交野・憲法とくらしを考える会

人は誰もがしあわせになる権利があります。日本国憲法にのっとり、暮らしの中からしあわせを追求していきたいと思います。

君島館長の「平和に生存する権利を持つ地元住民」に心動かされました。

2024-12-16 15:31:29 | 栗原俊子(交野市前市会議員)より

本日の東京新聞1面トップ記事「ミサイル弾薬庫 日常生活の隣に」

デジタル版「保育所から数百m内にミサイル弾薬庫「町が攻撃目標にされかねない」 安保関連3文書に基づき全国130棟計画」 https://www.tokyo-np.co.jp/article/373798

上記記事に掲載されていた君島東彦(立命館大国際平和ミュージアム館長)のお話に寄せて、栗原俊子さんから投稿いただきました。

◆「増設は戦争のリスクを高める」

 君島東彦(あきひこ)・立命館大国際平和ミュージアム館長の話 政府は弾薬庫の能力を全て秘密にしたいのだろうが、平和に生存する権利を持つ地元住民への情報公開は当然の義務だ。有事の避難計画や被害補償の検討もなく、住民の命を軽視している。3文書の改定で、日本が他国に届くミサイルを増強していることは世界に知られた。周辺国を信頼していないという強力なメッセージとなり、相手との安定的な関係の構築を阻んでいる。増設は攻撃を防ぐどころか、戦争のリスクを高める

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 君島館長の「平和に生存する権利を持つ地元住民」に心動かされました。

 憲法前文に掲げられた人の権利ですね。ずっと心にかかりながらも、憲法の3本柱の条文の後になりがちだったところ、最近「あたらしい憲法のはなし」を習ってないかとと友人に聞かれて、以前交野で学んだことを思い出したのです。

「あたらしい憲法のはなし」は1947年8月文部省が発行した中学1年用の社会科教科書で1952年3月まで使われた、やさしく格調高く解かれた憲法の解説書です。4月中学入学の私は習えなかった、のですが、幸いにも、2006年12月北河内人権啓発推進協議会で、復刻版が出され、学習することが出来ました。

特によかったのが、「国際平和主義」が「主権在民」と同列で解説されていたこと前文「前略、、、我らは全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生存する権利を有することを確認する」が幸福追求権と等しく、私の中に定着したのです。

この精神が9条の戦争放棄へと繋がっていくとやさしく強く解かれれています。

加えて、私は、平和は空気、水のような人間生存の必須のものであり、水道・道路のようなインフラ(インフラストラクチュア)だと、思っています。

どんな施設も新設増設時には地元に説明する。祝園ミサイル弾薬庫のことを、国はなぜ
地域住民に説明しないのか!私達は先ず知る権利があり、国は情報公開の義務がある!のに。

(参考)

日本国憲法 前文 

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との 協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起る ことのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
 そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、 その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれ を行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類 普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくもの である。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔 勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配 する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷 従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている 国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他 国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、 普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な 理想と目的を達成することを誓ふ。

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失職・出直し選に臨んだ前知事斎藤氏再選について

2024-11-20 20:02:54 | 栗原俊子(交野市前市会議員)より

11/17の兵庫県知事選 失職・出直し選に臨んだ前知事斎藤氏再選について 11/20 栗原

前兵庫県知事のパワハラなどを告発する県職員の内部告発文を、嘘八百と決めつけ一方的に懲戒処分にしたことに端を発し、県議会議員86名全員の不信任決議可決により、失職した斎藤元彦氏が、出直し選挙に出て再任された。

最初一人で選挙運動する前知事に対して、多くの人が訝しく思っていた模様だが、立花氏が立候補して、斎藤氏を援護射撃するような言動で、様相が変わっていく。選挙ポスターには「内部告発文の中身は告発者自身の不倫の記録簿みたいで、パワハラなどはなかった。立花には投票しないでください」という文言。

そして、SNSで巧みに視聴者を街頭演説の場に集め、「実は、斎藤さんは悪くはなかった

悪いのは告発者で、公用のパソコンに残されたものは自分の不倫行動を記したものだった、守秘義務がある前知事は他言できないから、立花が代わり、真実を公にする」と喋りまくり、同時に演説の場の光景を動画で配信。動画はたちまち拡散され、視聴者数も街頭参集者も膨れ上がり、日に日に前知事の周りに人気を集め、前にマスコミで報知されたていたパワハラ疑惑などが消されていく。「実は斎藤さんは改革者、それに対する、既得権益者の県議や反対勢力の陰謀にはめられた、正義の人、今まで誤解していてごめんなさい」と大音響で喧伝していく。

稲村候補へのとんでもないデマ、悪意に満ちた偽情報が広がり、彼女の有力な応援者への個人攻撃も広がった。これらは選挙期間という限られた時間内で訂正も防ぎようもない。世間一般でも、嘘も100回言えば真実だと思われることがよくあるみたいだ。

今の公職選挙法にはネットを規制する法律がないと知る。新聞もテレビも見なくて、外界の出来事は全てネット由来という人が多いらしい。孤独に見聞きする人も偶には表に出て群がりたい時もあろう「実は、〇〇さんが正しかった」「実は〇〇事件はなかった」の話は面白いらしい!かくして人は群がり群衆となり、投票へと導かれていったのだった。

選挙は政、祭りごとの一面がある。30数年前、大阪府交野市で少し選挙運動に関わった私は、祭りの神輿に乗った候補者を担ぐものが次第に高揚していく様を実感したことが有る

お互いに顔の見える地域社会の中で、候補者、担ぐ人、声援の人、傍観する人、反対する人色々だったが、選挙後、分断されるようなことはない穏やかな時代、社会だった。

今回、担ぐもの・ネットで集まった聴衆は高揚から、熱狂する大集団へ変貌。団扇を扇ぎ、先導したのはまさしく扇動者・立花氏。彼は斎藤陣営の支援者ではなく、候補者の一人だった。支援者では言えなかったことを、候補者演説で、斎藤援護をするという本来ありそうにない「奇業」で人を集め、票を集めた。アメリカ大統領選をもしのぐ戦略だったか、私達はこの事態にどう向き合うべきか、重い課題が突き付けられている。

画像は西日本新聞社より

 

 

 

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長きにわたる草の根的被団協の活動に乾杯!

2024-10-13 16:12:49 | 栗原俊子(交野市前市会議員)より

日本原水爆被害者団体協議会のノーベル平和賞受賞に寄せて

栗原俊子

 

サプライズだったそうです、日本原水爆被害者団体協議会のノーベル平和賞受賞。
いえ、本当に、「さー、プライズ・prize・賞」です。

約70年にわたり、被爆者として、心身の苦難を抱えながらも、核廃絶を全世界に訴えてきたことが、多くの人々に届き、認めらて、ノーベル平和賞受賞に繋がったと日本人の一人として、心からお祝いと喜びを共にし、感謝したいと思います。活動を担っている数人の旧友の顔を思い出し早速祝意を送ります。

止まぬ戦禍のガザ、ウクライナの惨状の中に、ノーベル委員会が平和賞に選んだのは日本被団協でした。核兵器がいかに非人道的か、全てを破壊する兵器かを訴える声は直接世界の人々の一人一人の心に届いた、立場、政治、国、を超えて。草の根的に世界に届いたと、私は今実感しています。

恐縮ですが、長きにわたる、草の根的被団協の活動に乾杯!

1956年8月、長崎で第2回原水爆禁止世界大会が開催され、主会場は県立長崎東高校体育館でした。当時東高2年生で、新聞部の私は高揚感に包まれ、取材と称して、あたりを見回していたのでした。その大会で、日本被団協の結成が宣言されたのです。遠い日の懐かしい思い出。

付記 私は長崎市出身ですが、1944年春ごろ、家が強制建物疎開にあい、母の故郷、佐賀県小城市に疎開して、被爆していません。市内に残った父と兄2人姉が被爆して兄の一人と姉は被爆後遺症で長く苦しみましたが、みなあちらの世界です。

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小林製薬「紅麹サプリメント」健康被害と「紅麹」添加の食品を考えて

2024-09-23 08:07:00 | 栗原俊子(交野市前市会議員)より

小林製薬「紅麹サプリメント」健康被害と「紅麹」添加の食品を考えて  2024・7・30 

                                      栗原俊子

3月下旬、小林製薬の機能性表示食品・紅麹サプリメント摂取による健康被害が明らかにされ、死者5人を含め多くの腎疾患者の発生が公表された(7月18日現在死者96人)。小林製薬は2か月間も被害をと成分名を隠蔽して被害を拡大したとして、会社の責任を問いたい。また、機能性表示食品制度は、安倍政権の経済成長戦略の一環として開始されたもので、当初から企業の利益拡大が目的で、消費者保護の視点が不十分なものだった、見直しが必要だということを強く感じた。同時に食品としての紅麹について考えさせられたことを私の経験から少し述べてみたい。

小林製薬が「紅麹サプリ」の回収を始めたのは当然だが、同時に紅麹を冠した食品の回収が広まったことに不安を覚えたのだった。週刊誌・週刊金曜日1468号によると「紅麹」関連のリコール対象製品は、4月6日時点で102社が160品目の食品を回収している。私はこの中には含まれないが「紅麹」配合の食塩を使用し、10名ほどの方にも勧めていたので、末端の“当事者”になって、しまった、のでした。

50年ほどまえ、「使い捨て時代を考える会」という有機野菜の生協グループに出逢い、それから無農薬、添加物についてなど、食の安全の問題を生活者として取り組んできた。手作り味噌を学び、それ以来毎年仕込む。この12年間は自宅で味噌、梅干作りの会を開催して、今年も4回開催したところだった。

味噌の原材料は福岡の老舗醬油の国産大豆、米麹、国産塩のセットものを使うが、数年前から、味噌つくりのインストラクターが促進するW社の紅麹配合の「紅麹塩」を希望者のみ使うことに。私自身、「紅麹塩」の発酵力を白菜漬けで確かめて、使っていた。

「紅麹サプリ問題」発生と共に、当然ながら「紅麹塩」に不信と混乱が小さなグーループ内で生じる。インストラクターを通して、W社から販売中止、自主回収に関する見解と方針“自主回収の方向で調整中として、弊社の「紅麹塩」は健康被害が出ている紅麹原料とは異なり、有害物質は検出されてないが、今の社会的状況と安全性を考慮して、「紅麹塩」およびその使用の味噌など発酵食品の使用は控えてください”の通知がきた。

3月26日朝日新聞で食品リスクに詳しい唐木英明東大名誉教授が「原因物資はまだ明らかではないが、一般食品に微量に使われる場合は、健康に及ぼす作用の大きさは摂取量に対応する原則からしても健康影響は起きないだろと推測される」のコメントを読み、「紅麹塩」紅麹量の配分量を知りたくなった。W社への電話は通じない、「紅麹塩」の関連する製造会社へ手紙で問い合わせをしたら、答ではないが、ある種の示唆をいただく。「紅麹塩」100グラムの栄養成分表示から紅麹配合量を2グラムと推量してみた。味噌5キロの塩分はおよそ10パーセントで500グラム、紅麹は10グラム。1椀の味噌汁の味噌量を5グラムとして、含まれる紅麴は0,01グラム。これは微量言えるか。ちなみに私は毎年健康診断を受診。腎臓、肝臓は問題なしです。

6月7日、インストラクターを通してW社から“厚労省発表の紅麹問題原因究明の途中経過ではプベルル酸及び未知の2種類の化合物の毒性が確認されたが「紅麹塩」はそれらを含まない原料使用なので、健康被害の関連は見られないことから自主回収はしない”との見解が伝えられた。又「紅麹塩」は今後製造中止とのこと。

改めて紅麹について少し知る。6月12,13,14日の朝日新聞によると“麹は日本酒、味噌、醤油つくりに使われる菌でカビ毒は作らない。紅麹を作る紅麹菌は麹菌とは「別の生物」で決して麹菌の一種ではない、発酵の力は弱く、生育が遅いため、紅麹自体で味噌醤油を作らなかった、あくまでも添加するもの。今回の「小林製薬サプリ問題」は不適切な製造工程にある可能性が高まっている、特定の会社の特定のロットで問題が生じているということであれば、紅麹そのものの問題とは言い難い。中国、台湾の紅酒、老酒は長い食体験で経験的に安全ということが出来る。漢字や文字の見た目が醸す文字感というのがあり、紅麹の文字感が体に良い印象を生み出すことが有ったのかもしれない”などなど。私も紅麹の文字感に惑わされたかと省みる。企業は少しの付加価値でより利益を上げたのか

回収された食品はどこへ行ったのか、廃棄場か。返還金は?保障制度があるらしいが、あの時急いで回収した企業、販売者は何を感じて何を恐れたのか、検証して知らせて欲しい。

近年とみに、食の供給、その大原則たる、安全・安心の情報が企業、販売側の情報寄りになりなっている。命の糧の食べものは自然の土、水ゆらいによると思うが、より効率を求めて人工・工業的に合成製造され、物質化されていく今日、人として私達は体と心が馴染むたべものを求め、その中身と製造ゆらいを情報として知る権利を取り戻したいと思う。

 

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栗原玉葉(1883~1922) 大正ロマン日本画壇の画家

2024-06-09 15:41:35 | 栗原俊子(交野市前市会議員)より

栗原玉葉(1883~1922) 大正ロマン日本画壇の画家

 亡夫栗原至道・大叔母の絵葉書をお送りするにあたり

                     2024・5・20 栗原俊子

栗原玉葉(本名文子)は長崎県南高来群山田村馬場・現雲仙市香妻町で、酒造業の栗原宰長女として生まれた。上に4人の兄がいて、可愛がられて育つも、小学校の頃父が逝き、後年家が近くからの火事で類焼するなど楽ではないなか、女学校は長崎の梅香崎女学校に入る。そのころ、幼いころから好んで描いた絵が広く認められるようになって、東京女子美術学校・現女子美術大学に入学する。学資は、かっての恩師の支援もあったが、玉葉は生活を切り詰め、夜間学校で教壇に立ち稼ぐ苦学生であった。しかし成績は常に優秀、その才能と人格が先輩や先生に親しまれた。

1910年同校を卒業するや、母を東京に招く。寺崎廣業の門に入り、母校女子美で教鞭をとる。また、梅香崎女学校時代キリスト教の洗礼を受けていて、東京本郷教会では海老名弾正牧師の薫陶を受け、4年間日曜学校の教師となり、幼児教育に携わった。この経験が後に子供の絵に独特の味合いを持たせることになる。歌人の才、達筆な書も残されている。

最初の公募展、文展に入選を果たしたのは,1913年。入選を次々と重ね、1919年には帝展入選。そのころは師の影響も薄れ、大和絵風に変わり円熟味を増すようになる。当時の婦人雑誌の表紙に玉葉の絵が多く用いられたという。玉葉の門下生は100名ほどの大所帯になった「銀葉会」が住まいの東京文京区の白山に集った。しかし、病魔に魅入られ、39歳で病没、才能は薄命とみちずれであったのだろうか。

この稿を纏める資料にしたのは「長崎の女たち 第1集 栗原玉葉」長崎文芸社であるが、その書き出しに、「大正ロマン日本画壇の花形美人画家」の見出しで、「大正時代の女流美人画家として上村松園とともに日本画壇の第 1人者として活躍した薄命の女性、栗原玉葉」と記されている。

なお近年、長崎では、1994年と2018年栗原玉葉特別展が開催されている。

付記

第 165 回直木賞受賞作 津田瞳子「星落ちて、なお」に栗原玉葉が登場していると最近、友人の山下典子さんがお教えくださる。父である不世出の絵師・河鍋暁斎から厳しく仕込まれ一生を絵師として生きた河鍋とよの物語にである。偉大過ぎる父とその才を受けた腹違いの兄への敬意と度視、憧憬と否定などの相反する激しい感情の苛まれつつ絵の道を求めた,とよ。その前を通りすがった「美人画」を描く栗原玉葉が、とよに言った「河鍋派は古い」の評にいたく傷つき、ほどなく早世した玉葉を憐れみ下げて去らした。

とよの物語を脇で盛り上げた玉葉の存在が面白い。お読みくだされば、幸いです。

栗原玉葉(春秋美人図屏風)大正期長崎美術館

 

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