【表現すること、表現できること】
男子マラソン銀のエチオピア選手、命を懸けた抗議のポーズでゴールイン リオ五輪
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160822-00000026-jij_afp-spo
1968年メキシコオリンピックの時、アメリカの黒人選手数人が表彰台で人種差別に抗議したポーズを取ったことがあった。当時、中学生であった私は、単純に喝采を送った。しかし、それを目にした人々は彼らに同情的ではあったが、スポーツに政治を持ち込むことの是非については賛否両論の意見が交わされていた。
彼らはその後、メダル獲得の栄光にも関わらず、こうした抗議活動が仇となって社会的には恵まれない人生を送ったらしい。そして、承知の通り、それから半世紀が過ぎても、残念ながら相変わらずアメリカの人種差別はより複雑に深刻化しているようにも思える。
マラソンランナーのしんがりに位置する私も、今回のエチオピアの彼のゴールシーンをライブ放送で観た。ただ、これは残念ながら大きくは報道されてはいない。おそらくささやかなエピソードとしてごく一部の人に語り継がれていくものになっていくもだろう。しかし、かつてエチオピアは私に本物のコーヒーの旨さを教えてくれたことを忘れないのと同様に、彼の一生を掛けた命がけの「表現」を、私は少なくとも2020年までは覚えていようと思う。
その時、私たちは何を表現し、表現できる個人であり、日本社会であるだろうか。4年後だ。責任逃れはできない。
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