****** BLOG ******

エッセイ,
活動記録,
その他いろいろ,

 ♪♪♪ H.Tokuda

高校の思い出 1

2017-02-24 01:23:33 | エッセイ


 僕らが属する、おじさん・おばさんアマチュアフォーク界では、この時期になると「卒業写真」を演奏する人がやたらと増える。しかし、どうも違和感を覚えるのだ。これは卒業式の歌ではないですよね。
 ♪悲しいときはいつも、開く革の表紙・・・、「いつも」なんだから、季節は特に限定されない。卒業アルバムを見て学生当時の様々な光景を懐かしんでいるのであって、卒業式自体を思い出しているわけでもないと思う。
 ちなみに、作者のユーミンが語ったところでは、「あなたは、わたしを、遠くで叱って」の「あなた」は、彼氏ではなく、高校時代の恩師を思い描いて書いたものらしい。ユーミンは立教女学院出身だから、卒業写真に男子生徒は写ってないはずだ。
 まあ、そんなにとやかく言うほどのことでもないけど、いかにも「季節に合わせたタイムリーな選曲ですよ」というふうにやられると、何か反感を覚えてしまう。「卒業写真」は大好きな歌だし、季節に関係なくいつやってもいいわけだけど、僕はこの時期にだけは絶対やりたくないです。(笑)



 さて、自分自身の高校生時代を振り返ってみる。
 いかにも京都らしい変な学校だった。写真は重要文化財に指定されているという校門。前身はわが国最初の女学校で、明治4年に創立。あの新島八重さんがここで教鞭をとっていたらしい。僕はいつも河原町通りに近い裏門から出入りしていて、寺町通りに面した正門は、あまり拝観することもなかった。校舎や図書館も立派な建物だったが、僕にはあまり深い思い入れはない。



 それよりも懐かしいのは、校舎の裏にあったサークルボックス。この写真は数年前に撮ったものだが、僕の通っていた頃も同じような雰囲気だった。僕たちはこの一室で語り合い、本を読み、ギターを弾き、創作もした。授業をサボってここで屯することも多かった。部屋にはコカ・コーラの空き缶が灰皿代わりに置かれ、いつもタバコの匂いが漂っていた。テーブルの上には、少年マガジン、宝島、りぼん、大学への数学、ロッキンF、プレイボーイ、ユリイカなど、いろんなジャンルの雑誌類が散乱していた。家へ帰ってもどうせ勉強しないので、教科書一式はサークルボックスに置き、ギターだけ持って通学していたときもあった。
 学校内にありながら教師たちの干渉を受けない治外法権の場。僕はここで友人たちと無為な時間を過ごしながら、音楽や文学や様々な思想に触れ、少年から大人への長い階段を登り始めた。 

 服装は自由だったし、夏はたいてい裸足にサンダル履き。授業をサボっては百万遍界隈でよく遊び、学校帰りにはライブハウスやパブなんかにも出入りした。ほんとに自由奔放な高校生活だった。もし別の学校へ通っていたとしたら、僕は今とはまったく別の人生を歩んでいたのに違いない。
 できることなら、当時の友人たちとサークルボックスに集まり、酒でも酌み交わしながら昔話に花を咲かせたいと思う。でも、現在行われている校舎改築に併せて、懐かしいサークルボックスはきれいさっぱり取り壊されてしまった。
 まあ、それはそれで仕方ないと思うのだ。形あるものはいつか壊れる。思い出は自分の胸の中で、いつまでも生き続けてくれるだろう。僕にはそれで十分だ。
 最近、歳のせいか思い出に浸ることが多くなってきた。現実の世界にしっかりと腰を据えながらも、時々はノスタルジーの世界を気ままに散策したいと思う。

 *冒頭の写真は学園祭の準備風景。真ん中のエプロン姿が僕です。

浅川マキの世界

2017-02-18 00:58:50 | エッセイ(音楽)


 好きなミュージシャンについて書こうと思う。第1回目は浅川マキ。とてもマニアックな話です。

 浅川マキは1942年に石川県で生まれた。高校卒業後、町役場で国民年金窓口係の職に就くが、すぐに辞めて上京。ビリー・ホリデイのようなスタイルを指向し、米軍キャンプやキャバレーなどで歌手として活動を始めた。1967年にビクターから「東京挽歌」を発表するが、この作品は本人の意にそぐわなかったようで、その後彼女はこの曲を封印してしまう。
 1968年、寺山修司に見出され新宿のアンダー・グラウンド・シアター「蠍座」で初のワンマン公演を 三日間にわたり催行、クチコミで徐々に知名度が上がる。やがてレコード会社を移籍し、1969年に「夜が明けたら/かもめ」で正式にレコード・デビュー。以後、数々の作品を発表しつつステージを主体に音楽活動を行う。
 CDの音質に対して懐疑的であったため、1998年以降は新譜を発表せず、ライブ活動に専念している。2010年1月、ライブ公演で滞在していた名古屋市内のホテルで倒れ、そのまま死亡。享年67歳。死因は急性心不全とみられる。

 以上は、インターネットで調べた浅川マキの略歴である。ここで僕が初めて知ったことが二つあった。ひとつは歌手になる前は役場の国民年金窓口係だったということ。これは意外だ。全然似合っていない。あの顔とあの声で受付をされたら、国民年金の申し込みに来た人も先行き暗い気持ちになるだろう。
 もうひとつは「東京挽歌」の話。僕は「夜が明けたら」がデビュー曲だと思っていた。浅川マキ本人はこの「東京挽歌」を自らの汚点のように思っているらしく、これまでの発表曲を記録したディスコグラフィーからも抹消されている。浅川ファンとして知られる音楽ライターが「東京挽歌の音源を持っている」と自慢げに本人に話したところ、「棄ててください」と言われたそうだ。

 浅川マキに関するエピソードをもう少し紹介しよう。
 自らの作品において「作詞」と表記する際、「詞」ではなく「詩」を用いている。また、外国作品を自ら日本語で歌う場合、原作の持つ世界観を損なわぬよう、まず翻訳家に対訳を依頼し、メロディーから受けるイメージも採り入れたうえで練り直して新たに詩作を行う。そのため表記を「訳詩:浅川マキ」とせず「日本語詩:浅川マキ」としている。
 1993年、東芝EMIが「音蔵シリーズ」と称するアルバム作品群のCD化企画を行い、その中に浅川マキのアルバムが4タイトル含まれていたが、発売後短期間で廃盤となった。「音質が気に入らなかった」とマキ本人が語っており、その強い意向で会社側としても廃盤にせざるを得なかったらしい。
 このように「詩」について、また「音」について、徹底したこだわりを持ち続けた。数々の有名ミュージシャンと協演しているが、山下洋輔のような大御所に対しても、演奏が気に入らなければ容赦なくやり直しを命じたと言われている。

 僕が浅川マキを知ったのは中学生の頃だった。ラジオの深夜放送で流れているのを耳にした程度で、不気味な音楽という印象だけが残っている。当時の僕はまだ清純で、その不気味さを心地よく感じるほど成長していなかったのだ。
 高校に入学してクラブ紹介のとき、フォークソング部の発表で有吉さんという先輩が浅川マキの曲を歌った。「♪ あたしが着いたのはニューオリンズの 朝日楼という名の女郎屋だった」他の部員はかぐや姫だとかチューリップだったが、有吉さんはギター1本で「朝日楼」だ。この演奏には度肝を抜かれ、さすがに高校はすごいところだと実感した。ちなみにこの人は、高校卒業後アメリカへ渡り、今ではブルースの本場シカゴでピアニストとして活躍されている。高校1年生の時、その有吉先輩から「MAKI・Ⅱ」というアルバムを録音したテープを借りて聴いた。それが浅川マキとの最初の出会いと言ってよいだろう。

 中島みゆきの歌は暗いだとか、いや山崎ハコはもっと暗いだとかいう議論があったが、暗さに関して言えば浅川マキの右に出る人はいないだろう。彼女の歌は陰鬱で、寂しく、たまらなく悲惨だ。
 しかし、そこに登場する風景はアメリカの貧民街であったり、港町の酒場であったり、また刑務所であったりと、ほとんど自分には縁のない所だ。だから僕はその暗さや寂しさを客観的に見つめることができる。言うなれば他人事の暗さや寂しさなのだが、それでも浅川マキの歌は、その遠い世界の悲惨さを僕のすぐ近くまでひしひしと伝えてくる。僕は迫り来る悲惨さを体の表面ぎりぎりで受け止め、その歌の世界に聴き入る。体の中にまで侵入させてしまったら、あまりに痛々しくて、とても聴いていられないだろう。
 高校生時代は友人の家で浅川マキのレコードをよく聴いた。ナイショでタバコを吸ったり酒を飲んだりして聴くものだから、部屋中に背徳の匂いが立ちこめる。そうして、しばし陰鬱かつ退廃的なムードに浸ったあとは、自転車に二人乗りして「天下一品」のラーメンを食べに出掛けたりしたものだった。

 浅川マキの初期作品は寺山修司の演劇世界とつながっているが、彼女がほんとにやりたかったのはそういうものではなかったようだ。有名になってからはジャズ、ブルース、ゴスペルなど外国作品を多くカヴァーし、シンガー・ソングライターというよりもボーカリストといった色彩が強くなる。レコーディングやライブ公演には名だたるジャズ演奏家を招き入れるが、それはもはや浅川マキのバックバンドという存在ではなく、マキがボーカルを担当する全日本選抜セッションバンドといった感じになっている。

 僕が信州の大学に入学した年、松本市内で行われるライブ公演のポスターを見つけた。まさかこんな所で浅川マキに出会えるとは思わなかったので、うれしくなってすぐに前売りチケットを買った。
ライブ会場は、なんとお寺の本堂だった。最初に住職の読経があり、それに続いてマキが登場。客は畳の上であぐらをかき、中には寝そべっている人や一升瓶の酒をまわし飲みしている人もいた。場内には「勧煙」の貼り紙があり、客席となった畳の上には灰皿がいっぱい置いてあって、マキも他のミュージシャンもタバコを吸いながら演奏した。タバコと線香の煙で空気はひどい状態となり、愛煙家の僕でさえ気持ち悪くなるくらいだった。ジャズ系の曲が中心で、演奏された曲目はよく覚えていないのだが、そのとき受けた感銘はまだ胸の奥に残っている。真っ黒のドレスを着てお寺の本堂に立つ浅川マキは、何とも言えず不気味だった。

 そのあと、大学から帰省中の京都で浅川マキのライブを見た。冬の寒い日、四条大宮の映画館で夜の10時頃から開演し、なんと朝までやるという。この公演には「始発まで」というタイトルがついていた。長いライブが終わったあと、僕は本当に阪急電車の始発と京阪京津線に乗り継いで家へ帰った。
 1曲目、舞台中央に立ったマキ一人に薄暗いスポットライトが当たり、無伴奏で淡々と歌い始める。ワンコーラスが終わり、ツーコーラス目の途中からいきなり伴奏が入るのだが、その音程がぴったり合っていて驚いた。浅川マキは、その独特の雰囲気ばかりがクローズアップされがちだが、歌唱技術といった面でも素晴しいものを持っている。
 そのときのミュージシャンはそうそうたるメンバーだったが、特にギターは内田勘太郎&渡辺香津美という滅多に見られない二大巨匠の共演で、まさに感動物だった。後半は浅川マキもかなりノリノリの感じで、この人は実は明るい性格なのではないだろうかと思ったくらいだ。
 ほんとのところ、浅川マキのあの暗さは、意図的に作り出されたものではないかと僕は思っている。石川県からわざわざ上京して人前で歌おうなんて、陰鬱な性格の人ではまずできないことだ。また、全盛期でのレコーディングやライブ活動のスケジュールは非常に精力的で、エネルギッシュな人でなければとてもこなせない。CD化拒否に代表されるように「音」に対して徹底的なこだわりを見せ、さらにはレコードのジャケット、ライナーノート、ポスターのデザインなどにも一貫した美意識を持ち、終生その姿勢を崩すことがなかったという。こうしたこだわりを貫くためには強大なエネルギーを必要とするし、それは孤高の自意識と、プロとしての責任感みたいなところから生まれてくるのだと思う。
 浅川マキは意外とポジティブな性格の持ち主で、ステージで見せる言動や表情などについても、綿密な計算に基づいて演出されたものではないかという気がしてくる。

 日本人のジャズ・シンガーはたくさんいるが、概して言えば、みな上品すぎるような気がする。耳に心地よく入ってくるが、すぐにもう一方の耳から抜けていく。そこに残るものは何もなく、刺激もなければ毒もない。BGMとして聴くには丁度よいのだが、その歌によって創り出される世界に浸るという冒険はできそうにない。変な喩えだが標準語で演じられる吉本新喜劇みたいなもので、表現法の違い云々の問題でなく、そこに本来あるべき原点のようなものが完全に欠如してしまっているのだ。
 浅川マキの歌は、これらとはまったく異質だ。その声質は決して耳に心地よいものではなく、ときには不快でさえあるが、何か心の内面に直接響いてくるようなものがある。彼女の創り出す世界は、一般によく用いられる「泥臭い」といった表現をはるかに通り越した「血なま臭い」印象すら与え、本場のジャズやブルースの根底に流れる魂の叫びみたいなものを感じさせる。
 全身黒ずくめの衣装は、あたかも魔女を連想させるが、いやそんなに神秘的なものではない。彼女は現実に世界のどこかで起こっているであろう(あるいは過去に起こっていた)人間社会の悲哀を歌う。あの暗く陰鬱な独特の雰囲気は、たとえそれが一種の演出であったにしても、僕たちを遠い非日常の世界へと誘い込むための仕掛けとしては十分だ。

 浅川マキのライブを見たのは先に述べた二度だけだ。いくら望んでも、もう決して見ることができない。浅川マキのようなシンガーは類稀で、誰も彼女の代わりを務めることは不可能だろう。
名古屋のライブ公演を前にしたホテルで亡くなったというのは、どう考えても無念だ。せめて、できることなら、あとしばらくがんばって、ステージの上で息をひきとって欲しかった。そのほうが本人にとっても幸せなことだったと思うのだ。


かくれんぼ

2017-02-17 02:09:31 | エッセイ
 前回に続いて小学生時代の話。
 学校の休み時間や放課後に「鬼ごっこ」をした時期もあったが、これは単に足の速さを競い合うフィジカルな遊びで、どうも苦手だった。その点「かくれんぼ」は、鬼ごっこほどに疲れないし、遊びの過程にメンタルな要素があり、当然僕はこちらの方が好きだった。昔から、しんどいことを避ける子供だったのである。
 思えば、かくれんぼというのは理不尽な遊びだ。すぐに見つかってはつまらないし、逆にいつまでも見つからなかったら退屈なものである。かくれんぼをしている子供たちの心の中では、見つかることを恐れる気持ちと見つけに来てくれることを期待する気持ちとが複雑に交錯し、その結果、たいていの子供は適度に見つかりにくく、また適度に見つけやすい隠れ場所を選ぶのである。こうして子供たちの間には暗黙の協定が成立し、ちょうどよいくらいの間隔で鬼の交代が行なわれることになる。
 なかには誰にも見つからないような場所に隠れ潜む子供もいるが、最後には他のメンバーから忘れ去られ、知らないうちに鬼が代わっていたり、ゲームが終わってみんな家へ帰っていたりする。子供の世界は無情なものなのである。

 鬼ごっこやかくれんぼを発展させたような遊びで「どろじゅん」というのがあった。全国的には「どろぼうと刑事」で「どろけい」または「けいどろ」などと呼ばれているようだが、僕の地方では「どろぼうと巡査」で「どろじゅん」だった。
鬼ごっこやかくれんぼが多対一の遊びであるのに対して、こちらの方は多対多のチームプレーである。巡査に捕まった泥棒は刑務所と呼ばれるスペースに拘束されるが、泥棒の仲間が助けに来てタッチを交わすと、脱走して再び逃げ回ることができる。巡査側のチームは、遠くに逃げた泥棒を探し回る者や刑務所付近で監視する者などそれぞれ役割を分担し、捜査や警備に努めた。
 やり始めるとなかなか面白く、日が暮れるまで夢中で遊んだものだった。遊び方にも人それぞれの性格が出るもので、自らの危険を冒してでも仲間を助けようとする正義漢がいるかと思えば、仲間などそっちのけで自分が隠れることに専念している者もいた。
 僕の場合は、子供の頃から戦略家で、チームの作戦参謀を務めることが多かった。オトリを使って看守を混乱させたり、サインプレーで各方向から一斉に突撃したり、さまざまな戦術を試みる、言わば、どろじゅん界の諸葛孔明のような存在であった。おかげで、ガキ大将タイプのチームリーダーからも厚い信頼を寄せられ、彼らが中学生になって不良グループを結成した後も、僕は彼らとうまく付き合っていくことができた。

 かくれんぼやどろじゅんでは、鬼(巡査)になった者が目を閉じて数を数えるとき、数字の代わりに10文字または20文字の言葉を唱えることが普通だった。例えば「ぼんさんが、屁をこいた。においだら、くさかった」これで20文字である。「インディアンのふんどし」というのもあった。「インディアンのふんどし、インディアンのふんどし、インディアンのふんどし・・・」と十回数えても、実際には十秒ほどで済んでしまう。これで百数えたことになるのだから、子供の考えることはやっぱりすごい。
「ぼんさんが、屁をこいた」というのはユーモラスで、それになんと言っても京都らしくていいね。全国的には「だるまさんがころんだ」がポピュラーだと思うが、横浜育ちの妻は「のぎさんは、えらい人」と言ってたらしい。「のぎさん」とは日露戦争で活躍した乃木希典大将のことで、こりゃまたえらく古い話だ。
 ところで「インディアンのふんどし」って、いったい何なのだろう? インディアンがふんどしを締めているのか、あるいはインディアンの図柄が入ったふんどしなのか、どちらにしても想像すると笑いがこみ上げて来る。

 どろじゅんは、もうやってみたいとは思わないなぁ。無理に走ってアキレス腱を切ってしまうか、心臓発作でぶっ倒れるか、身体的リスクが非常に高い。運動量の少ないかくれんぼならやってみたい気もする。しかし、オッサンが大勢で物陰に隠れ潜んでたりすると、本物の警察に捕まってしまいそうだ。(^^;
 大人になって得たものもあれば、失ったものもある。もうあの頃の自分には戻れないけど、過去は戻れないからステキなのだ。懐かしい思い出を大切にしつつ、今という現実をしっかり生きていきたいと思う。


小学生時代の苦悩

2017-02-15 00:33:39 | エッセイ

  (注)写真は小学校の卒業アルバムより。
     顔写真は当時の僕。太ってる。
     隣はユミちゃん。かわいい!

 子供のころ学校で苦手なものといえば、一に図画、二に給食、三にフォークダンスだった。とりわけ絵を描くことはこの上なく嫌いで、嫌いだから当然ヘタだった。
 そもそも僕は絵を描くことを「物事を描写するための手段」としか理解しない子供で、この世に写真という便利な物がありながら、どうして絵など描く必要があるのだろうと、ずっと不思議に思っていた。時間をかけて精一杯うまく描いたとしても、その写実性に関しては写真にかないっこないし、第一、写真ならものの数秒でパチリと終わってしまう。写真の無かった時代なら仕方ないが、この現代社会においてなぜ絵を描くなんて無駄な努力を強いられるのだろう。
 版画となれば、さらにひどい。あれはそもそも印刷技術の無かった時代、絵や文字を大量複製するために用いられたものである。たった一枚の印刷物を提出するためにゴム版や木版を彫ることを強制するなんて、児童に対する嫌がらせか拷問としか考えられない。
 そんなわけで、中学生の頃には開き直ってほとんど作品を提出しなくなり、美術の成績はずっと「一」だった。でも結局は図画や美術なんて芸術家を志す一部の人を除いてはどちらでもいいようなものだと思う。僕がこれまでの人生において絵がヘタなために損をしたことは一度もない。微分積分なんて知らなくても何不自由なく生活していけるのと同じことだと思う。

 給食については言うに及ばす。人それぞれの嗜好も体質も許容量(または要求量)も無視して「ほれ、これだけ全部食べなさい」などとやるのは、児童虐待以外の何物でもない。こういった教育が無気力・没個性の現代人気質を生み出すのだ。そもそも「好き嫌いしない」ということがどうして美徳のひとつに数えられるのだろう。「食」は文化なのである。
 小学校三~四年の担任はとりわけ給食にうるさい人で、好き嫌いの多い僕はいつも厳しい立場に立たされた。ある日先生は非常にご機嫌が悪く、「給食を全部食べ終えるまで家に帰らせない」などと強行手段に出た。そんなことに屈するようではプライドが許さないから、僕の方も「それなら帰らない」と開き直ることにした。長い時間にらみ合いが続いたが、結局先生はあきらめたのか、それとも自らの蛮行を反省したのか、「もう遅いから帰りなさい」とぶっきらぼうに僕を教室から追い出したのだった。
 ちなみに今でも僕はシイタケを食べることができないが、「嫌い」だなんて子供じみたことはもう言わない。「このキノコは、宗教上の理由により食べてはいけないことになっております」と・・・。宗教上の理由となれば、誰もこれ以上介入することはできない。小学生の頃は、そこまで知恵が回らなかったのだ。われながら未熟だった。

 体育の時間にフォークダンスを踊らされることも大嫌いだった。女の子と手をつなぐのなんて照れ臭いし、とりわけ「マイム・マイム」などは「かごめかごめ」の巨大版みたいで気味悪い。江州音頭や河内音頭などわが国に伝わる盆踊りを教えずして、どうして外国の踊りを踊らせるのだろう。これも明治文明開化以来つづく西洋かぶれ教育の弊害であると思う。

 ところで、最近になって、やっと絵画の味わいがわかるようになった。もちろん自分で描こうなんて気にはならないが、少なくとも写真と絵との違いくらいは理解できる。ときどきは美術館へ足を運ぶことだってある。
 また、あれだけ嫌いだった給食についても、パサパサの食パン、アルミの食器、先割れスプーン、マトンのから揚げ、クジラの煮付けなど、妙に懐かしさを感じてしまい、ぜひもう一度食べてみたいと思うことがある。
 さらに、ごく稀にだが、フォークダンスを踊りたいような衝動に駆られることすらある。いったい、自分はどうなってしまったのだろう。謎だ。


ちょっと変な洋楽の邦題

2017-02-14 00:50:01 | エッセイ(音楽)


 ビートルズ初期の名曲「I Want to Hold Your Hand 」、日本語では「抱きしめたい」と訳されている。これはちょっと変だぞ。「Hold Your Hand」だったら、手をつなぐとか握るとかいうくらいのニュアンスで、抱きしめるのとはだいぶ感じが違う。「抱きしめる」までいってしまうと、原曲の持つ可愛らしさが損なわれてしまうように感じられる。
 当時は日本でビートルズを売り出そうという意図が強く、インパクトのある曲名が求められてこういうことになったのだろうか。「A Hard Day's Night」に至っては「ビートルズがやってくる ヤァ! ヤァ! ヤァ!」なんて変な邦題が付けられている。坂本九の「上を向いて歩こう」がアメリカでは「SUKIYAKI」というタイトルで売り出されたくらいだから、まあそういうこともあるのかもしれない。

 同じくビートルズの「Norwegian Wood」。村上春樹の小説タイトルにも使われた有名な曲である。誰が考えても「ノルウェーの森」あるいは「ノルウェイの森」(村上春樹はこちら)としか訳せないように思えるが、実はこれにも疑惑がある。
 「Wood」は、森、木のほか木製の家具という意味にも用いられ、それだと「ノルウェー調の家具」ということになる。実際、欧米の人はこのタイトルだけ見ると家具のほうを想像することが多いようだ。家具と解釈した場合、この歌の舞台は野外から室内に転じ、そこで出会った女の子のイメージもずいぶん違ってくる。
 それじゃ「Wood」は森なのか家具なのかどっちなんだ?ということだが、作者のポール・マッカートニーによると、答えはどっちでもなく、部屋の内装に使われている木材を指しているということだ。つまり、彼女の部屋に入ってみるとノルウェー産の木材で内装された部屋だった、ということを表現している。英国ではノルウェー産の木材は安物の扱いで、ここに登場する彼女は、安っぽいアパートに住んでいる、あまり裕福ではない娘という設定なのである。
 ポールが言うんだから、これは間違いないだろう。僕はその曲想から、深い森の奥に迷い込んでしまったような雰囲気を感じ取り、そこで森の精みたいな女の子に出会った・・・というようなイメージを抱いていたのだが、なんだ、安アパートの一室の話だったのか。
 しかし、歌の中ではこの女性を鳥に喩えていることもあり、ウッド調の部屋の雰囲気が「まるで森の中にいるようだった」と比喩しているのだとも解釈できる。それならやっぱり「ノルウェーの森」でいいのかな?

 キング・クリムゾンのセカンド・アルバム「In the Wake of Poseidon」は「ポセイドンのめざめ」と訳されているが、これはまったくの誤訳だと言われている。「in the wake of」は、「目覚め」という意味ではなく、「ポセイドンの跡を追って」、「ポセイドンに続いて」程度の意味らしい。

 誤訳とまではいかなくても、何かちょっと違うなぁと感じるものはたくさんある。例えば「朝日のあたる家」。
 原曲は「The House of the Rising Sun」という古いブルースだ。「Rising Sun」は固有名詞で、ニューオリンズにそういう名称の建物があるというところから歌が始まる。これがアパートだったら「日の出荘」とか訳するところだろう。ところがこの曲は、娼婦として売られていく悲しい女を歌ったもので、「Rising Sun」は娼婦館の名称なのである。それを「朝日のあたる家」なんて訳されると、なんだか健康的な感じがして、この曲を知らない人が題名だけ耳にすると、明るく幸せな家庭を歌ったマイホームソングかな、とかいう具合に、とんでもない誤解が生まれてしまいそうだ。その点、浅川マキによる「朝日楼」は名訳だと思う。いかにも安っぽく、物悲しく、名前とは裏腹に薄暗い感じがにじみ出ている。
 なお、1960年代にヒットしたアニマルズのバージョンでは、原曲の歌詞の女性を不良少年に変えており、「Rising Sun」は少年院を指すと解釈される。この場合にしても、「朝日のあたる家」はやっぱり変だ。

 そもそも、英語と日本語とでは表現方法などが全然違うのだから、題名を直訳しようなどと考えず、歌詞の意味を噛み砕いて日本語の題名を新たに作るほうがよいのかもしれない。例えば、松任谷由実の訳による「雨音はショパンの調べ」(原題I Like Chopin)などはよく出来ていると思う。また、古いジャズ曲の和訳版で「月光値千金」(原題Get Out and Get Under the Moon)というのがあるが、これもなかなか洒落ている。
 高石ともやは「Roll in My Sweet Baby's Arms」を「あの娘のひざまくら」と訳した。好きな女の子に抱き着かれるよりも、ひざ枕のほうが、われわれ日本人男性にはしっくり来る。諸口あきらはジョン・デンバーの「Country Roads」を「いなか道」と歌っていた。こちらの方は直訳ながら素朴な味わいで、僕は好きだ。

 しかし、なんといってもすごいと思うのは、ピンク・フロイドの「原子心母」。
 原題の「Atom Heart Mother」をそれぞれの単語ごとに漢字に直し、それをつないだだけだ。ほんとにこれ以上ないというくらいの直訳なのだが、訳されたってちっとも意味が分からない。その分からないところがいかにもピンク・フロイドらしくて良いね。

これも遺伝!?

2017-02-11 23:49:56 | エッセイ


 「月の砂漠を はるばると 旅のらくだが 行きました」という童謡がある。子供の頃、と言ってもけっこう大きくなるまでのあいだ、僕はこの歌を月世界の風景を描いたものだと思っていた。砂漠のように荒れ果てた月面をラクダがゆっくりと歩いて行く。ラクダも、それに乗っている人も、酸素ボンベにつながった透明のマスクをかぶっている。金の鞍に銀の鞍、いかにもメタリックで近未来的ではないか。
 家族での夕食時にその話をしたら、なんと息子もそれと同じようなイメージを描いていたという。なんだ、やっぱりそうか。そういうふうに考える人もけっこういるんだなと僕は少し安心したのだが、妻の見解は違った。
「それは絶対おかしいわよ。月の砂漠といえば、普通は月夜の砂漠を指すものよ。月面のクレーターみたいな場所を想像するなんて、百人に聞いてもあなたたち二人くらいのものだわ」
 試しにその後何人かの人に聞いてみたが、月面の風景と答えた人は一人もいなかった。僕はそれまで息子に「月の砂漠」の話なんてしたことないから、それぞれが別々に同じような風景をイメージしていたのだろう。思考パターンが似ているということか。
 確かに息子は物の考え方において僕に似たところがある。親子だからまあ当然なのかもしれないが、あまりにも変な部分で似ていることに気付くと、わが事ながら面白くもあり、時には怖くも感じる。

 僕は空間把握能力が極度に低くて、方向とか左右の認識が曖昧だ。例えば商店街を歩いていて、どこかの店に入ると、店から出てきたときに、どちらから歩いてきたのか分からなくなってしまう。たぶんこちらだろうと思ってしばらく歩いた後、先に通り過ぎた店を見つけて、慌てて反対方向へ向きを変えることもしばしば。アルファベットの「E」とカタカナの「ヨ」が、どっちがどっちだか分からなくなってしまう。小文字の「e」を指で書いてみて、やっと「E」の向きを確認するという始末。
 息子も子供の頃、鏡文字をよく書いていた。今でも僕と同じように、「E」の向きが分からなくなってしまうらしい。こうしたこともDNAの遺伝情報に刻み込まれているのだろうか。ある種の怖さを感じる。

 さて、息子が大学生で家に居たときのことだ。家族でテレビのニュースを見ていると、どこかで起こった火事についてアナウンサーが「放火の疑いで捜査中です」と言った。それを聞いて僕と息子はまったく同時に「ほうか・・・」と言ってしまった。これは怖いというよりも、かなり恥ずかしい出来事だ。まあ僕の場合は文字通りオヤジなのだからオヤジギャグでも仕方ないが、二十歳やそこらの青年がこんなことでは困るぞ。
 それから後のある日のこと、また家族でテレビを見ていると、冬山で登山者が遭難したというニュースが流れた。僕はとっさに「そうなん?」と言いかけ、慌てて言葉を飲み込んだ。また息子とダブってしまってはいけないと思ったのだ。息子もそのときは何も言わなかった。彼も僕と同じように自重したのか、あるいは今回は思いつかなかったのか、その真相は定かではない。

 ところでこの息子、困ったことに外見も僕に似ている。そういうのが身近にいると、まるで自分の人生の繰り返しを見ているようで複雑な気持ちになってくる。今は東京の会社に勤務しているが、三十を過ぎてまだ独身。彼女もいる気配がない。このあたりは僕とだいぶ違っている。僕は大学生の頃に婚約し、社会人になってすぐに結婚、今の息子の歳にはもう子供が小学生だった。大事なところが似てないので、僕はなかなか孫の顔を拝むことができない。
 娘も三十歳でまだ独身。このままでは我が家の血筋が途絶えてしまうよ。若いおじいちゃんになりたかったのだが、その夢は叶いそうにない。せめて僕が元気なうちに、孫の顔を見せてほしい。
 孫が生まれて小学生くらいになったら、「月の砂漠」の歌を聴かせて、どのような風景を想像するか確かめてみたいと思っているのだ。「月面のクレーター」と言ったらどう感じるだろう。ちょっと怖いようであり、嬉しいようでもある。


バレンタイン事情

2017-02-11 01:52:00 | エッセイ
 僕はクリスマスやバレンタインデーといった外来的風習が好きでなく、批判的な話をよく口にする。そのせいか、最近では家族など親しい女性からの義理チョコすら貰えなくなってしまった。
 しかし、こんな僕も、何年か前には若い女性からチョコレートをたくさん貰っていたことがあったのだ。それは農業大学校の教員をしていた時のこと。もちろん義理チョコである。いや、ちょうど進級の試験や卒業論文の提出時期と重なっていたから「賄賂チョコ」と言ったほうがいいかもしれない。(笑)
 この時期には仕事が忙しくなり、女子学生からプレゼントされたチョコを有難くいただきながら残業に精を出していた。普段はチョコレートなんてめったに口にしないのだが、疲れているときには甘いものが欲しくなる。というわけで、バレンタインデーにチョコをプレゼントされるというのは、僕にとって実に都合の良い習慣となっていたわけだ。この際、義理チョコでも営業用チョコでも賄賂チョコでも、何だっていい。

 チョコレートの中でもちょっと高級なものは、今や季節商品のような存在である。バレンタインデー前に需要が一気に高まるわけで、各メーカーはそれに合わせて工場をフル稼働しているのだろう。儲かるときに儲けない手はない。
 チョコのような工業製品ならば供給する側にあまり問題はないのだが、これが母の日のカーネーションのように農産物の場合だと、少し事情が違ってくる。日本中のカーネーション農家は、母の日に大量出荷できるよう開花時期を調節して作っているのだが、それでも生産量に限りがあり、価格が暴騰してしまう。母の日に十分供給できるだけの生産規模を持てば、それ以外の時期に生産過剰となる。日持ちの悪い農産物は、よく売れる日に備えて前々から作り貯めしておくというわけにもいかないのだ。
 そこで花を扱っている人々は、誕生日や結婚記念日に花束を贈るという習慣が定着するよう、切に願っているのである。これだと人によって贈る日が異なるので、一年を通じてコンスタントに需要が伸びることになる。生産農家やフラワーショップで働く人々は、忙しい時期が分散し、仕事がやりやすくなるのでとてもありがたい。
 しかし、実際には、こうした習慣はなかなか人々の間に浸透していかないようだ。母の日やバレンタインデーになると、マスコミやクチコミにつられて、みんなが一斉にカーネーションやチョコを買いに走る。そこには一種の群集心理のような力が働いているわけだが、人それぞれに贈る日が違うということになれば、そうした力は極端に弱まってしまう。花の生産者と生花市場とフラワーショップとが手を組んで、いかなるキャンペーンを展開したところで、群集を一斉に動かすような大きな力は生まれてこないのである。

 日本人はそもそも、こうした群集心理に扇動されやすいのだろうか。最初はごく一部の人々の間で行われていた行事が、お菓子屋の陰謀に乗せられ、瞬く間に全国津々浦々にまで広まった。口裂け女の伝説と同じようにである。そして、いまやバレンタインデーにチョコを贈らない女性は変人のように言われ、誰からもチョコをもらえなかった男性は自分の不甲斐無さに気を落とすといったところまで事態は進んでいる。ああ恐ろしや、群集心理。皆が買うから自分も買う。いや、買いたくなくても買わねばならぬ。

 現代社会では行動様式の多様化や個性化が進んできたと言われている。デパートなどの特設会場へ行けば、ありとあらゆる種類のチョコレートが並んでいて、女性たちは自分の個性をアピールしようと熱心にチョコ選びに精を出す。しかし、みんなと同じようにバレンタイン特設会場へと足を運んでいる時点で、それは個性的な行動とは言えないのではないか。別に悪いことではないが、なぜこのようなことになってしまったのか、どうも不思議でならない。
 かく言う僕も、かつては義理チョコを貰い、残業用補助食料として重宝していたのだから、この変な習慣の恩恵を受けていたということになる。しかし、あえてわがままを言わせてもらえば、それは何もチョコレートに限定される必要はないわけで、たまには大福やシュークリームや551の豚饅なんかをくれる人がいた方がむしろありがたいと思う。いやホントにわがままな言い分だけど。

 僕がまだ純情可憐な少年だった頃、可愛い女の子からチョコレートをもらって喜んでいたことがあった。ちょうどバレンタインデーの習慣が浸透し始めた頃だったと思う。まだ義理チョコなどと呼ばれるものはなく、ホントに好きな人にだけ贈られていた。贈るほうも貰うほうも胸をドキドキさせてその日を待っていたものだ。
 そういうふうにして貰ったチョコレートなら、嫌な残業の合間に食べたりしないだろうな。机の引出しにそっと仕舞い込み、大切に取っておくうちにカビが生えるか、夏の暑さで溶けてしまうか、まあそんなところだ。
 あの頃のようなドキドキ感は、もう再び自分には訪れて来ないのだろうな。青春多感な時代は、はるか彼方に過ぎ去ってしまった。どうせ貰うなら551の豚饅のほうがいいなんて考えている今の自分が、何となく虚しく思えてくる。

僕の音楽遍歴2 「おとぎ猫」秘話

2017-02-09 21:18:09 | エッセイ(音楽)


 ユミさんとのデュオを始めて1年と少しが経過した。試しに一度やってみようと軽い気持ちで始めたのだが、今ではこちらのほうがメインとなり、月に2~3回はどこかのライブカフェなどで演奏するようになった。基本は二人だが、HITOMAZzのZENさんを加えて三人でやることもあるし、他の方々の力を借りてセッションをする機会も増えてきた。

 ユミさんとは中学校の同級生だが、別々の高校へ進学してからは互いに音沙汰がなく、何年か前の同窓会で数十年ぶりに再会した。カラオケで彼女が歌うのを聴いて「上手いなぁ」と感心したが、一緒にカラオケに行ったのはその1回きり。僕がライブ喫茶などに出入りしていることを話すと、「私もライブで歌いたい」と彼女が言う。「ほなら、一度一緒に出るか?」と冗談で訊いたら、彼女は「出る!」と本気で答えた。

 初めての出番は「森のくまさん」のフリーライブ。1組2曲、約10分間の短いステージだ。
「彼女、人前で歌うのは、今日が初めてなんです」と僕が言うと、本人は「違う」という。「幼稚園のころ、地蔵盆ののど自慢大会で浴衣を着て歌ったことがあります」
 このMCがけっこうウケて、会場は温かな空気に包まれた。1曲目はいまいち合ってないハーモニーでジロースの「愛とあなたのために」、2曲目は「東京ブギウギ」という、何とも妙な取り合わせ。特に意図したわけでなく、それぞれのやりたい曲を一つずつ選んだらこういうことになったというだけの話だ。
 「東京ブギウギ」では彼女はノリノリで踊りながら歌い、最後はくるくる回って大きな拍手をもらった。およそ50年ぶりのステージで、この舞台度胸は大したものだ。終演後、森のくまさんのマスターから「豊郷小学校旧講堂で開催するフォークジャンボリーに出ないか」とお誘いを受けた。豊郷小学校と言えばアニメ「けいおん」の聖地として名高い所。彼女はその大舞台でもまたノリノリで歌い、くるくると回った。
 最初のうちユミさんはマイクを持って歌うだけだったが、そのうちバナナやイチゴの形をしたシェーカー、八坂神社の御神鈴などの変なパーカッションを使うようになり、さらにはオートハープを弾くようになった。

 僕は彼女の低く柔らかな声が大好きだし、彼女は僕のギターが好きだと言う。このあたりは相思相愛の関係だ。(笑)
 ところが、音楽に対する好みの違いが大きく、演奏曲を選ぶときはよく喧嘩になる。彼女の好きな井上陽水は僕が嫌いだし、僕の好きな吉田拓郎やかぐや姫は彼女が嫌い。そういうわけで、これらの曲はまだやったことがない。最初のうちは昭和歌謡を好んで演奏していたのだが、ユミさんがオートハープを弾くようになってから、ナターシャセブンなどアメリカン・フォークのレパートリーが増えた。
 彼女は曲を選ぶとき、常に衣装のことを気にしている。「1曲目、異邦人でどう?」と言うと、「うん、ええよ」と答える。そのとき、彼女の頭の中では「異邦人に合った服はどれか」と思いが巡らされている。「2曲目、天使のウィンク」と言うと、「それはアカン」とNGが返ってくる。「この服は天使のウィンクには合わへん」と。特に冬場は自分で編んだニットを着るので、余計にこだわりが強い。
 さらに彼女は季節に合った曲を選ぼうとするし、一度やった曲はしばらく間を置かないとやりたくないと言う。そういう難しい問題があり、もちろん技量的な制約もあるので、互いに満足できるように演奏曲を選ぶのは至難の業だ。最近では30分くらいのステージも増え、5~6曲のセットリストを考える必要があるのだが、たいていは二人の妥協の産物となっている。

 さて、これまでに人前で演奏した曲を列挙してみよう。
 東京ブギウギ、蘇州夜歌、月光値千金、上海リル、Side by side、リンゴの木の下で、星の流れに、石狩挽歌、私の彼は左きき、さらば恋人、街の灯り、花の首飾り、ガンダーラ、友達よ泣くんじゃない、アタックナンバーワン、ジョニィへの伝言、涙のリクエスト、あんたのバラード、青い珊瑚礁、スィートメモリーズ、桃色吐息、かもめ、ふしあわせという名の猫、サルビアの花、異邦人、世情、化粧、待つわ、天使のウィンク、オリビアを聴きながら、愛とあなたのために、戦争を知らない子供たち、まぼろしの翼と共に、花嫁、出発の歌、サルビアの花、太陽がくれた季節、サラダの国から来た娘、Top of the world、近江の子守唄、ランブリンボーイ、陽のあたる道、今宵恋に泣く、別れの恋唄、ダイヤの指輪、さよならが言えない、海原、春を待つ少女、せめて今夜だけ、パン売りのロバさん、海に向かって、リターン・トゥ・パラダイス、私を待つ人がいる、森かげの花、初恋、陽気に行こう、ヘイ・ヘイ・ヘイ、柳の木の下、テネシーワルツ、サンタが街にやってくる、アメイジング・グレイス・・・まだあったかな。

 1年余りでよくこれだけやったもんだ。戦前の流行歌から歌謡曲、フォーク、浅川マキからナターシャまでと、ジャンルはかなり広い。同じ曲を何度も演奏すれば少しずつでも上手くなるんだろうけど、前述のような事情で、それもままならない。いつも新鮮な気持ちで、次々と新しい曲に取り組んでいる。上手い下手よりも、まずは自分たちが楽しむことが肝心だと思う。
 彼女は聖飢魔ⅡやXジャパンなどもやりたいらしいが、そんなん、アコギとオートハープでは無理やでぇ。ロックっぽいのをやりたいのなら、と僕が代わりに提案するサディスティック・ミカ・バンドやシーナ&ロケッツには、彼女はまったく関心を示してこない。
 陽水vs拓郎の抗争は今もなお続いている。妥協の産物として中島みゆきをレパートリーに入れているが、僕の大好きな「化粧」は「拓郎みたいな曲や」と言って、一度歌ってそれきりやってくれない。
 そんな中、森のくまさんの「中島みゆきデー」に参加することになった。妥協の産物としての中島みゆき。コアなみゆきファンの方々には、ほんとに申し訳ない気持ちでいっぱいだ。


僕の音楽遍歴1

2017-02-08 23:10:56 | エッセイ(音楽)


 初めて人前で演奏したのは高校生の頃。写真はその時の様子だ。なんだか鬱陶しい面持ちでうつむいてバンジョーを弾く姿は、現在の僕とあまり変わらない。隣でマンドリンを弾いているカワイイ顔の男の子はHITOMAZzの盟友ZENちゃん。彼はこの頃からギターやマンドリンが上手かったし、僕も今よりはバンジョーが弾けた。

 当時僕たちはナターシャセブンに夢中で、その演奏を真似することに明け暮れていた。そこから本格的なブルーグラスの世界へ突き進んでいく人も多かったが、僕たちはそれほど深入りせず、むしろジャンルを広げる方向で、フォーククルセダーズなど一昔前のフォークや、当時リアルタイムだったチューリップ、かぐや姫、吉田拓郎などをレパートリーに加えていった。沢田研二やキャンディーズなどの歌謡曲もやった。
 コンサートに出たのは写真の1回きりだが、誰かの家に集まってはよく練習をした。お母ちゃんが「うるさい!」と言って怒るので、疏水の公園まで楽器を持って練習に出掛けたこともあった。当時はバンドスコアや教則本もあまり良いものがなかったし、ビデオやyoutubeなんて便利なものはない。カセットテープを何度も繰り返し聴き、コンサートでは双眼鏡を使ってプレイヤーの指の動きをチェックした。若い頃は、集中力、記憶力、運動神経、リズム感など、今よりはだいぶ優れていたので、比較的短い時間でマスターすることができた。その頃に覚えた曲の歌詞やコード、フレーズなどは、数十年経った今もしっかり頭に残っている。最近では、やっと覚えたと思っても、2~3日経てばもう忘れているという始末だ。

 仲間たちと一緒に演奏することは、とても楽しかった。僕は他のメンバーとは別の高校だったので日曜日にしか練習ができない。平日は高校の友人と麻雀をしたり、クラブハウスで文芸活動、ライブハウスでロックを聴いたり、そして休日はバンド仲間とフォークの演奏。迫り来る大学受験を気にしながらも、充実した高校生活をエンジョイしていた。
 ところが、僕は遠くの大学へ進み、バンド活動に参加できなくなってしまった。大学の寮では一人でギターをポロポロ弾く程度。酒に酔ってしょっちゅう寮歌を歌っていたが、フォークソングなどを歌う機会はめっきり少なくなった。今から思えば、大学の同級生や寮生の中にも、誘えば一緒に演奏できそうな友人は幾人かいた。やろうと思わなかったのは、音楽に対する僕自身の情熱が冷めてしまっていたためだと思う。また、高校時代のメンバーほど気の合う仲間に巡り合えるとも思えなかった。
 大学を出て就職したらすぐに結婚、またすぐに子供ができて、もうバンド遊びどころではなくなった。その後も長いあいだ楽器に触れることがなく、再びギターを手にするようになったのは、40歳を過ぎてからだった。

 40代の頃は「憂歌団」にハマっていたが、内田勘太郎氏のギターは超絶すぎて、ちょいと真似しようという気すら起こらない。またナターシャでもやりたいと考えたが、一緒に演奏する仲間が見当たらなかったので、一人でギターやバンジョーをいじって遊んでいた。やがて楽器収集が趣味となり、僕は楽器オタクへの道を進んでいくのである。たくさんのギターやバンジョーに囲まれて、一人でポロポロと弾く。ちゃんと練習しないし、ぜんぜん上手くもならない。ただ良い音が出せればそれで満足。そういうオタク生活が10年間くらい続いた。

 そして今から5年くらい前、ZENさんが久しぶりに我が家へ遊びにやってきた。数十年ぶりに二人で演奏してみると、あの頃の記憶がひしひしと甦ってきた。深い海の底から捕ってきたばかりのアワビみたいに新鮮な感触だった。また一緒にやろうと誘われ、僕は彼のバンドHITOMAZzの一員に加わることになった。



 写真は野洲市のライブ喫茶「森のくまさん」のナターシャ・ナイトに参加したときのもの。僕がバンジョーでZENさんがマンドリン、ギターは以前のメンバーとは異なるが、僕ら二人は40年前と同じことをやっている。ここ数年間いろんな会場で演奏してきたが、他のレパートリーでは、チューリップ、吉田拓郎、かぐや姫、ジローズ、沢田研二、堺正章など、結局は昔と何も変わっていない。ただ腹が出たり、髪が薄くなったりしただけだ。(笑)
 集まって練習する時間はあまりないが、ステージで互いに顔を見合わせると、次にやろうとしていることがだいたい伝わってくる。彼のギターに音を重ねるのはホントに気持ちが良い。やっぱり古くからの友は良いものだ。

 何でも器用にこなすZENさんはあちこち引っ張りダコで、最近では京都の有名アマチュアバンド、〇〇堂のサポートメンバーにも加わっている。一方こちらは別ユニット「おとぎ猫」で地元活動。月に一度集まれるかどうかの頻度だが、僕にとってHITOMAZzはとても楽しいホームチーム。互いの個別活動を尊重し合いながら、今後も良い付き合いを続けていきたいと考えている。

コーヒー

2017-02-06 22:44:55 | エッセイ


 幼い頃、まだ独身だった叔父が同居していて、よく近くの喫茶店へ連れて行ってもらった。僕はジュースやミルクなんかを飲んでいたのだと思うけど、そのことはよく覚えてなくて、店内に立ち込めるコーヒーの香りだけが強く印象に残っている。
 そうした幼児体験も影響しているのか、僕は喫茶店へ行くのが好きだ。コーヒーの通というほどではないので、味そのものよりも店の雰囲気を楽しむ。高校生の頃は授業をさぼって友人たちと「ほんやら洞」や「しあんくれーる」へよく行ったし、大学生の頃はジャズ喫茶の「エオンタ」などでひとりの時間を過ごした。松本は小さな町だが、変わった喫茶店がたくさんあった。「山猫軒」「エイハブ船長」「翁堂」「アミ」など、店の名前を思い出すだけで何だかわくわくしてくる。喫茶店は僕にとって思索の空間であり、友人との語らいの場であり、読書室であり、音楽鑑賞室であり、創作の場でもあった。

 ところが、二十代の半ば頃から、どうしたことかコーヒーが飲めなくなってしまった。胃がむかむかして気持ち悪くなり、ときには軽い立ち眩みのような感じになる。これはたぶんアレルギー症状だということで、長い間(10年間くらい)コーヒーから遠ざかっていた。ある日、叔父に話したら、自分もまったく同じ状態になったことがあるが、いつの間にか治ってしまったと言う。その言葉に勇気づけられ、試しに飲んでみたら、例の症状はまったく感じなかった。久しぶりに飲むコーヒーはたまらなく旨かった。それ以来コーヒーを飲み続けているが、今のところ体に異変を感じることはない。いったいあの症状は何だったのだろう? 叔父と同じということは、遺伝的な体質のせいなのだろうか? 父はコーヒーを飲まなかったので、そこのところはよく分からないのだが。

 今もおいしいコーヒーを飲みたいときは喫茶店へ立ち寄る。ひとりの時はたいていカウンター席だ。煎りたての豆をミルで挽いて、専門的な手つきでお湯が注がれる。淹れてもらっている間も、高い香りと魅惑的な音を存分に楽しむことができる。コーヒー1杯とタバコを数本、ほんの20~30分の間だが、僕にとってはささやかな贅沢。昔のように、ここで本を読んだり文章を書いたりはしない。音楽なんてなくてもいい。純粋な気持ちでコーヒータイムを楽しみたいと思っている。

 自分で淹れるのは、もっぱらインスタントばかり。職場と家を合わせると、一日に5~6杯は飲む。いわゆるカフェイン中毒の部類だ。特に文章を書いているときはコーヒーをたくさん飲む。そこでふと気づいたのだが、アレルギー症状のためコーヒーを断っていた期間は、ほとんど小説などを書かなかった。三十代の半ば、創作を再開した時期は、コーヒーを再び飲むようになった時期とほぼ一致する。ひょっとすると、僕の創作力はカフェインの作用によって生み出されているのかもしれない。

 さて、今日もコーヒーの魔力を借りながら、こうして文章を書いている。濃いめに淹れたネスカフェ・ゴールドブレンドだ。これもまあまあ旨い。喫茶店へ行くことに比べると、コスパは抜群に良い。
 僕はいくらコーヒーを飲んでも、夜はちゃんと眠れる。ものすごく寝つきが良く、ベッドに入ってから眠りに落ちるまで大抵2~3分。眠れなくて困ったことなんてほとんどない。今日も一日は目覚めのコーヒーに始まり、就寝前のコーヒーで終わる。コーヒーは人生の友。アレルギーなどの症状が再発することのないように祈るばかりである。

タバコ

2017-02-03 23:47:27 | エッセイ


 僕の机の上はいつも散らかっているんだけど、それにしてもこの灰皿はあまりにもひどい。文章を書き始めると、ついついタバコの本数が増え、気が付けばこんな具合だ。部屋の中が煙たい。もちろん体にだって良いはずがない。お金もけっこう掛かっている。そんなことを考えながらも、またタバコを一服。

 初めてタバコを試したのは中学生のときだった。「いざ、吸ってみよう」と、ある日突然思い立ったのだ。
 家には父親のハイライトがいっぱい買い溜めされていたが、それに手を出すのはどうも気がひけた。どうせ悪いことをするにしても、盗みはいけない。自分の小遣いでもって入手するべきだ。そうした中途半端な正義感に駆られながら、近所の自動販売機で「チェリー」を一個買った。なぜチェリーなんてマイナーな銘柄を選んだのだろう。そこのところはよく覚えていない。
 中学生の頃は悪戯半分だったが、高校に入ってから常用するようになり、大学に入ってからは日常的に吸った。そういうわけで、僕のタバコ歴はけっこう長い。もう肺の中は真っ黒になっているに違いない。

 今の少年たちは、僕の時みたいに簡単にタバコを買うことができない。自動販売機は「タスポ」なんていうカードを使わないと作動しないし、当然ながらそのカードは成人でないと発行されない。僕はカードの発行申請をするのが面倒なので、いまだにタスポを持ってなくて、いつもコンビニなどで対面購入している。ところが、そのコンビニでもけっこう面倒なことがあるのだ。
 タバコをレジに通すと「私は20歳以上です。Yes No」という年齢認証の画面が出て、客にそのボタンを押させる。どうもこれが気に入らない。以前、あるコンビニで、ボタンを押せというので、「顔を見たら分かるでしょ」と言ってみた。すると店員は「すべてのお客様に押していただくことになっていますので」と言う。「押さなければ売らないのか」と聞くと、「はい。決まりですので」という。僕は「それなら買わない」と言って店を出た。
 ボタンにタッチするくらいたった一秒で済むのだが、客との人間関係よりも社内マニュアルを優先するという、店側のその態度が気に入らないのだ。一見して大人と分かる客ならば、融通を利かせばよい。大企業のマニュアル至上主義は、役所以上に杓子定規だ。店によっては客の顔を見て、店員がボタンを押してくれるところもある。僕はそういう店でタバコを買うようにしている。ひょっとしたら、これもその店のマニュアルで決められていることかもしれないけれど。

 職場や街中では喫煙できる場所が少なくなり、愛煙家には厳しい世の中になってきた。そろそろ止め時なんかなぁ、と思うこともあるが、やっぱり僕はタバコが好き。別に意地を張っている訳ではないが、何か大きな問題にぶつかるまでの間は吸い続けることだろう。
 外では吸える場所が少ないので、家の中でたくさん吸う。そういうわけで僕の部屋は今日もひどく煙たい。とりあえず、明日にはこの灰皿をもきれいにしよう。
 そんなことを考えながら、また一服。(-。-)y-.。o○

僕の部屋

2017-02-03 22:26:13 | エッセイ



 いつもこんなひどい状態だけど、何とか足の踏み場だけは残っている。2方向からの写真を総合して見ると、だいたい部屋の全容が想像できるだろうか。ギターにバンジョーにオーディオ製品にパソコン机。まさに男の趣味の部屋といった様相だ。写真には写ってないが、もう一方の壁にはガラス扉付きの大きな本棚が鎮座している。
 1枚目に写っているグレーのスピーカーも、2枚目の真空管アンプも、二十代の頃に自分で作った物。だいぶくたびれてきたけど、今でもこれを愛用している。背もたれの大きな椅子に座り、好きな音楽を聴きながらパソコンで小説やなんかを書く。少し飽きたらソファに移動してギターを弾いたり、本を読んだり。さらに飽きたらソファに横たわってそのまま眠ってしまう。ほんとに気ままな生活だ。

 僕の部屋には窓がひとつしかない。それも部屋の大きさからすれば最小のサイズ。ほんとは窓のまったくない地下室みたいな部屋にしたかったのだが、建築法の決まりでそれは無理だと言う。そこで仕方なしに最小限の大きさの窓を作ってもらった。分厚い二重ガラスで防音性は高い。そのうえ、たいていはシャッター式雨戸を降ろした状態だから、部屋の中は静かで、昼間でも真っ暗だ。
 部屋中にタバコとコーヒーの匂いが立ち込め、めったに掃除をしないから、いつも埃っぽい。まあ、誰が見ても不健康な部屋だと感じるだろう。さすがの僕も、時にはたまりかねて窓を全開にし、空気の入れ替えを試みることがある。夜に窓を開けると、正面遠くにラブホテルの明かりが見える。それがまた何とも幻想的な風景だ。(笑)

 そういうわけで、僕はこの部屋がけっこう気に入っている。学生の頃なんかは、部屋にベッドを置き、衣類や食器類なども収納しなければならなかったが、そういったものは別の部屋に置いているので、今のこの部屋にはまったく生活感がない。趣味だけのための7.5畳の空間。真っ暗な闇の中に手元だけの照明をつけ、真空管の灯りを見ながら、ジャズ喫茶のような雰囲気に浸ることもある。
 もっとスタジオみたいな感じにしたいなぁと画策しているが、これ以上よけいな物を置くスペースはない。現在空いている壁も、そのうちまたギターで埋まるだろう。縮尺1/2の鉄腕アトムの設計図という凄い物を持っているのだが、大きくて貼る場所がない。
 そこでふと思いついたのが天井。ここはまだ未開の更地だ。ポスターを貼ることもできるし、いろんな物を吊り下げることだってできる。
 こうして僕の部屋はまたひとつ乱雑さを増し、無秩序に開発された大阪環状線駅の周辺みたいな様相になっていく。何よりも大敵は地震。倒れてきて怪我するようなものはないが、大切な楽器類が傷つかないか心配だ。

僕のおばあちゃん

2017-02-01 23:20:40 | エッセイ


 僕のおばあちゃんはいかにも京女らしい古風な人で、昭和50年代になっても日本髪を結って和服を着ていたし、物の考え方もかなり封建的だった。男と女をまるで別の生き物のごとく区別して考える。また「家」とか「血筋」といったことをやたら重視した。おかげで僕は「この子は我が家の後継ぎやから大事にしとかんと」ということで、他の孫よりも特別に可愛がってもらった。
 妹は「そのうちよそへ行く子」ということで冷たいあしらい。僕ばかりが可愛がられ、妹は今もおばあちゃんのことが大嫌いだ。

 僕がインスタントラーメンを作っていると、「男はんが水屋(台所)へ入ったらあきまへん!」と怒られた。「ラーメンくらい自分で作りなさい」と言った母も一緒に怒られた。食事の作法にもうるさくて、まず最初におかずだけ食べる、ご飯は最後に漬物で食べるという、まるで宴会の席のような食べ方を教える。ご飯とおかずを一緒に食べたり、天ぷらにソースをかけたりする大阪人の母は「下品だ」と虐げられていた。その頃はよく分からなかったが、我が家の嫁姑関係はかなり難しいものだったのだろう。
 ちなみに、おばあちゃんの教育の成果あって、僕は今でもご飯は最後に食べる癖がついている。ご飯の上におかずを乗せて食べるなんてことはしない。ご飯だけ単独で食べるのでコメの味にはけっこううるさい。

 おばあちゃんは火鉢の上でいろんなものを焼いて食べるのが好きだった。干し芋とかスルメとか、いろんなものを焼くのだが、中でも酒粕をあぶって食べるのが大好きで、僕にもたくさん食べさせた。僕が風邪をひくと、アルコール成分がいっぱい残ったタマゴ酒を飲ませた。どうやら僕を酒飲みに育てたかったらしい。

 おばあちゃんは若いころ芸妓をしていて、まだお座敷もそれほど経験がないうちに遊び人の若旦那に見初められて結婚した。その後9人の子供を産んだが、僕の父がその長男である。三味線が得意で、宮川町で若い舞妓さんや芸妓さんに稽古を付けていた。浄瑠璃だか義太夫だかの演奏にも参加していた。年取ってからもお花見シーズンになると、いろんな団体に呼ばれて毎日のように疎水の桜の下で三味線を弾く。僕もよく連れられて行った。
 我が家には今も形見の三味線が3本ある。一応レッスンプロが使っていたものだから、たぶん良い物だと思うのだ。高く売れるんじゃないかと皮算用しつつ、おばあちゃんが化けて出てきたら嫌なので、なかなか手がつけられない。でも、三味線を売ったお金でギターを買うのなら、おばあちゃんも許してくれるんじゃないかと、ときどき甘い誘惑に駆られたりもしている。バンジョーなら三味線に似ているので、もっと良いかな。

 僕のおじいちゃんは江戸時代から続く扇子屋の道楽旦那だった。「店主があくせく働いているような店では信用されへんがな」と勝手な理屈を言っては祇園で遊びまくり、結局店を潰してしまった。おばあちゃん以外にも何人かの女性がいて、そこにもまた子供がいる。二号さんや三号さんが出産するとき、おばあちゃんはご祝儀(慰謝料?)を持って手伝いに行ってたらしい。今ではとても考えられない話だ。
 僕が生まれる前に亡くなっていたので、おじいちゃんとは会ったことないが、写真を見る限り、確かに遊び人らしい顔をしている。その反動か、僕の父やその弟である叔父さんたちは真面目な人ばかり。こういうのって隔世的に似るという話もあるが、どうなんでしょう? まあ、時代が違うので何とも言えないが、なんか、ちょっと憧れたりしてしまう。(笑)

 さて、この写真は僕のお宮参りの様子。我が家の跡継ぎ誕生に、おばあちゃんは大喜びだったらしい。「私が産んだのに、写真を撮る役しかさせてもらえなかった」と、母は今も怒っている。僕が着せられている衣装もおばあちゃんが用意したもの。男児の額に「大」の字を書くのは京都だけの風習だろうか。ちなみに、女児の場合は「小」と書く。
 自分で言うのもなんだが、なかなか賢そうな顔の赤ちゃんだ。(笑) 「末は博士か大臣か」とおばあちゃんは大いに期待を寄せていたらしい。現在僕がギター弾いて遊んでばかりいると知ったら、どんな顔をするだろう。
 「これは私の血筋どす」と自慢するかもしれないな。いや、おばあちゃんの血筋なら、もう少し上手く弾かなければね。ということで、三味線売ってギター買ってもいいですか? おばあちゃん。

思誠寮の思い出(6)

2017-02-01 23:00:41 | 思誠寮の思い出


 思誠寮には女子寮が併設されていた。男子寮ほどではないが、かなりのオンボロで、花の女子大生が暮らしているとはとても思えない殺風景な建物である。
 併設とは言っても少し離れた場所にあり、女子寮生たちは男子寮の食堂まで朝夕の食事をとりにやって来る。また寮祭などのイベントでは、女子寮生は3つのグループに分かれ、南・中・北のいずれかの男子寮生と一緒に活動をした。写真は寮祭での音楽会の風景。このときは女子寮生だけで合唱をしている。
 女子寮生が出入りすると、当然のごとく男子寮生は色めき立つ。特に新入生が入ってきたときには「誰それが可愛い」などといった話題で持ち切りだった。しかし、寮生同士のカップル成立といった事例は意外と少ない。僕は後輩の女子寮生と親しい関係になり、結婚までしてしまったが、こういうのはどちらかと言えば稀なケースだと思う。


 僕が3年生の時のことだ。当時新入生だった彼女は大学から「ほかほか弁当」のアルバイトに直行し、それが終わってから僕の部屋へよく遊びにやってきた。僕は同室者のT君といっしょに、彼女が持って来る残り物の弁当を楽しみに待った。特に夏季休暇中などは寮の食堂が休業となるので、自炊か外食をするしかない。タダでありつける弁当は天からの恵み物みたいに有難かった。
 僕と彼女とT君は、小さなテーブルの上に幾種類かの弁当を広げ、ままごとみたいな感じで、つつましい夕食の時を過ごした。弁当が余ったときには、近くの部屋から友人を招いてお裾分けをした。やがて僕の部屋にはハイエナのような連中が群がるようになり、僕といっしょに彼女の来訪を今か今かと待った。その光栄はまさに、給餌を待つ豚小屋みたいなものだった。

 中には「今日は遅いじゃないか。おまえ、迎えに行って来いよ」と僕に命令する者や、「なんだ、海苔弁か。から揚げとかトンカツはないのかぁ」と贅沢をいう者もいた。まったく自分の立場をわきまえていない。この部屋の主である僕でさえ「弁当屋のバイトのヒモ」という苦しい境遇なのだ。そのまたヒモの分際で偉そうなことを言うとは、誠にけしからん。(笑)
 念のために付け加えるが、僕は残り物の弁当欲しさに彼女と仲良くなったわけではない。その証拠に、彼女が弁当屋のバイトを辞めてしまったあとも、僕と彼女との関係はずっと続いていた。例のハイエナ連中は、ただ弁当だけの繋がりだから、もう僕の部屋へ顔を出すことはなかった。

 同室者のT君はたいへんよくできた人で、彼女が部屋へやってくると三人での会話を適当に楽しみ、頃合いを見計らってはどこか別の部屋へ出向いて、僕たちに二人の時間を与えてくれた。現在彼は某国立大学の教授。何年か前、大津で学会があったときに我が家へ立ち寄ってくれた。三人で食事をしていると、当時のことを思い出し、ほんとに懐かしい気持ちになった。
 思誠寮というアナクロニズムの権化みたいな硬派集団の中にして、僕はひとりの女子寮生と出会ってから、極めて個人的な生活を送るようになった。それでも仲間外れに扱われることなく、楽しい寮生活をシェアさせていただき、今なお親しく付き合ってくれる寮生の仲間たちに深く感謝している。
 今回は女子寮のことを書こうと思ったのだが、女子寮生の生活実態がよく分からず、結局は個人的な話になってしまった。あしからず。
(続く)