先日、マスク狂騒曲なんて記事を上げたばかりだが、ことマスク不足に関しては解消の見通しどころかますます厳しくなっているかのように感じている小生である。
そんな中、こんな記事が目に留まった。題して「朝から並べる暇人だけがマスクを安く買えるのはおかしい」というもの。
なかなか挑戦的な題名だが、内容についてはきわめて論理的なものだった。もちろん、それを是とするかどうかは別問題だが・・・
詳しい内容は、お読みいただくとして、経済学の基本のキからいえば、需要と価格は当然連動するわけで、需要が高まれば価格は高くなるというのは至極当然のことだ。
ところが、この一連の流れの中でいえばマスク需要の高まりを受けてネットサイトなどでのいわゆる転売屋が跋扈するに至り、政府は(これに関しては動きが素早く)過大な利益が生じる形での転売を禁止した。
誤解を避けずに言えば、この理屈でいえば、たとえばトヨタ2000GTのごとき超ヴィンテージ車であってもプレミヤを付けて売るのは法律違反ということになる。
では、どうしてマスクはダメなのか・・・と問われると、小生は論破できないことに気付く。マスクがないと生きていけない・・・とまでは言えないからだ。
事実、小生は普段マスクをつけていない。正しくはつけたくても我が家にないからだ。「お前は仕事してないのだから並べばいいだろ」と言われる向きもあろう。
だが、小生の実情からいえば、少なくとも朝には並んでいる時間などない。朝5時から9時過ぎまではルーティンが分単位でびっしりだ・・・日中に販売するのなら時間はあるが・・・逆にどういう人たちが並んでいるのだろうかと思う小生である。
記事にあるが、「(需要に見合った適正な水準まで)価格の引き上げを認めれば、このバカげた行列はすぐになくすことができる」と。
「買い占めは膨大な需要に対して供給が限られ、なおかつ定価販売することで発生する。これに対するもっとも効果的な対応は受給が均衡するまで価格を引き上げること」という論理は納得感のあるものと考える。
役所関連の知人によくお聞きする話で、「貧乏人は死ねっていうのか」とか「年寄りは死ねっていうのか」と住民からよく言われるという。
誤解を避けずにいえば、この「年寄りは」は正しくなく、頭に「お金のない」が付くわけで、一言でいえば「貧乏人は死ねっていうのか」ということになる。
だが、少なくとも日本が社会主義国でない以上、オフィシャルには言えないまでも、世の中の仕組みとして、そういう前提になっていることは認めざるをえないものと考える。
アベノマスクがいろんな意味で話題になっているが、この政策を絶大に支持している高須院長自身が、ドクター中松の発明したマスクを愛用しているというのはある種象徴的な姿である。
同じエンタメ界のお仲間である「落語とコメディアン」について、何故お師匠様からお話が無いのか? 大変不思議でしたので、今回「出入り禁止覚悟」で書かせて頂きますが、ご不快でしたら削除出禁甘んじて受ける所存です。
*「志村けんは絶対に死なせてはならなかった」
お師匠様やご訪問の皆様はどう思われるか解らないのですが、よく比較される「ビートタケシ等」に代表されるギャグとの決定的な相違は「人を傷つけ弱いものいじめし素人をいじくり単なる末梢神経のみをくすぐる、まぁ乞食ギャグ」と「徹底的に計算されつくし、人を傷つけず弱い者をいじらず、真の笑いを届け続けた志村けん」のギャグのレベルの相違は物凄い差があります。
此処は「古典落語などにも共通するものが在る」のではないでしょうか、、、少なくとも自分が知る限り古典落語の笑いの取り方はビートタケシ等の乞食ギャグなどとは全く違う、、、、また例の「毒マムシ三太夫の、爺婆をいじくる素人ネタ等も実はビートタケシの乞食ネタと同様」であり、まぁ世間は「マムシの毒舌は爺婆への愛情の裏返しとか表返し」などと解った様なことを抜かすが、あの程度のギャグネタで数十年食いつないだマムシってのもいけ図々しいなぁと。 この「志村けんのギャグ」は、元々ドリフのいかりや長介の「考えて考えて考え抜くアドリブ不要のギャグ」であり「ゲバゲバ90分」同様に計算されつくし「真のお笑いをクリエイトした見上げたギャグの真骨頂」でした。此処に「ビートタケシ等の、他人の話に強引に割り込み全然違う馬鹿っ話をギャグり、何故かひとつも全然一切面白く無いっ」のです。つまり「その場しのぎのアドリブネタ」であり、しかもタケシは非常に声が悪くかつぜつも最悪で、しかも早口で全然台詞も聞き取りにくい、、、、オーディオ的には声の通りが悪い最悪の音響製品なのです。
正直映画の監督だか屁だ糞だと手を出すのも「自分の馬鹿の照れ隠し」でしょう。正直ですね、、、志村けんにはもう死ぬほど笑わせて頂きましたが「ビートタケシの乞食ギャグには、初めっから此処まで一度として笑った事は無い」のです自分は、、、、何故世間はタケシごときの乞食ギャグにこれほど笑うのか、、、、自分がおかしいのか? 世間がおかしいのか? 正直日本のお笑い界は『志村けんと言うとてつも無い真のお笑いエンターテイナーを失って」しまった、、、、これは大変な損失です。ビートタケシが死ねば良かったのですよ。
日本のお笑い界は常に「スポンサーや局ばかりを見て何ら世間やコンシューマーを見ない」と。以前は「政治や時の為政者を徹底的にからかい皮肉った漫画=シアターあっぱれ」なんてぇのがありましたが続かなかった、、、実は海外特に欧米のコメディアンたちは堂々と政治を皮肉り為政者をいじりまくったいると言われますが、以前日本のお笑い界でもこの話が出た際に、どっかの大御所が「そんなネタ聞きたきゃあ都内のビルの地下にでも行け、、、三流芸人が幾らもそんなネタやってるわい」と。何この上から目線の偉そうな発言は、、、責任者出てこいや、、、こういう態度が日本のお笑いを硬直化させ面白くなくする諸悪の根源といえるでしょう。つまり「からかいやネタには、やり方とセンスの有無が勝負なのに、ビートタケシごときの乞食ギャグにはそのセンスの欠片も無い、、、驚く事にフランスには「ガストン」と言うパリコンセールバトワール=パリ音楽院出身のコメディアンがおられます。パリ音楽院と言えば、申し訳ないが日本の芸大程度の3流大学とは比べ物にならぬハイレベルな音楽院、、、、、其処を出たコメディアンガストンの音楽ギャグはまさに見事な芸でした。物凄かった、、、、、、おそらくは志村けんもこのガストンを知っていたはずで、意識しなかったはずも無い。本当に志村けんの死は残念無念であり日本の凋落そのものを現していますね。 此処はぜひお師匠様からの「厳しい叱咤」を含めて、ぜひぜひご意見を伺いたいのです。なお今回自分の言葉が過ぎた事、ご不快になられた事、心よりお詫びし(お師匠様やご訪問の皆様にはお詫びいたしますが、タケシごときには一切謝罪しません) 今回、出入り禁止削除覚悟で書かせて頂きました。申し訳ございませんでした。 最後になるかもしれませんが有難うございました。 敬具
いつもながらありがとうございます。出禁? とんでもございません。見事なご見識に、あっぱれを申し上げます。
志村けんについて取り上げなかったことにつきましては、大人の事情がありまして、どうしても死亡にまつわる部分にさわってしまうのが辛かったという事情でございます。
さて、志村けんの芸や人柄についての小生の認識は大石様の認識とほぼ同じと拝察します。生前の彼の芸は一部に「下品だ」との声があったのも事実でしょうが、ワールドワイドに言葉が通じなくてもウケるものとして世界的にも評価されていたことは知られているかと。実際に誰かを傷つけるようなものではなく、だれが見ても嫌な気分にならないものでした。大石様おっしゃるように、いかりや長介率いるドリフターズがアドリブを許さない完璧主義の芸を基本としていたこともよく知られていますが、さらにそこに志村けんの人柄が加わったものだったのかと。
かなり前になりますが、情報番組に出ていた彼がお酒についてコメントしていたことを覚えています。いわく「こいつ(酒)は自分がどんな気分のときでも、そのまんま受け止めてくれるんですよね。うれしいとき、悲しいとき・・・だから一生こいつとは付き合いたいんですよ」と。その時の彼のセリフの真摯なことも印象的でしたが、同時に彼の個人としての苦悩なども垣間見えたように思いました。お笑いの時の顔の裏に、とことんネタを突き詰める・・・そんな姿勢が見えたような。
彼が夜な夜なお酒を浴びていたことや、不摂生についてはいろいろなところで言われていますが、一流の噺家がそうであるように、文字通り命を削ってでも飲まずにはいられなかったのかもしれません。
噺家の世界ではそうしたことも「業」という言い方でまとめますが、彼の場合も優しすぎるがゆえにこの結論になったのも業になるのかもと。
もちろん死なせてはいけなかったということに異論はありませんが、大きな損失であったことも間違いはないかと。
その他の芸人については、小生としてのコメントは今回は割愛しておきたいと存じます。
どうか大石様にはこれからも気軽にお立ち寄りのほど。
過去「サチコ」なんて歌があり(ばんば&ニックニューサ)ばんばさんの歌の歌詞で「幸せの話は5分で足りるが不幸せの話は一晩でも足りない」と。 やはりこの世は圧倒的に不幸せな、不条理な、理不尽が多い、、、此処に日本の演歌&ど演歌の存在意義がありそうですが、実は「不幸な、お涙頂戴のネタは無数にあり、幾らでも詩や曲が出来ます」が、不思議と本当に幸せな歌ってぇ極少ない、、、、実は「本当の笑い、腹の底からの笑い、少なくともビートたけし程度の低レベル笑いを超越した笑い」を提供するのは物凄く難しいと思います。これは「不幸せや不幸の方が何かと手っ取り早く、安手の涙を頂戴できる」からなのですね。または手っ取り早く笑いを取るにはビートたけし程度り低レベルギャグもどき? しか無いのでしょうが、実は此処に、敢然と挑戦し真のお笑いとは何ぞや?と問いかけ続けて全うした志村けんさんってぇやはり凄かった、、、、自分は本当に羨ましいのは「落語という強力な武器を持つお師匠様の存在」です。
ぜひぜひ今後も、使命感とプライドを持ち世の為人の為ご奉公される事をお祈りいたします。
再びこの場をご訪問させて頂いた事に心より感謝を 敬具
重ねてのコメントありがとうございます。おっしゃる通り、お涙頂戴は簡単ですが、純粋に誰もが笑えるネタというのは意外に少ないものです。
噺家では、だれもが人情噺をやりたがりますが、逆に純粋な滑稽噺こそ難しいものです。そんな中、大石様のコメントを拝見しながら思い出したことが二つ。
一つ目は、渥美清についての山田洋次監督の言葉です。小生がまだガキの頃、「男はつらいよ」シリーズが走り始めた頃のある記事ですが、「悲しいことを悲しく演じることができる役者はいくらでもいるが、悲しいことを笑いながらできるのは渥美清だけだ」とありました。
二つ目は、小生が大学生のときとあるテレビ番組に立川談志・先代円楽と一緒に出たことがありました。そこで談志が言ったのは、「お前ら大学で勉強なんかしなくていい。落語だけやってろ、そこに人生のすべてがあるから」と。
この二つを思い出したのは、大石様のコメントのおかげかと。
意のあるところをお汲みいただければ幸甚です。