。この壮大な光景が何十億年ものあいだ毎日繰り返され、さらにこの先も続いていくのかと考えると、まさに「永遠」という言葉が似つかわしく思えてくる。

 太古、最初の生命体は海で生まれた。生物たちは海の中を行き来しながら進化を続け、やがて陸上へと進出した。生物進化の頂点に立つわれわれ人類においても、その血液中の塩分濃度やカルシウム、マグネシウムなどミネラル成分の含有量は、海水とほぼ同じ割合になっているらしい。母なる海は今なお僕たちの体内にその根源をとどめ、生命の躍動を司っている。
 京都、松本、大津、守山と、海のない町でばかり暮らしてきた。そういう僕でさえ海に対して懐かしい親近感を抱くのは、遺伝子に組み込まれた遠い記憶のせいなのかと感じる。

 「海」という言葉の由来は、「産み」と関係しているのではないか? ふと思って調べてみたところ、そういう説もあるが有力ではないと記述されていた。「う」は「大きい」という意味で、「み」は水を意味するというのが定説らしい。また、古くは海のことを「ワタ」と言い、ワタツミ(海神)やワタライ(度会)などの語が今も残っている。「ワタ」は古代の外来語であり、朝鮮語ではpata(海)、オセアニア語ではwata(大海)、ハワイ語ではwaka(小舟)などの類似語が東南アジアから太平洋諸国に広く分布しているという。

 古代、日本人の祖先は広い海原を彷徨った末にこの島へたどり着き、その子孫はたえず海の恩恵にあずかりながらこの国の維持・発展に努めてきた。古くから伝わる祭事や祝儀などにアワビ、イカ、昆布など海産物を用いていた習慣が残されていることも、人々が海と共に生きてきたという証しだろう。
 異国からの侵略を受けず、鎖国政策を長く続けることができたことも、海で隔てられていたおかげだ。その結果、わが国独自の文化が生まれ、島国根性が育った。潮風や磯の香りに接していると、こうした長い歴史の先端に、いま自分がつながっていることを実感させられる。

 海の見える町で暮らしたいと思うことがある。琵琶湖のすぐ近くで暮らしているが、海と湖とは根本的に違う。川の水は山や田畑や町を流れて海へと到達し、やがて蒸発して雨となって地上に降り注ぐ。海はすべての始まりであり、また終着点でもある。
 海に沈む夕日を眺めて、永遠の時の流れを実感しつつ、今という瞬間を生きる偶然に感謝したい。海への想いは尽きない。

太陽の塔

2017-10-07 00:54:46 | エッセイ


 大阪万博にそれほど深い思い入れがあるわけでもないのに、太陽の塔を見るとタイムスリップしたような気分になる。当時はすごく大きな建造物だと思っていた。先日間近に見たとき、意外と小さくてびっくり。僕自身が大きくなったということだろうか。

 この塔は言わずと知れた岡本太郎氏の代表作。当時の人々からは「牛乳瓶のお化け」などと批判を浴びた。太郎氏は、「文明の進歩に反比例して、人の心がどんどん貧しくなっていく現代に対するアンチテーゼとしてこの塔を作ったのだ」と訳の分からない説明をした。「国の金を使って好き勝手なものを造った」という批判に対しては、「個性的なものの方がむしろ普遍性がある」と反論した。この塔の形状は、当時岡本太郎氏が飼っていたカラスをモデルとしてデザインされたそうだが、そもそも、家でカラスを飼っているというところがすごい。(笑)
 主催者は塔の内部に歴史上の偉人の写真を並べるつもりだったが、太郎氏は「世界を支えているのは偉人でなく、無名の人たちである」として、無名の人々の写真や民具を並べるよう提言。強引にそれを実現させた。塔の目の部分をヘルメット姿の男が占拠し、万博中止を訴えた「アイジャック事件」の際には狂喜して、居合わせたマスコミに対し「イカスねぇ。ダンスでも踊ったらよかろうに」と語ったらしい。

 当時の万博主催者は、歌謡界の大御所・三波春夫氏に「こんにちわ~ 世界の~ 国から~♪」と歌わせる一方、博覧会のシンボルであるメイン・オブジェの制作をこんな変な前衛芸術家に依頼するという離れ業をやってのけたわけだ。こういう混沌とした状況は、1970年代の幕開けを告げる、当時わが国の世相を象徴しているようにも感じられる。
 この年にヒットした歌謡曲は、皆川おさむ「黒ネコのタンゴ」、藤圭子「圭子の夢は夜ひらく」、由紀さおり「手紙」、辺見マリ「経験」、ソルティー・シュガー「走れコウタロー」など。洋楽ではビートルズの「レット・イット・ビー」やサイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」など。
 「戦争を知らない子供たち」は、万博会場内で開かれたフォーク・コンサートの場で初めて披露され、翌年にはジローズによるシングルレコードが発売されてヒットした。

 太陽の塔の内部には、先に述べた無名な人々の写真のほか、アメーバや原生動物から、三葉虫、アンモナイト、恐竜、そして人類に至るまで、様々な生物の模型が展示されていた。これらの模型は、当時ウルトラマンなどで名を馳せた円谷プロが製作を担当したらしい。
 薄暗い照明の中、地鳴りのような音や恐竜の鳴き声などが響き、そこを通ると何とも神妙な気持ちになった。僕は高校生時代に生物の進化に興味を持ち、大学では古生物学を専攻したが、そうしたことには、小学生のころ「太陽の塔」で体感した生命の神秘への記憶が深く関係しているように思う。

 現在では公園の一隅に取り残された太陽の塔。良く管理された芝生の中で、年老いた退役軍人みたいにぽつんとその余生を存えている。数々の前衛的なオブジェを見慣れてきた僕らの眼には、その姿はもはや奇異なものとは映らず、むしろ昭和の懐かしさを感じさせるスタンダードな風景と化してしまった。
 僕にとって、太陽の塔は今も1970年代の象徴。わくわく、ドキドキ過ごした思春期の激動の時代。あの塔の中には、「あしたのジョー」や、ドリフターズや、麻丘めぐみや、ビートルズや、「小さな恋のメロディ」や、「赤頭巾ちゃん気をつけて」や、そういった数々の歴史的文化遺産がいっぱい詰まっているように感じられる。
 僕は相変わらずそうした時代の音楽や文学作品に親しみ続けている。懐古主義というよりも、過去のある時点で同じ場所をぐるぐると回り続け、そこから先に進めないって感じだ。十年ひと昔。それを何度も繰り返し、いま僕は21世紀の社会にいる。戦争を知らない子供たちはすっかり大人になり、もうそろそろ高齢者の仲間入り。僕らはその少し後ろから、ずっと先輩たちの姿を眺め、彼らが創り出す新しい形の音楽や文学に憧れ続けてきた。
 懐かしいあの時代。僕は今も当時の少年のような気持ちで、古いフォークソングなどを歌い続けている。太陽の塔は、そうした「昔の少年」のあがきを、ずっと見守り続けてくれているように思うのだ。


ハロウィンの季節

2017-09-29 23:22:07 | エッセイ


 今年もまたお化けカボチャの季節が近づいてきた。
 10月と言えばハロウィン。いつの間に、わが国にこんな習慣が定着してしまったのだろう。ご先祖様の墓参りもせずにハロウィンのパーティーにうつつを抜かす若者には「喝!」と言いたいところだが、いやちょっと待てよ、何も若者だけではない。

 2年ほど前の話だが、僕の母が入居しているケア・ハウスでもハロウィンパーティーが開かれることになった。80を過ぎたおばあちゃんたちが魔女に扮するのだから、そりゃすごい光景だろう。興味はあるが、これを見学するにはかなりの勇気が必要だ。(^_^;)
 ところが、このおばあちゃんたち、ハロウィンが何たるか全然理解していないのだ。クリスマスはイエス・キリストの誕生日で、仏教のお花まつりみたいなものだろうと理解しやすいのだが、ハロウィンに関しては、なぜ魔女やお化けが出てくるのか、なぜカボチャなのか、まったく意味が分かっていない。

 「ところで、ハロインって、いったい何なんや?」ある日、母が僕に訊いた。
 「うーん、それは、西洋のお盆みたいなもんやなぁ」と、僕はとっさに答えた。もちろん、いい加減な思い付きだ。
 「キリスト教のお盆か?」と母。
 「いや、ハロウィンはキリスト教とは違うんやけどな、・・・もっとずっと昔からある、まあ、お盆かお彼岸みたいな行事や」
 「お盆やから、お化けが出てくるんか?」
 「まあ、そういうことやな」
 「ふーん」と半信半疑だったが、母はその日のうちにこの話をみんなに説いてまわったらしく、瞬く間に「ハロウィン=お盆説」というものが施設中に流布してしまった。
 数日後に施設を訪れたとき、僕はスタッフの女性に褒められた。
 「さすがに上手に説明しやはりますわ。私らもハロウィンパーティを企画したものの、それ何?と訊かれたらうまく説明できずに困ってたんです。西洋のお盆みたいなものやと言うたら、皆さん理解してくれはります。」
 こうなれば「ハロウィン=お盆説」は、もはやこの施設の公式見解だ。お年寄りたちは、ハロウィンの意味が理解できたことで、パーティーへの参加意欲が俄然高まり、衣装づくりなどの準備は着々と進んでいるという。

 なるほど、異文化の流入というものはこういうふうにして起こるのかと、僕はそのとき実感した。カボチャをくり抜いて仏壇に供える人や、お岩さんみたいな仮装をする人がいたって不思議ではない。考えてみれば、隠れキリシタンのマリア観音だって同じようなものだ。仏教がわが国へ伝来した当時、仏様は外国から来た神様ということで、八百万(やおよろず)の神のひとつという扱いだった。異国文化を自国文化と融合させ、異宗教をも寛大に受け入れる。こうした柔軟な思考は、日本人が世界に誇るべき美徳なのではないか。
 80を過ぎたおばあちゃんでさえ、夫の位牌に般若心経を唱えつつ、クリスマスやハロウィンのパーティーを楽しんでいる。僕自身はこうした外来の宗教的行事が好きではないのだが、「若者に喝!」なんて考えるのは了見が狭いのかな。うーむ。・・・

趣味の世界

2017-08-25 02:06:01 | エッセイ


 趣味でギターを弾くほか、将棋を指したり小説を書いたりしているが、その道のプロって人はほんとにすごいと感心してしまう。棋士なんて所詮は勝負師なんだから、対局日以外は昼間から酒を喰らったり、まあ好きなことをして暮らしてるんだろうなどと思ったら大きな間違い。彼らは日夜こつこつと研究を重ね、自己の技量向上に努めているのだ。もともと人並みはずれた頭脳を持つ人々が将棋一筋に精進するんだから、アマチュアとの差はますます開くばかり。努力を怠った棋士は落伍者として、厳しい勝負の世界から排除されてしまう。
 あるプロ野球選手が「ワシらは毎日練習するのが仕事。試合に出るのは集金活動みたいなものだ」と言ったそうだが、まあプロの世界というのはそういうものなのだろう。みんな日頃から一生懸命に地道な努力をしているのだ。

 小説家などの文筆業でも、たぶん同じようなものなのだと思う。毎日いろんな本を読み、各種の情報を収集し、そして夜を徹して書きまくる。村上春樹さんの場合だと、毎朝早く起きてまずジョギング、昼間のうちにきちんと仕事を済まして夜は早く寝るそうだ。就労時間や作業ノルマなど他人からは拘束されない中において、日々の気分や調子に左右されやすい文筆という仕事をルーティンワークにしてしまうのは、実に大変なことだと思う。

 僕は素人なんだから、「気が向いたら続きを書きますわい」くらいの呑気なスタンスだ。「人に読ませるために書く」のではなく、「たまたま上手く書けたら人に見せる」といった程度のもの。どこかに投稿するつもりもない。ただ、書くという作業が楽しいから書く。結果よりも過程を楽しむことがアマチュアならではの特権だと思っている。
 将棋についても、勝敗よりも楽しく指せたかどうかが重要だ。若い頃は勝つことにこだわった時期もあったが、今はそうした負けん気も薄れてしまった。着実に勝てそうな手が見えても、あえてスリリングな局面に入り込んだりする始末。


 たとえ僕にもっともっと能力が備わっていたとしても、プロ棋士や作家にはなりたくない。それは将棋を指したり文章を書いたりすることが好きだから。僕は若い頃から、自分の好きなことを仕事にしてはいけないと思ってきた。仕事にすれば、楽しいはずの生業がきっとつまらなくなってしまう。
 勝つことだけを目標に将棋ばかり指すのは嫌だし、締め切りに追われてあくせく文章を書いているようではつまらない。僕は趣味として、それらに取り組む過程を楽しみたいのであって、何らかの成果や報酬を求めているわけではない。
 そういうことで僕は、安定した所得が得られ、自由になる時間が多く確保できそうな職業を選んだ。仕事は生きるための糧。楽しくなくたって構わない。そのかわり、余暇を十分に楽しもうという魂胆だ。そうしているうちに数十年が過ぎ、そろそろ仕事のほうは終着点が見えてきた。
 定年後は毎日が趣味の時間。そう考えるとウキウキするが、寄る年波に押され、数々の障害も見え始めてきた。ギターを弾けば指が吊るし、将棋の思考力は著しく低下、文筆についても、若い頃のようにすらすらと文章が出てこない。これから先は老化との闘いだ。まあ、あまり無理はしないで、自分のできる範囲でぼちぼち楽しんでいきたいと思っている。

 最近の余暇は音楽活動に偏重しているが、こちらも例に漏れず「下手でも楽しければよい」という路線。聴く人にも楽しんで欲しいとは思うが、認められたいとは思わない。もっと上手くなりたいという向上心すらあまり持ち合わせていない。同じ曲を何度も演奏すれば少しずつでも上手くなるんだろうけど、すぐに飽きてしまって、別の曲にチャレンジ。バンドの相方も同じようなスタンスだから、二人でのんびりやっている。
 ギターの基礎練習やボイストレーニングなど、二人ともまったくやる気がなく、ただ歌いたい歌を歌う。原曲のキーやアレンジなんてまったく無視して、自分たちのやりたいようにやる。選曲のジャンルもまちまちで、どういう方向に進もうとしているのかも定まらない。「アルプスの少女ハイジ」をやったかと思うと「朝日楼」をやる。「イムジン河」をやったかと思うと「東京ブギウギ」をやる。ナターシャ特集ライブに参加した翌週、中島みゆき特集に参加。ジャンルが広いと言えば聞こえが良いが、節操がないと言うほうが適切かも。

 さて、もうすぐ9月。時間は流しそうめんのように素早く過ぎ去り、新たな季節の風景を紡ぎ出していく。そうした時の流れに置き去りにされないよう、僕は細い目を精一杯見開き、肌に触れる空気の感触をじっくり吟味しようと身構える。自分にはあとどのくらい時間が残されているのか、あと何巡の季節を見送っていけるのだろうか。最近そういうことをよく考えるようになった。この先も行き着くところまで、余暇の時間を楽しく過ごして行きたい。
 秋の夜長には、しばらくお留守となっている文筆のほうにも力を入れたいと考えている。自由気ままな趣味の世界はどんどん広がって行く。やりたいことはたくさんあるけど、どこまで出来るかは自分次第。文章を書き始めるとタバコやコーヒーの摂取量がやたらと増えるので注意が必要だ。

我が家のネコ

2017-07-26 20:40:50 | エッセイ


 ホントのこと言うと、僕は猫なんてそれほど好きではないのだ。でも、家族の一員としていっしょに暮らす、こいつとだけは仲良くしたいものだと思っている。
 それだのに、彼のほうは僕のことが嫌いなようで、いつも敵意剥き出し。僕がフレンドリーに話し掛けても、こんな不機嫌な目で僕を睨みつける。

 どうやら彼は、我こそが一家の主だと思い込んでいるらしく、家の中で偉そうに振る舞う僕のことが気に入らないのだ。昼間はいつもどこかへ行ってるくせに、帰って来て好き勝手するなよ。わしゃ、ずっとこの家を守ってやってるんだ。そんなふうに彼は考えているに違いない。
 猫のくせに規則正しい生活を好み、朝はいつも決まった時刻に起きる。家族全員を起こしてまわり、その後はあちらこちらの窓から外を覗いて、侵入者がいないかパトロール。



 家族が食事をしているときは、一段高い場所に上がり、狛犬のような姿勢でじっと家族を見守る。夜遅くになると、「そろそろ寝ろや」と、家族一人一人にうるさく声を掛ける。まったく、お節介な奴だ。
 名前は「サスケ」という。御年15歳。人間でいえば70歳は過ぎているのだろう。まあ猫でよかったけど、家にこんな爺さんがいたら、ほんとにうるさくて仕方がないだろうな。
 現在東京で暮らしている息子の空き部屋をねぐらとしている。暑くてもエアコンの入っている部屋をあえて避け、彼は自分の部屋で寝る。昼寝のときも、めちゃ暑い自分の部屋へわざわざ上がっていく。なかなか気骨のある奴だ。



 彼は僕の妻のことが大好きで、すぐそばに寄りたがる。二人きりのときはすごく甘えるらしいのだが、そこへ僕が帰って来ると、何事もなかったかのようにすました顔で部屋を出ていく。甘えている姿を僕に見られるのが恥ずかしいらしい。
 そのくせ、僕が妻と話していると、間に割り込んで邪魔をしにくる。僕のことを恋敵とでも思っているのか。
 妻がいないとき、僕が食事を与えてもなかなか食べようとしない。「おまえに食わせてもらうほど、わしゃ落ちぶれてないわい!」とでも言いたそうな感じだ。それでもいずれは空腹に勝てず、食事の入った皿をチラチラと見るようになる。僕が気を利かせて別の部屋へ行くと、その隙にこっそりと食べる。

 そんな彼も、時おり僕に話し掛けて来ることがある。僕の目の前に座り、僕の顔を見て「ニャオニャオ」と何やら話を始める。「おい、たまには男同士で語り合おうや」と言ってるように聞こえる。
 彼の話はやたら長い。おそらくは、「家の前を通った野良猫を追っ払ってやった」という自慢話をしていたり、「お前は休みの日になると黒いケースをいっぱい抱えてどこへ行ってるんだ」と尋ねたり、「タバコが煙い」と文句を言ったり、「早寝早起きで規則的な生活を送れよ」と説教したりしているのだろう。



 ルックスは若い頃とあまり変わらず、なかなかの男前だ。毛並みも、まだツヤツヤしている。僕と見つめ合うと、いつまでも目をそらさない。いや、見つめ合ってるのでなく、彼は睨み合ってるつもりなのだろう。妻に対しては子供っぽい目でニャーンと甘えるくせに。

 こうしている間にも、下のリビングからニャアニャアという声が聞こえて来る。妻と娘に、早く寝るよう促しているのだろう。皆が寝た後、彼は本日最後のパトロールをしてから自分の部屋で寝る。真面目で責任感が強い猫のようだ。うるさい爺さんだけど、憎めない奴。
 彼と僕との間の家庭内権力抗争は、明日もまた続くのだろう。互いに好きにはなれないが、一目置く存在ではある。いずれ彼がもっと老いぼれたら、一緒にツナの缶詰でも食べながら、静かにゆっくり語り合いたいと思う。
  

夜ふかしの日々

2017-07-01 01:07:04 | エッセイ


 自慢するような話ではないが、僕はめちゃくちゃ寝つきが良い。ベッドに入ると、たいてい2~3分で夢の中。生まれてこのかた、眠れなくて困ったことなんて一度もない。しかも眠りが深く、ちょっとやそっとのことでは目を覚まさない。最近は歳のせいか朝起きが良くなったが、夜中に目を覚ましたりすることはない。寝相が悪く、ときどきベッドから落ちるが、落ちたまま床の上で眠っていることさえもある。
 思えば小学生の頃は、毎晩8時に寝ていた。早寝早起き、いや早寝遅起きの良い子で、睡眠時間が異様に長い。中学生の頃から夜ふかしをするようになったが、そもそも睡眠要求量が多いので、その分、素早く、また深く眠りに入るという体質に変わっていったのではないかと思っている。

 幼い頃、夜ふかしをするとマメダがやって来て子供を連れ去ってしまうのだと教えられていた。マメダがどんな物なのか分からなかったが、とにかく怖いので、夜8時には必ず寝ることにしていた。大阪の親戚の家(母の実家)へ行くと夜ふかしが許された。親もうるさく言わないから、ここにはマメダが出ないのだと勝手に思い込み、安心して夜の時間を楽しむことができた。夜の9時台は僕にとって未知の世界で、何だか胸がわくわくするし、そこに淡い眠気が加わって、うまく言い表せないが何か神妙な世界へ誘い込まれるような気がした。少しあとになって、これは京都からマメダの霊気が漂ってくる感触ではないだろうかと考えるようになり、また少し怖くなった。そのように怖さと好奇心とがクロスしたところに、夜ふかしの魅力がある。

 この歳になってもやはり夜ふかしは楽しいもので、深夜23時を過ぎた頃になると次第に気分が高揚し、ついつい遅くまで時間をつぶしてしまう。何もせずにぽかんと物思いに耽るのもよいが、適当に物を考えながらパソコンのキーボードを叩いているのも楽しいものだ。趣味で小説やエッセイを書いているが、ものすごく調子の良いときは、自動筆記のような状態でどんどん文章が生み出され、ふーっと一息ついたときに現実の世界へと戻る。なかなか先が進まないこともあるが、そんなときにはパソコン相手に将棋を指したり、youtubeで動画を見たりする。原稿の締め切りも何もないから、ほんとに気楽なものだ。

 ただ、文章を書こうとするときにどうしても必要なものがコーヒーとタバコ。一種の薬物依存である。長い時間書けば書くほど薬物の摂取量が増える。若い頃は今よりも十倍くらいニコチン含有量の多いタバコを吸っていたし、カフェソフトなんていう眠気覚ましの薬も愛用していた。それに比べると今はずいぶんマシなのだが、歳を取り、体のあちらこちらにガタが出始めてきた。さすがにもうマメダは怖くないが、心臓発作や脳梗塞は怖い。もうちょっと体を労わってやるかなぁ。・・・そんなことを考えながら、今日も夜ふかし。

 限界ギリギリまで好きな時間を過ごし、その後ストンと眠りの底に落ちる。夢の中で僕は、時空を超えた様々な世界をさまよい、いろんなことを考え、時には怖い目に遭ったり、寂しい思いをしたり、幸福感に耽ったりする。眠りの世界を十分楽しむために、僕は夜ふかしをしているのではないかと思うことがある。ビールを美味しく飲むために、わざわざ喉を乾かせるのと同じように。活動するために体を休めるのでなく、眠るために体や頭を疲れさせる。本末転倒のような理屈だ。

 現実と夢とがクロスオーバーする夜ふかしの時間。かつてこのゾーンにはラジオの深夜放送がいつも流れていた。その頃に聞いたフォークソングなどは、脳細胞の敏感な所に深く刻み込まれていて、今もしっかり思い出すことができる。夢の世界から呼び起こしてくる懐かしい歌詞やメロディーを、いま現実の世界で再構築し、ギターを弾いて再現してみる。これはもう「懐かしい」といった感情をはるか通り越し、大げさに言えば脳内タイムトラベルとでも呼ぶべき貴重な体験なのだ。
 こうして夜ふかしの日々は続く。ニコチンとカフェインとマメダの霊気に助けられ、不健康ながらも充実した毎日。こうしている間にも少しずつ寿命が削られていくのかもしれないが、夢と現実で人生2倍楽しんでいるのだから、まあ良しとしよう。



あしたのジョー

2017-05-27 23:35:47 | エッセイ


 大好きな漫画「あしたのジョー」について書こうと思う。まず最初にクイズから。

【問題】主人公矢吹ジョーとライバル力石徹との初対面シーンが掲載された冊子を見て、原作者は「困ったことになった」と頭を悩ませたという。結局はそのことが原因で、後に予定されていたストーリーを変更せざるを得なくなったのだが、その困った問題とは何か?

【ヒント】力石が〇〇過ぎた。

 お解りだろうか?
 この作品の原作者は高森朝雄。梶原一騎の別名である。当時、少年マガジンには梶原一騎原作による「巨人の星」がすでに連載中であり、同じ雑誌に同一作者の作品が複数掲載されることをためらっらたことから別名を用いたと言われている。
 作画は、ちばてつや。この人はなかなか骨のある漫画家で、作画を引き受ける条件として、「時と場合に応じて、こちらの方で原作に手を加えさせてくれ」と注文をつけた。梶原は原作の改変を嫌うことで有名だったが、担当編集者が恐る恐る梶原にちばの意向を伝えたところ、「手塚治虫とちばてつやは別格だ、いいでしょう」と承諾したという。しかし、いざ連載が始まってみると、予想以上に原作者と作画者との意見の相違が多く、幾多の議論や口論を繰り返すハメとなった。
 ある日、新宿のバーで打ち合わせをしていたとき、梶原は力石を殺したい、ちばは生かしておきたいということで口論になった。やがて口論は白熱し、梶原が「力石は、絶対殺す!」と大声で発言。それを聞きつけたバーの店員が、びっくりして警察に通報したという逸話がある。

 さて、先のクイズの答えは「力石が大き過ぎた」ということ。渡された原稿の一文を自分なりに解釈したちばは、力石の身長をジョーより頭一つ分くらい高く描いてしまった。後に二人はプロボクサーとして闘わねばならないのに、これだけ体格に差があれば、同じ階級で闘うのはおかしい。やむなく梶原は、人間の限界を超える過度の減量を力石に強いることになり、それが原因でやがて力石は死んでしまう。
 力石の死が掲載された後、寺山修司の呼びかけで葬儀が執り行われ、多数の著名人や読者ファンが参列したというのは有名な話だ。

 1970年に発生した日航よど号ハイジャック事件では、ハイジャック犯がこの作品を愛読しており、「われわれは明日のジョーである」との声明を残した。先に述べた力石葬儀の件なども含めて、「あしたのジョー」は単に「連載マンガ」にとどまらない、様々な社会現象を引き起こしてきた。
 いわゆるスポ根マンガでは、主人公=真面目な努力家で家庭は貧乏、ライバル=天才肌で裕福な家庭、という構図がよく用いられる。梶原一騎原作による「巨人の星」なども、まあこのパターンに当てはまるのだが、「あしたのジョー」に関しては主人公のジョーも力石も少年院出身の不良少年であり、その様相はかなり異質だ。「努力すれば報われますよ」といった良い子の論理を押し付けるのでなく、仲間やライバルとの友情を美化するのでもなく、その人間関係はむしろドロドロしたものだ。
 丹下団平は、最初のうちは自分の果たせなかった夢をジョーに託するような感じでトレーナー役に徹するが、ジョーが売れっ子となってからは、それを利用して金儲けに走ろうとする俗物の側面があらわになってくる。ジョーやその仲間であるドヤ街の子供たちは戦争孤児だろうし、ジョーの対戦相手には朝鮮戦争にまつわるトラブルで父親を殺してしまった韓国人ボクサーが登場する。
 もちろんジョーも力石も努力家には違いないが、それは生死を賭けたような凄まじいものであり、そこには「美しいスポーツマンシップ」だの「互いを高め合う好敵手」だのといった教育観はまったく見えてこない。すでにスポーツの枠を超えた壮絶な人間ドラマと考えた方が良さそうだ。

 「ほんの瞬間にせよ、まぶしいほどまっ赤に燃えあがるんだ。そしてあとにはまっ白な灰だけが残る。燃えかすなんか残りやしない。まっ白な灰だけだ。」
 このセリフにジョーの人生観が集約されている。

 ホセ・メンドーサとの死闘の末に判定で敗れ、「真っ白に燃え尽きた」ラストシーン。ここでジョーは死んでいるのか、いや、疲れて休んでいるだけなのか、人によって見解が分かれ、読者やマンガ評論家の間で真剣な議論が繰り広げられてきた。
 実はこのラストシーンについても、原作者と作画者との間で意見の相違があったらしい。原作ではホセ・メンドーサとの試合終了後、丹下段平が「お前は試合では負けたが、ケンカには勝ったんだ」と労いの言葉をかけ、パンチドランカーとなってしまったジョーはその後静かな余生を過ごすというストーリーが用意されていた。ところが、ちばてつやは「ジョーの余生」というのが気に入らず、この「真っ白な灰」の絵で終わりにしてしまった。
 さて、ジョーは死んでいるのか否か、作画者のちばてつやも明らかにしていない。医学的な見解からすると、「もし死んでいればこの体制を維持できるはずがないから、この時点では間違いなく生きている」ということになるらしい。

 僕が「あしたのジョー」から学んだものは、特に何もない。とりわけてボクシングが好きになったわけではないし、真っ赤に燃え上がって真っ白な灰になってしまうような生き方はしようなんて微塵も思わない。それだのに、このラストシーンを見るだけでいつも涙がこぼれそうになってくるのは何故だろう。
 6月に開催される「アニメソング特集ライブ」に備えて、アニメ「あしたのジョー」の主題歌をちょっと練習してみた。寂しげな感じでやりたいのだが、ギターを弾く手に次第に力が入り、最後はガンガンの演奏。本番で弦を切らないか心配だ。(^^;
 


京美人

2017-05-27 01:40:57 | エッセイ


 写真は、バンド仲間ユミちゃんの若き日のお姿。本人の了承を得て掲載した。左は葵祭に参列した時のものらしい。右は日本髪のモデルをしたときのもので、カツラでなく本物の髪を結っているらしい。いかにも「京女」って感じでいいね。

 僕が京都の女性に対して描くイメージは、おっとりしていて、我慢強く芯が強い、控えめなようで自分の考えをしっかり持っている。理論よりも感性を重んじ、楽観的な性格。美意識が高くファッションセンスも良いが、流行り物を嫌う傾向がある。
 外見的には、小柄で丸顔で、目も丸いが、ぱっちり大きいという感じではない。全体に彫りが浅く、どちらかと言えば地味な顔立ち。綺麗というよりは可愛いといった感じ。表情を大きく崩さず、口元に薄っすらと妖しい微笑みを浮かべる。
 僕の祖母もそうした特徴を備えた、典型的な京女だった。母は大阪生まれで、まったく違った感じ。ひょっとすると、京女に関する僕のイメージは、祖母の面影に由来しているのかもしれない。でも、先に書いたようないくつかの特徴は、世間一般で考えられている京女像と大きく違わないと思うのだ。

 もちろん個人差はあるけど、全国各地の土地柄とそこに暮らす人々の特徴には、かなり深い関連性がある。そうしたわけで、土地それぞれに〇〇美人が存在するわけだ。例えば、東北美人のイメージは、すらりと背が高く、色白で目鼻立ちがはっきりしている。これはおそらく、ユーラシア大陸北方系の遺伝子が関係しているのだと思う。
 人の顏というものは、遺伝的な形質だけでなく、話し方や表情の作り方など、成長過程における顔面筋肉の使い方などによっても変わってくる。京女の柔和な顔立ちは、おっとり優雅な古都の環境にマッチする形で作り出されていくのだろう。
 大人になって化粧をするようになると、その仕方に個性の違いが反映されるので、性格と外見とのリンクがますます強いものとなってくる。僕は化粧で作られた顔が好きだ。化粧自体がひとつのアートだと思うし、その中に人それぞれの個性やセンスを見て取ることができる。素顔を知った上で、メイクアップされた造形美を鑑賞する。あるいは、化粧で塗られたよそ行きの顔を見ながら、その人の自然な素顔を想像する。

 真っ白に塗られた舞妓さんや芸妓さんの化粧は、人それぞれが持つ個性をあえて隠すことによって匿名の美を創り出し、「非日常の女」を演出しているように見受けられる。
 僕の祖父は芸妓さんが大好きだったようで、さんざん祇園で遊び、揚句は芸妓さん(僕の祖母)と結婚して、その後もしょっちゅう祇園に通っていたらしい。結局はそれで店をつぶしてしまったのだが、もしも店が続いていて、僕が何代目かの旦那になっていたとしたら、やはり同じような道を歩んでいたのだろうか。
 いやいや、じっちゃんの頃とは時代が違うわなぁ。そんな夢のような生活が許されるわけもない。しかし、今なおこんなことを書いて楽しんでいるというのは、僕も同じような嗜好を持っているということか。
 僕の親父は対照的に、石仏みたいな堅物人間だった。やはり僕はじっちゃんに似ているのかもしれない。隔世遺伝、恐るべし。

ゴールデンウィーク事情

2017-04-22 23:51:42 | エッセイ
 もうすぐゴールデンウィーク。
 僕の家は琵琶湖畔のリゾート地付近にあるため、連休ともなればひどく車が渋滞する。住宅街の路地から琵琶湖大橋へ続く幹線道路へ出たとたんにもう長蛇の列。これではどこへも出掛ける気にならない。
 そこで僕の考え出したのが「自宅バカンス」。まるで別荘にでも居るような気分で、自宅およびその周辺をのんびり楽しもうというわけだ。昼間からゆっくり(全国各地温泉の香りの入浴剤なんかを使って)風呂に入ってみたり、屋上の折りたたみベッドに寝っ転がってカクテル(ほんとは缶チューハイ)を飲んだり、アメリカ西海岸にでも来たような気分で琵琶湖岸を散歩したりする。のんびりムードに飽きてきたら、ちょいとラスベガスにでも遠出するような気分でパチンコ店へ出掛けたりもする。(笑)
 ここ10年くらいは、毎年そういうGWを過ごしてきた。「今年もまた、どこへも行かなかったなぁ」などと悔やむよりも、「自宅バカンスをたっぷり楽しんだ」とプラス志向で考える方がいい。何事も気の持ちようだと思う。

 ところが、今年のGWはちょっと様相が違う。ライブの予定が3本入っていて、そのための練習も予定されている。4/30は昭和歌謡、5/4はアメリカンフォーク、5/7は日本のフォークと、それぞれ演奏ジャンルが異なる。脆弱な僕には中2日や3日での登板はかなりきつそうだ。
 でも、まあ僕らはまったくの素人だし、趣味で演奏しているだけなんだから、のんびり気楽にやればいいだろうと高をくくっている。こんな僕らに演奏の機会を与えていただけるのは、ほんとに有難いことだ。こうしたチャンスを有意義に活かし、今年は一風違ったゴールデンウィークをたっぷり楽しみたいと思う。

 さて、この「ゴールデンウィーク」なる用語、どのようにして使われだしたのかと気になって、ちょっと調べてみた。
 この言葉が使われるようになったのは1951年(昭和26年)、意外と古い。もともとは映画業界の用語で、正月映画やお盆映画に匹敵する興行成績を得ようとして作られた宣伝用語だったらしい。翌年にはマスコミなどで頻繁に使用されるようになり、国民全般に定着していった。
 ところが、NHKでは当初から、現在においても、この用語を使用せず「春の大型連休」という表現に代えているそうだ。
 「ゴールデンウィーク」を使用しない理由は次のとおり。
①元々は映画業界の宣伝用語であり、放送法第83条(広告放送禁止規定)に抵触する恐れがある。
②休暇が取れない人から「何がゴールデンだ」という抗議が来る。
③外来語やカタカナ語を避けたい。
④1週間よりも長くなることが多く、「ウィーク」はおかしい。
 うん、なるほど。いかにもNHKらしくて良いね。(^^)v

 元々4/29の昭和天皇誕生日と5/5の子供の日とが近接しているのだが、その間に5/3の憲法記念日が加わって大型連休の形が出来た。当時の政府は、5月3日を憲法記念日の祝日とすることを意識したうえで、その半年前の11月3日に新憲法を公布したのだとも言われている。まあ何でもいいが、連休はやはり嬉しい。
 天皇退位について検討されているが、現在の皇太子が即位された後にはその誕生日が祝日となり、現天皇の誕生日は「平成の日」とかに変わるのだろうか。名目は何であれ、祝日が増えるのは嬉しい。いっそのこと、神武以来歴代天皇の誕生日をすべて祝日にしてくれたらいいのに、と思ったりもする。ついでに皇后の誕生日も・・・。こらこら、いつ働くねん!(笑)

 遠出があまり好きでない僕は、この歳になってまだ一度も海外旅行をしたことがない。パスポートすら申請したことがない。ごった返している空港の様子をTVのニュースで見て、ご苦労さんですなぁと薄ら笑う。働き過ぎの日本人にはもっと休暇が必要なんだろうけど、その休暇を使って余計疲れに行ってるようでは本末転倒。自宅か近場のスポットでゆっくり休めばいいのに、と思ってしまう。
 今年のGWは珍しく外出の機会が出来たけど、まあ滋賀県内と大阪、いわゆる近場だ。のんびり、ゆっくりと音楽に親しみ、その他の日は自宅バカンスをたっぷり楽しみたいと考えている。
 あ、それから、忘れてはならないのが5月5日の結婚記念日。今年は33回忌目となる。さて、どうしようかな。本日(4/22)三重県までアナゴを食べに連れて行ったので、もうこれでいいかな?





電話

2017-04-02 23:54:46 | エッセイ


 携帯電話が普及し始めた頃は、警察無線みたいに大きくて、それを持つ人は専用のホルダーでベルトに装着していた。よほど迅速な連絡が必要な、特殊な職業の人だけが使用する物だと思っていた。まさか自分が電話(スマホ)を持ち歩くことになるなんて、夢にも思わなかった。
 ほんとに電話の進歩はめざましい。僕らが子供の頃、テレビ電話なるものがマンガに登場していたが、こんなのは空飛ぶ自動車やタイムマシンと同様に、ずっと遠い未来の話だと思っていた。

 僕の好きな歌にこんな歌詞がある。
♪ ダイヤルしようかな 
 ポケットにラッキーコイン
 ノートに書いたテレフォンナンバー
    尾崎亜美「マイ・ピュア・レディ」

 ポケットの中に十円玉を見つけて、それで公衆電話を掛けてみようかと思い立つ。ノートを見なければ番号が分からないくらいだから、まだそれほど親しい間柄でもないのだろう。どんな想いでダイヤルを回し、どんな話をするのだろう。想像力をかきたてられる。
 大学生時代、十円玉や百円玉をいっぱいポケットに入れて電話ボックスへ向かい、遠く離れた彼女と話していたことを思い出す。まだテレフォンカードすらなかった時代だ。彼女の部屋には電話がなく、下宿の大家さんに取り次いでもらっていた。カタンカタンと硬貨が消費される音を聞きながら、早口で言葉を選びながら喋った。
 中学生や高校生の頃、友達の家に電話をかけると、たいていはお母さんが出て、「あ、徳田くん。久しぶりやね。元気?」などと、ひとしきり挨拶を交わしてからでないと取り次いでもらえなかった。ガールフレンドの家に電話をして、たまたまお父さんが出たりすると、何だか気まずい感じだった。話の内容を家族に聞かれたくないので、電話機のコードを思いっきり伸ばして隣の部屋へ引き込んだ。今の中学生や高校生は、こういった試練も、大人とのちょっとした付き合い方なんてことも知らないんだろうな。

 最近はメールやSNSなどを使って連絡を取り合うため、仕事以外で電話をかけることが少なくなってしまった。以前は電話が苦手だった僕も、少し寂しく感じることがある。
 たとえ遠く離れていても、電話だと今の時間を共有しているという同時性を味わうことができる。話せばすぐに答えが返ってくるし、相手の声の表情や微妙な息づかいまで感じ取ることができる。メールやラインでいくら顔文字やスタンプを駆使したって、こうしたライブ感は表現できないだろう。

 先に「マイ・ピュア・レディ」の歌詞を書いたけど、他にも電話が登場する歌は数多くある。同じく尾崎亜美の「オリビアを聴きながら」。「夜更けの電話、あなたでしょう」と推測しているけど、今なら誰から掛かってきたのか、考えなくてもすぐ分かる。
 チェッカーズの「涙のリクエスト」。最後のコインに祈りを込めて、公衆電話から深夜放送のリクエスト番組に電話を掛けている。今の若い人にはまったく意味が解らないだろうな。
 「ダイヤル回して、手を止めた」というのもあった。スマホならピッとワンプッシュ。手を止めたって手遅れだ。相手が出るまでに慌てて切っても、着信履歴ですぐに分かってしまう。(笑)

 昔は電電公社からの貸与品だった無個性の黒電話。人差し指でダイヤルをジーコジーコと回す、あの感触が懐かしい。今から思えばいろいろと不便な点はあったにせよ、当時としては最も迅速で確実な通信手段だった。電話というメディアを通じて、数々の人々が繋がり、喋り合い、愛を語り合ったり、あるいは喧嘩をしたり、様々な人間ドラマが繰り広げられてきたことだろう。
 今では僕みたいなおじさんまでもがSNSに浸って電話離れ。またひとつの文化が消え去っていくような気がする。

好きな詩人 谷川俊太郎

2017-03-25 03:36:50 | エッセイ


 彼の姓は「たにがわ」ではなく「たにかわ」だそうである。以前テレビで司会のアナウンサーが「たにがわしゅんたろうさんです」と紹介した時、「いいえ、ぼくは、たにかわです」と、わざわざ訂正していた。やはり言葉を大切にする人は違う。
 谷川俊太郎は1952年に「二十億光年の孤独」と題する詩集でデビューした。人間の内的感情を宇宙的広がりの中に同化させようとする独特の作風はきわめて斬新なもので、当時の人々をあっと驚かせたという。あの三好達治も深く感動し、「二十億光年の孤独」の冒頭に寄稿詩を掲載することを自らかって出たというくらいだ。
宇宙的感覚というのは、例えば次のような詩のフレーズに代表される。

  万有引力とは
  ひき合う孤独の力である

  宇宙はひずんでいる
  それ故みんなはもとめ合う

  宇宙はどんどん膨らんでゆく
  それ故みんなは不安である

   「二十億光年の孤独」より抜粋

 この詩を初めて読んだとき、何か得体の知れぬ漠然としたショックに襲われた。当時そろそろ大学受験のことが気になりはじめ、志望校の選択に迷っていた僕は、そのショックを契機にさらに迷うことになった。手塚治虫の「火の鳥」を読んだのもちょうど同じころだった。当時は文学部志望だったが、宇宙だとか素粒子だとか生命の神秘とかいった理科系の事象に、がぜん興味を引かれた。文学と自然科学との微妙な接点、それは言い換えれば、精神世界と宇宙空間との接点でもある。
ついでにもうひとつ引用しよう。

 人々の祈りの部分がもっとつよくあるように
  人々が地球のさびしさをもっとひしひし感じるように
  ねむりのまえに僕は祈ろう

    (中略)

  一つの大きな主張が
  無限の時の突端に始まり
  今もなお続いている
  そして
  一つの小さな祈りは
  暗くて巨きな時の中に
  かすかながらもしっかり燃え続けようと
  今 炎をあげる

           「祈り」より抜粋

 結局、文学も自然科学も同じようなものだと安易な結論に達し、僕は大学の理学部へ進むことになった。当初の予定どおり文学部に進んでいれば、今とはまったく違う職業に就き、まったく違った生活を送っていたことだろう。人生においてもっとも多感なころに接した文学などの影響は、その後の人生を大きく左右するものである。
 この人のせいで僕は文系から理系へと方向転換をし、数学が出来なくて困り、大学へ入ってからも(理学部なのに)数学や物理がまったく解らなくて苦労した。結局のところ理学の道には挫折し、就職の際にはそれに近いと思われる農学系に進むことにした。はやり数学や理科は苦手で、今はもっぱら事務屋のような仕事に徹している。しかし、農業とは、自然と人との接点に位置するなりわいであり、僕は遠回りをしながらも自分の求めていた世界に近づいてきたように思っている。

 谷川俊太郎の詩は、時には論理的であり、読み手に対する強い説得力を備えているが、その全容は「人間」という存在物の持つさびしさとやさしさに包まれている。彼の詩は常に平易な言葉で綴られ、その平易さの中にとてつもなく巨大で難解なテーゼが潜んでいるのである。
 また、一方で彼はマザーグースの訳を試みたり、「イルカいないか、いないかいるか」などといった「ことばあそびうた」に取り組んだりもしている。彼は思想家であると同時に、言葉という生きた道具を巧みに操る優秀な技術者でもある。ちなみに、「空をこえて~ ラララ 星のかなた~」という鉄腕アトムの主題歌は彼の作詞によるものだし、漫画「スヌーピー」の翻訳者としても知られている。

 詩人というのは、ずいぶん楽な商売に見える。小説家やシナリオライターなどに比べると扱う文字数ははるかに少ないし、取材や事実関係の調査などもあまり必要ないだろうから、実労働時間は短くて済みそうだ。しかし、それだけに、詩人の生み出す言葉はそのひとつひとつが重く、大切に磨き抜かれたものでなければならない。変な例えになるが、小説家が原稿用紙1枚につきナンボの商売だとすれば、詩人は1文字につきナンボの商売である。詩を構成している文字や言葉は、研ぎ澄まされた感性や深い洞察力によって選び抜かれたものであり、それはいわば詩人の魂の結晶である。だから、僕は詩を読むときは、ゆっくりと、できるだけゆっくりと読むようにしている。
作者はこの詩を通じて何を訴えようとしているのか、この比喩はどういうことを表現しているのか、・・・そんなことに頭を使う必要はない。上等の詩は心地よい音楽と同じように、直接に読み手の感性を揺り動かしてくれるものなのである。谷川俊太郎の編み出す言葉には、理窟抜きに不思議な魅力がある。

 最後に僕の好きな詩を全文掲載しておこう。

   沈黙

  愛しあっている二人は
  黙ったまま抱きあう
  愛はいつも愛の言葉より
  小さすぎるか 稀には
  大きすぎるので
  愛しあっている二人は
  正確にかつ精密に
  愛しあうために
  黙ったまま抱きあう
  黙っていれば
  青空は友
  小石も友
  裸の足裏についた
  部屋の埃が
  敷布をよごして
  夜はゆっくりと
  すべてを無名にしていく
  空は無名
  部屋は無名
  世界は無名
  うずくまる二人は無名
  すべては無名の存在の兄弟
  ただ神だけが
  その最初の名の重さ故に
  ぽとりと
  やもりのように
  二人の間におちてくる

 やもりのように落ちてくる神様というのは、なんだか魅力的だ。こんな神様だったら信仰してもいいなという気になってくる。




高校の思い出 1

2017-02-24 01:23:33 | エッセイ


 僕らが属する、おじさん・おばさんアマチュアフォーク界では、この時期になると「卒業写真」を演奏する人がやたらと増える。しかし、どうも違和感を覚えるのだ。これは卒業式の歌ではないですよね。
 ♪悲しいときはいつも、開く革の表紙・・・、「いつも」なんだから、季節は特に限定されない。卒業アルバムを見て学生当時の様々な光景を懐かしんでいるのであって、卒業式自体を思い出しているわけでもないと思う。
 ちなみに、作者のユーミンが語ったところでは、「あなたは、わたしを、遠くで叱って」の「あなた」は、彼氏ではなく、高校時代の恩師を思い描いて書いたものらしい。ユーミンは立教女学院出身だから、卒業写真に男子生徒は写ってないはずだ。
 まあ、そんなにとやかく言うほどのことでもないけど、いかにも「季節に合わせたタイムリーな選曲ですよ」というふうにやられると、何か反感を覚えてしまう。「卒業写真」は大好きな歌だし、季節に関係なくいつやってもいいわけだけど、僕はこの時期にだけは絶対やりたくないです。(笑)



 さて、自分自身の高校生時代を振り返ってみる。
 いかにも京都らしい変な学校だった。写真は重要文化財に指定されているという校門。前身はわが国最初の女学校で、明治4年に創立。あの新島八重さんがここで教鞭をとっていたらしい。僕はいつも河原町通りに近い裏門から出入りしていて、寺町通りに面した正門は、あまり拝観することもなかった。校舎や図書館も立派な建物だったが、僕にはあまり深い思い入れはない。



 それよりも懐かしいのは、校舎の裏にあったサークルボックス。この写真は数年前に撮ったものだが、僕の通っていた頃も同じような雰囲気だった。僕たちはこの一室で語り合い、本を読み、ギターを弾き、創作もした。授業をサボってここで屯することも多かった。部屋にはコカ・コーラの空き缶が灰皿代わりに置かれ、いつもタバコの匂いが漂っていた。テーブルの上には、少年マガジン、宝島、りぼん、大学への数学、ロッキンF、プレイボーイ、ユリイカなど、いろんなジャンルの雑誌類が散乱していた。家へ帰ってもどうせ勉強しないので、教科書一式はサークルボックスに置き、ギターだけ持って通学していたときもあった。
 学校内にありながら教師たちの干渉を受けない治外法権の場。僕はここで友人たちと無為な時間を過ごしながら、音楽や文学や様々な思想に触れ、少年から大人への長い階段を登り始めた。 

 服装は自由だったし、夏はたいてい裸足にサンダル履き。授業をサボっては百万遍界隈でよく遊び、学校帰りにはライブハウスやパブなんかにも出入りした。ほんとに自由奔放な高校生活だった。もし別の学校へ通っていたとしたら、僕は今とはまったく別の人生を歩んでいたのに違いない。
 できることなら、当時の友人たちとサークルボックスに集まり、酒でも酌み交わしながら昔話に花を咲かせたいと思う。でも、現在行われている校舎改築に併せて、懐かしいサークルボックスはきれいさっぱり取り壊されてしまった。
 まあ、それはそれで仕方ないと思うのだ。形あるものはいつか壊れる。思い出は自分の胸の中で、いつまでも生き続けてくれるだろう。僕にはそれで十分だ。
 最近、歳のせいか思い出に浸ることが多くなってきた。現実の世界にしっかりと腰を据えながらも、時々はノスタルジーの世界を気ままに散策したいと思う。

 *冒頭の写真は学園祭の準備風景。真ん中のエプロン姿が僕です。

かくれんぼ

2017-02-17 02:09:31 | エッセイ
 前回に続いて小学生時代の話。
 学校の休み時間や放課後に「鬼ごっこ」をした時期もあったが、これは単に足の速さを競い合うフィジカルな遊びで、どうも苦手だった。その点「かくれんぼ」は、鬼ごっこほどに疲れないし、遊びの過程にメンタルな要素があり、当然僕はこちらの方が好きだった。昔から、しんどいことを避ける子供だったのである。
 思えば、かくれんぼというのは理不尽な遊びだ。すぐに見つかってはつまらないし、逆にいつまでも見つからなかったら退屈なものである。かくれんぼをしている子供たちの心の中では、見つかることを恐れる気持ちと見つけに来てくれることを期待する気持ちとが複雑に交錯し、その結果、たいていの子供は適度に見つかりにくく、また適度に見つけやすい隠れ場所を選ぶのである。こうして子供たちの間には暗黙の協定が成立し、ちょうどよいくらいの間隔で鬼の交代が行なわれることになる。
 なかには誰にも見つからないような場所に隠れ潜む子供もいるが、最後には他のメンバーから忘れ去られ、知らないうちに鬼が代わっていたり、ゲームが終わってみんな家へ帰っていたりする。子供の世界は無情なものなのである。

 鬼ごっこやかくれんぼを発展させたような遊びで「どろじゅん」というのがあった。全国的には「どろぼうと刑事」で「どろけい」または「けいどろ」などと呼ばれているようだが、僕の地方では「どろぼうと巡査」で「どろじゅん」だった。
鬼ごっこやかくれんぼが多対一の遊びであるのに対して、こちらの方は多対多のチームプレーである。巡査に捕まった泥棒は刑務所と呼ばれるスペースに拘束されるが、泥棒の仲間が助けに来てタッチを交わすと、脱走して再び逃げ回ることができる。巡査側のチームは、遠くに逃げた泥棒を探し回る者や刑務所付近で監視する者などそれぞれ役割を分担し、捜査や警備に努めた。
 やり始めるとなかなか面白く、日が暮れるまで夢中で遊んだものだった。遊び方にも人それぞれの性格が出るもので、自らの危険を冒してでも仲間を助けようとする正義漢がいるかと思えば、仲間などそっちのけで自分が隠れることに専念している者もいた。
 僕の場合は、子供の頃から戦略家で、チームの作戦参謀を務めることが多かった。オトリを使って看守を混乱させたり、サインプレーで各方向から一斉に突撃したり、さまざまな戦術を試みる、言わば、どろじゅん界の諸葛孔明のような存在であった。おかげで、ガキ大将タイプのチームリーダーからも厚い信頼を寄せられ、彼らが中学生になって不良グループを結成した後も、僕は彼らとうまく付き合っていくことができた。

 かくれんぼやどろじゅんでは、鬼(巡査)になった者が目を閉じて数を数えるとき、数字の代わりに10文字または20文字の言葉を唱えることが普通だった。例えば「ぼんさんが、屁をこいた。においだら、くさかった」これで20文字である。「インディアンのふんどし」というのもあった。「インディアンのふんどし、インディアンのふんどし、インディアンのふんどし・・・」と十回数えても、実際には十秒ほどで済んでしまう。これで百数えたことになるのだから、子供の考えることはやっぱりすごい。
「ぼんさんが、屁をこいた」というのはユーモラスで、それになんと言っても京都らしくていいね。全国的には「だるまさんがころんだ」がポピュラーだと思うが、横浜育ちの妻は「のぎさんは、えらい人」と言ってたらしい。「のぎさん」とは日露戦争で活躍した乃木希典大将のことで、こりゃまたえらく古い話だ。
 ところで「インディアンのふんどし」って、いったい何なのだろう? インディアンがふんどしを締めているのか、あるいはインディアンの図柄が入ったふんどしなのか、どちらにしても想像すると笑いがこみ上げて来る。

 どろじゅんは、もうやってみたいとは思わないなぁ。無理に走ってアキレス腱を切ってしまうか、心臓発作でぶっ倒れるか、身体的リスクが非常に高い。運動量の少ないかくれんぼならやってみたい気もする。しかし、オッサンが大勢で物陰に隠れ潜んでたりすると、本物の警察に捕まってしまいそうだ。(^^;
 大人になって得たものもあれば、失ったものもある。もうあの頃の自分には戻れないけど、過去は戻れないからステキなのだ。懐かしい思い出を大切にしつつ、今という現実をしっかり生きていきたいと思う。


小学生時代の苦悩

2017-02-15 00:33:39 | エッセイ

  (注)写真は小学校の卒業アルバムより。
     顔写真は当時の僕。太ってる。
     隣はユミちゃん。かわいい!

 子供のころ学校で苦手なものといえば、一に図画、二に給食、三にフォークダンスだった。とりわけ絵を描くことはこの上なく嫌いで、嫌いだから当然ヘタだった。
 そもそも僕は絵を描くことを「物事を描写するための手段」としか理解しない子供で、この世に写真という便利な物がありながら、どうして絵など描く必要があるのだろうと、ずっと不思議に思っていた。時間をかけて精一杯うまく描いたとしても、その写実性に関しては写真にかないっこないし、第一、写真ならものの数秒でパチリと終わってしまう。写真の無かった時代なら仕方ないが、この現代社会においてなぜ絵を描くなんて無駄な努力を強いられるのだろう。
 版画となれば、さらにひどい。あれはそもそも印刷技術の無かった時代、絵や文字を大量複製するために用いられたものである。たった一枚の印刷物を提出するためにゴム版や木版を彫ることを強制するなんて、児童に対する嫌がらせか拷問としか考えられない。
 そんなわけで、中学生の頃には開き直ってほとんど作品を提出しなくなり、美術の成績はずっと「一」だった。でも結局は図画や美術なんて芸術家を志す一部の人を除いてはどちらでもいいようなものだと思う。僕がこれまでの人生において絵がヘタなために損をしたことは一度もない。微分積分なんて知らなくても何不自由なく生活していけるのと同じことだと思う。

 給食については言うに及ばす。人それぞれの嗜好も体質も許容量(または要求量)も無視して「ほれ、これだけ全部食べなさい」などとやるのは、児童虐待以外の何物でもない。こういった教育が無気力・没個性の現代人気質を生み出すのだ。そもそも「好き嫌いしない」ということがどうして美徳のひとつに数えられるのだろう。「食」は文化なのである。
 小学校三~四年の担任はとりわけ給食にうるさい人で、好き嫌いの多い僕はいつも厳しい立場に立たされた。ある日先生は非常にご機嫌が悪く、「給食を全部食べ終えるまで家に帰らせない」などと強行手段に出た。そんなことに屈するようではプライドが許さないから、僕の方も「それなら帰らない」と開き直ることにした。長い時間にらみ合いが続いたが、結局先生はあきらめたのか、それとも自らの蛮行を反省したのか、「もう遅いから帰りなさい」とぶっきらぼうに僕を教室から追い出したのだった。
 ちなみに今でも僕はシイタケを食べることができないが、「嫌い」だなんて子供じみたことはもう言わない。「このキノコは、宗教上の理由により食べてはいけないことになっております」と・・・。宗教上の理由となれば、誰もこれ以上介入することはできない。小学生の頃は、そこまで知恵が回らなかったのだ。われながら未熟だった。

 体育の時間にフォークダンスを踊らされることも大嫌いだった。女の子と手をつなぐのなんて照れ臭いし、とりわけ「マイム・マイム」などは「かごめかごめ」の巨大版みたいで気味悪い。江州音頭や河内音頭などわが国に伝わる盆踊りを教えずして、どうして外国の踊りを踊らせるのだろう。これも明治文明開化以来つづく西洋かぶれ教育の弊害であると思う。

 ところで、最近になって、やっと絵画の味わいがわかるようになった。もちろん自分で描こうなんて気にはならないが、少なくとも写真と絵との違いくらいは理解できる。ときどきは美術館へ足を運ぶことだってある。
 また、あれだけ嫌いだった給食についても、パサパサの食パン、アルミの食器、先割れスプーン、マトンのから揚げ、クジラの煮付けなど、妙に懐かしさを感じてしまい、ぜひもう一度食べてみたいと思うことがある。
 さらに、ごく稀にだが、フォークダンスを踊りたいような衝動に駆られることすらある。いったい、自分はどうなってしまったのだろう。謎だ。