まずはトップ写真をご覧いただこう。左側に処方せん受付とあり、薬局であることがわかる。
そして、右側はこの写真ではよくわからないので、次の写真を・・・バイクの奥にあるのは食べ物屋さんだ。
で、この建物の間にある看板は・・・こちら・・・「同時プリント4」とある。この古ぼけた看板見て、ハッと思った。
おそらく、平成世代には何? かも知れない。そう、写真の現像と同時にプリントするお店だ。
昭和も終わりにかけて、まだデジカメなんかが世に普及していない頃、旅行に出かけるときには、必ずカメラを持っていくのが当たり前だった。
また、レンズ付きフィルムの「写るんです」なんてのも流行った。いずれにしろ、写真は撮った後、お店でプリントしてもらうものだった。
上手く撮れているかは、その時にならないとわからない・・・またフィルムも1本で24枚くらいしか撮れなかった。
そして昭和末期にはこのフィルムを現像し、同時プリントするのに各店が競って値下げ競争していた。この看板のお店は一枚4円ということか・・・
だが、今街中でこの手のお店を探してもなかなか見つからない。カメラ屋さんは当然として、当時はコンビニや薬局などでもやっていたものだが・・・
ちなみに、冒頭の看板に合うお店はどこにもなかった。何らかの原因で、看板だけ残してお店はなくなってしまったようだ。当時のこうしたお店のイメージですら希少かも知れない。こちらの右写真はあくまでイメージだが・・・
今では、デジカメですら持って旅行に行く人は少ないと思われる。ましてやフィルムで写すカメラとなれば・・・だ。
我が家の箪笥などの奥底には、まだカメラやデジカメがあるはずだが・・・デジカメのデータを我が家でプリントすることはあっても、フィルムは今後使うシーンはないだろうなあ・・・
ますます昭和は遠くなりにけりか・・・
この写真看板の風景は、記憶では「やはり昭和時代?」と思われ、自分が高校生時代の街行く情景には必ず在ったと記憶しております(そういうばお師匠様は、以前にも某ゴムメーカーの極めて珍しい立て看板を記録されており、やはりこういった遺物?を視る眼=酔眼が確かなのだと感服いたしております)
この「同プリ4看板」の少し以前、「大村昆のオロナミンC 何処ぞの電話債券貸金屋 由美かおるのキンチョー蚊取り線香(水原弘版も在った) 琴姫七変化の大塚ボンカレー」等など、非常にインパクトの強い立て看板がございましたね?=記憶では由美かおるのバストサイズとキンチョー蚊取り線香の長さが合わねぇ なんてぇクレーム付けた暇人もおられましたが(爆笑!!!) 何故か我々の世代には懐かしい。
*「これだけdigitalが進歩発達しプロカメラマンもdigital化しているのに、なぜか消えない銀塩フィルムとは?」
聞けばこれは「警察検察、医療、司法行政解剖」等の法的根拠と責任を持つ写真についてはやはり「銀塩フィルム」はまだ生きております。つまり「digitalは信用できない」とも受け取れます。
ある意味これは正解でも在り辛い処ですが、実は「本当に優れた高価なフィルムカメラと最上級好感度銀塩フィルムを使った芸術写真とは、実はある意味digitalを凌駕する質量を持つ」事が解っており、更に驚くのは「映画の16mm-35mmフィルムの解像度は、現代の4Kでもやっと再現できる」と解っております。此処に如何にdigital一辺倒はある意味危険であると解りますし、何より「digitalはあまりに簡易簡単便利の為に、無限に失敗が許されクリエーターの緊張感ってぇのがあまりに感じられない」とも言えます。此処に「高価なフィルムを使い失敗の許されない枚数も限られた中、本当に撮りたい物だけを魂込めて撮る」と言えば、やはりフィルムカメラと言う事になりましょうか。
これは当然過去のフィルム映画等でも同様で、かつて某監督が「おいお前っ、フィルムが回るんだぞっこれってぇ凄い事なんだぞっ」と言ったとか、、、
我々はもう一度「あまりに簡易簡単なdigitalを一旦置いて、かつての立て看板=同プリ4の精神に立ち帰り、見つめ直す事」も必要かと思います。
お師匠様は如何お考えでしょうか? 今回も非常に興味深いテーマのご提供に感謝いたします。 敬具
階段の途中にいる状況で、デジタルだとうえから3段目といえますが、アナログは階段ではなく坂道で、だいたい上から1/3くらい・・・となります。つまり、デジタルはしっかり固定した定義されたものです。
写真については、アナログはまさしく写真ですが、デジタルは小さなドットの集合体で、写真に見える絵だと思えばいいのです。
と・・・こんなことを大石様のコメントから思い出しました。
*「かつて石原裕次郎が語った言葉」
当時のプレイボーイか?平凡パンチの読者相談欄の回答で石原裕次郎が名言を語っておりました。
「16mmフィルムキャメラとビデオカメラの相違は何より明るさなのだ。太陽にほえろがずっとフィルム撮りなのは企画上と演出上の決定であり、明る過ぎぬ映像が求められた」と。ご承知の通り「山口百うの赤いシリーズ、かつての昼メロ等は全てフィルム撮影」でした。確かにこの当時ビデオはまだ発展途上で「2インチから1インチに移行しdigital出現以前」の頃、なかなか芸術的表現には追い付かなかったのでしょう。更に
*「水戸黄門が、16mmフィルムからビデオに変わった時の強烈な印象」
誰もが皆「物凄く画面が明るくなった」と驚いたはずです。既にこの当時はビデオもデジタル化されHD出現前後とは言え相当に高度好感度になり、ぼちぼちフィルムが淘汰&忘れられて来た頃でした。
当然編集も「フィルムの手切りやスタインベック等から、ビデオ電子編集=アビッド等のPC上の編集」に移行し,正に今回「お師匠様の言われる上記の=ドット集合体による写真に見える絵を動かす」事に変わったのです。
*「当然コストも下がり,感やコツや名人芸に頼る事も無く何度も無限でリテイクが利く=しかし此処でスタッフ役者たちに緊張感が失われた」
当然フィルムなれば失敗したら無駄になりコストもかさむが、点の集合体であるdigitalは減りもせず無限にリテイクが可能」と役者もダレた。
*「しかし、誰も言わない知らないdigitalの致命的な大弱点!! とは?」
FILMならば「一部破損しても其処をカットし繋げれば再生できる」が「digitalは駄目になる時は全て破損する」これを知らぬ者があまりに多いですね。
*「此処で大切なのは、写真も動画も=片方を否定したり廃棄したりするのでは無く、全く別の表現手段なのだと認識し、使い分ける柔軟性」が強く求められます。かつて何処にでも在った写真屋や現像プリント屋も今は無く、何でも自炊だセルフだと自己完結の時代ですが「一度失われた技術は元には戻らぬ事」を認識し、それを認め使い分ける事こそ正義です。今回のお師匠様のテーマのご提供は誠に深く、ついつい独占してしまった事をお詫びし、少しでも良い方向に行きます事を期待し、お師匠様には心より感謝いたします!! 敬具