「後世に残したい昭和の名曲」なんてテレビ番組ではたいてい上位にランクインする、かぐや姫の「神田川」。その歌の舞台は、おそらくこんな所だと思う。
もっと大きな川を想像する人もいるかもしれないが、早稲田大学に近い高田馬場辺りの街中を流れている神田川はこんな感じらしい。この写真は、都内在住の友人が数年前に撮影したもの。さすがに「三畳一間の小さな下宿」はないだろうけど、今でもこういう建物が残っているとは驚きだ。
汚い川に安下宿、同棲、銭湯通い、テレビなんてないから絵を描いたりして時間をつぶしている。たまらなく貧乏で虚しい。それでも二人で過ごしているのが幸せだった。安心感と不安感が隣り合わせに二人を包んでいる。こういう状況は悲しいまでによく理解できる。
僕が学生時代を過ごした信州の冬は、「洗い髪が芯まで冷えて」というくらいでは済まなかった。連れ合いを待っているわずかの時間に、濡れた髪はバシバシに凍結し、銭湯から下宿へと帰る道すがら、体中の骨の芯まで冷え付いた。
僕が転がり込んでいた彼女の下宿は六畳一間。神田川の下宿より2倍も豪勢だ。(笑) しかし風呂はなく、トイレ、洗面所は共同。部屋にはテレビもなく、FMラジオばかり聴いていた。エアコンもストーブもなく、冬はずっとコタツに入ってた。彼女が中華鍋で(鍋といえばそれしかなかった)インスタントラーメンを作り、二人で仲良く啜った。デートといってもお金がないので、本屋で立ち読みばかり。そんな貧乏生活ではあったが、なぜか毎日が充実していた。「神田川」の歌を聴くたび、若かりし日々を思い出しては涙が出そうになってくる。
さて、「神田川」の話に戻る。この歌に地名が登場するのは、2番の「窓の下には神田川」というフレーズ、この一回だけなのだが、そこで詞のイメージが一気に膨らんでいく。窓から遠くを眺めるのでなく、おそらく窓の直下に川が見えるのだろう。だとすれば、この写真のように川岸ぎりぎりにアパートが建てられているはずだ。部屋から見下ろす川の流れは風流と言うには程遠く、窓を開けるとドブの臭いが漂ってくる。川面にはコーラの空き缶や軟式野球のボールや花火の燃えカスや、そういった文明生活の残骸が数々と浮遊し、ときには段ボールに乗せられた子猫が流されて来たりもする。そうした川の風景を横目で見ながら、若い男女は慎ましくも愛情に満ちた三畳一間の空間に閉じこもる。
これが隅田川だと「春のうらら」だし、多摩川だったら巨人軍の練習用グラウンドを想像してしまう。「神田川」というたった一つの固有名詞が、この物語の背景を切なげに語っている。
「神田川」の作詞者である喜多条忠は、「詞ができたよ」と言って南こうせつに電話を掛け、ノートに書いた歌詞を読み上げた。まだメールもFAXもなかった時代だ。こうせつはそれを聞いてメモを取っている間に、直ちにメロディーを思い浮かべたと言う。切ない歌詞と語りかけるようなメロディー、そして哀しみを誘うバイオリンの音色。すばらしい名曲だと思う。
この曲は、南こうせつの優しく明るい声で歌われるから、ちょうど良い感じなのだ。暗く沈んだ声だと、ほんとに陰鬱な歌になってしまう。僕はギターでよくこの曲を弾いてみるが、自分で歌おうという気にはならない。あまりに好き過ぎて歌えない歌。
今の僕は浴室もトイレも洗面所もある家に住み、風呂に行くと言えば車で日帰り温泉。箱の中でカタカタ鳴るような石鹸なんて使わない。シトラスやハーブの香りのボディーソープだ。部屋にはテレビもエアコンもあり、床暖房も入っている。妻は中華鍋のほか、さまざまな調理器具を使い分けて凝った料理を作る。二人の子供は社会人となり、僕はあと数年働けば退職金をもらって家のローンを完済。決して裕福ではないが、人並みに安定した生活には違いない。でも、その安定感が、何だかしっくりこないのだ。
「若かったあの頃 何も怖くなかった」・・・失うものがないから怖いものもなかった。洗い髪を凍らせながら、互いの体の温みだけを頼りに寄り添って歩いた信州の夜。下宿へとたどりつき、コタツに入って熱い紅茶を入れ、一つのカップから交代で飲んだときのあの幸福感は、もう二度と味わうことができないのか。
そんな学生時代を回想しながら、「神田川」のコードをアルペジオで弾き、心の中でそっと静かに口ずさんでみる。下宿の壁に付いていたシミの形までもが、はっきりと思い出されてくるような気がする。
(写真撮影:鎌田宏 氏)
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