勘太郎爺奮闘記

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1993年~2014年 中国の旅 三星堆遺跡

2018-08-02 | 歴史・文化

三星堆遺跡


1993年から1995年にかけ、中国・成都市に滞在した折、当時はまだ、成都市内の人民南路沿いにあった四川省博物館を訪れ、展示品の中で、異様に飛び出た目(縦目)を持つ巨大な青銅の獣面に出会った時の強烈な印象を今も覚えている。

 

これら神秘的な、独特の器物からなる三星堆遺跡出土品から漢民族のものとは異なる独自の高度文明が四川にあったことを学んだ。それ以来、この謎に包まれた出土品 、その後の発掘、研究成果が気になっている。
 
三星堆博物館はこれら三星堆遺跡出土品を展示するために1997年に完成し、オープンした。展示場の面積は約4,000平方mあります。 (2004年5月に新館がオープンし7,000平方mに増えた)

 

三星堆遺跡は、成都から北へ約40km、広漢市の郊外にある成都平原の西北部、沱江の支流のひとつである鴨子河の南岸に位置する。

 

三星堆遺跡の発見は、1929年に三星堆遺跡内の月亮湾で偶然にも大量の玉石器が発見されたことに端を発する。その後も一帯から玉器や青銅器などの出土が相次ぎ、この地に古代「蜀」に関連する何らかの重要な遺跡が存在する可能性が指摘されていた。

1986年に、三つの広大な黄土堆があり、地元の人々から「三星堆」と呼ばれていたこの地点で、四川省文化財管理委員会が関係部門と共同して大規模な発掘を行った。 二つの土坑を相次ぎ発見し、これら土坑からはこれまでに出土例を見ない神秘的な、独特の器物が大量に出土し、それまで断片的にしか知りえなかった三星堆文化の様相が大きな驚きとともに明らかとなり、一躍学界の注目を集めることとなった。
 
    

 
写真上左から:二号坑から出土した玉璋(長さ54cm)、金面人頭像(高さ48cm)、金面人頭像(高さ42cm)、人頭像(高さ41cm)
 

 

 

 
写真上左から:二号坑から出土した人面具(幅60cm)、縦目獣面具(高さ82cm)、いずれも殷(商)時代(紀元前17-11世紀)の物と推定されている。
 
最初に発見された一号坑は、奥行き約450cm、横約340cm、深さ約150cmほどの長方形の土坑で、坑内からは様々な表情、髪型をした青銅人頭像、黄金の仮面、 長さ143cmの黄金の杖など(青銅器、金器、玉器(琥珀製品含)、石器、土器など合わせて420点、その他、骨器の残片、象牙、子安貝 )が出土した。

黄金の杖

 

一号坑の東南わずか30mほどのところで発見された二号坑は、奥行き約530cm、横約230cm、深さ約150cmほどの長方形の土坑で、坑内からは、高さ262cmもの青銅立人像(下記写真)、幅138cmの巨大な縦目獣面具、高さが384cmにも達する青銅神樹など(青銅器、金器、玉器、トルコ石、石器など合わせて1300点、その他、象牙製品、虎牙、大量の子安貝 )が出土した。

 

写真上左から:二号坑から出土した青銅立人像(高さ262cm)、 三牛六鳥尊(酒器)(高さ56cm) 

 

(参考:こちらのサイトに、発掘された数多くの品々の写真と詳しい解説がなされている。)

   

土坑から出土した器物のほとんどが一度火にかけられて人為的に破壊されている点や、あたかも無造作に土坑内に投げ込まれたかのような特異な出土状況を示す点などから、これら二つの土坑の性格をめぐっては、三星堆の人々による何らかの祭祀活動に関わる「祭祀坑」ではないかとする説と、三星堆文化の次に成都平原一帯に展開する十二橋文化の人々が三星堆の「遺産」を破壊し、それらを埋めた「土坑」ではないかとする説があり、確定していない。  

 

三星堆遺跡の周囲には、現在でも、東城壁、西城壁、南城壁が現存している。かって南北約2km、東西約2.1kmもの巨大な城壁が存在していたことも報告されている。城内の総面積は2.6平方kmにも達し、その規模は同時代の中原にあった殷(商)の都である鄭州南城にも匹敵するほどである。

このことは、当時この「蜀」の地に中原王朝の都に匹敵するほどの巨大な「都市」が存在していたことを意味する。    

 

城内には、住居跡、墓、土器製作窯、玉石器加工跡、灰坑、土坑などの遺構が、遺跡北部の「月亮湾」や、南部の「三星堆」を中心として見つかっており、この付近一帯が三星堆遺跡のなかで重要な地域であった可能性が高い。また、城壁内部だけでなく、その周囲12平方kmもの範囲にわたって文化層が確認されており、城壁の外側にも何らかの遺構が存在していたと推定されている。  

三星堆遺跡は主に夏時代と殷(商)時代という長い期間に渡って人々に利用された遺跡と、出土した遺物等から分析されており、当時の三星堆遺跡は、巨大な城壁で囲まれた地区を中心としながら、その周囲にも関連する人々が沢山寄り合っていた、古代「蜀」における一大「都市」であったと言えるだろう。夏・殷(商)の時期に、長江流域にも高度な青銅器文明が栄えていたことになり、とりもなおさず、それは中国史の常識をくつがえすことになる。

 

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