勘太郎爺奮闘記

滞在合計26ケ国、21年の海外生活が終りました
振り返りながら 日々の生活も綴ります

2001年~2007年オランダの旅 その1

2018-03-10 | 風景・地形2

2001年、台湾からの帰国後、長年付き合ってきていたオランダの会社との仕事が頻繁になった。

そのおかげで、オランダには、度々、訪ねることとなった。

 

最終的には、2007年後半には、定年で日本の会社を退職し、オランダの会社に再就職することにすることになった。

当初は、日本子会社・南京子会社勤務でしたが、2010年から約1年、Maastrichtに常駐することとなった。

まずは、常駐前に、訪れたオランダの街の風景、生活・食事などを綴りましょう。

 

オランダは17世紀から長崎・出島を通じて、日本とも歴史的につながりが深い。しかしながら、知らないことが沢山ありますね。

 

オランダといえば、運河、風車、チューリップが思い出されるが、オランダと言う国は、日本の歴史の中で長い間非常に独特な役割を果たしてきた。

 

 

チューリップと風車(1983撮影)

 

その関係は1600年のリーフデ号が臼杵市に漂着した事に始まる。(日蘭国交400年の開始)

 

ヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン(Jan Joosten van Loodensteijn, 八重洲さん=オランダ人)、ウイリアム・アダムス(三浦按針=イギルス人)など24人が乗っていた。この漂着後、9年を経て、オランダ船が平戸に入港して日蘭貿易が始まる。

 

日蘭関係は大きく次の五時代に分けることができる。

1.1609-1941      東インド会社が平戸の商館で活躍    

   朱印状に基づく貿易

2.1641-1853      出島時代                                           

   シーボルト(1823年来日)などによる蘭学の発展

     青木昆陽緒方洪庵適塾)などの活躍

 出島(復原された模型)

 

 

3.1853-1940      明治維新から第二次世界大戦前    

   ペリーの黒船来航。オランダの日本近代化への支援

4.1940-1945      第二次世界大戦中から終戦 

  1942年日本軍はオランダ植民地のインドネシヤへ侵入

5.1945-              戦後から現在  

敗戦と共に、日本軍のインドネシヤ占領が終わり、インドネシヤは独立。

この間、過去に培った日蘭関係は忘れ去られ、対戦の傷跡は今でも2国間に影を落としています。

 

2000年に日蘭交流400年記念の催しが行なわれました。 また、その後もいろいろ催しが行われました。

 

 

 

Maastrichtに居て知ったことですが、北部から来た人たちは、南部のLimburgの方言がわからないと文句を言ってました。北部から来た人の中で、定年で辞めた後、北部へ帰っていく人が多かったですね。

彼らに言わせると、南部と北部では人種が違う、南部は背が高い人が多く、南部では背が低い人が多いと。→オランダの歴史を学ぶことが必要ですね

 

 

 

オランダは北緯51-53度に位置し、樺太付近に相当する。面積は約4万平方キロメートルで、その大きさは九州、台湾よりやや大きい。

ライン、マース、シエルデの三つの川がつくる三角州にあり、国土面積の約4分の1が13世紀以降の干拓でつくられたもので、そのほとんどが海面より低い。その最大の干拓事業はザイデル海を大堤防で仕切り、淡水湖にしてしまうものだった。現在、湖はアイセル湖と呼ばれている。

「世界は神によって創造された」と言われるが、オランダでは「オランダはオランダ人が造った」と言われる所以である。

アイセル湖の大堤防(1983撮影)

 

参考:アムステルダム中央駅、アイセル湖の大堤防の衛星写真がGOOGLE MAPSで見れます

 

アムステルダム中央駅:Pointer 52°22'44.52",4°54'5.86"

 

アイセル湖の大堤防・ブレーザンドデイク

 

 

 

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