先日、仕事で京橋に行くことがあった。お昼休みに気分転換をかねて、ネタ探しに歩いてみた。大阪にも東京にも京橋という地名はあるが、いずれも都心のビジネス街である。
もちろん、今回歩いたのは東京の方であるが、路地沿いに立て看板が見つかった。何だろうと思って近寄ってみると、歌川広重住居跡とあった。
おお、ここがかの有名な東海道五十三次を作った、あの広重のいたところなのか・・・と感慨にふけった。と書くと、読者にはあれは「安藤」ではなかったかと突っ込みが入るかもしれない。
そう、我々は、あの海苔茶漬けの付録や切手でおなじみの、あの絵の作者を「安藤広重」と記憶している。それで正しいのだ。
実は、安藤は彼の本名、そして絵描きとして名門の歌川門下に入り、後に歌川姓を名乗ることを許されたというのがこの名前なのだ。
厳密にいうと、ここは歌川になってから住んだところで、かの五十三次は、霊岸島にいた頃の作品だというから、当時の名前は安藤だったことになる。
なんとも歴史マニアの小生には嬉しい発見だったが、もっと嬉しい発見だったことがあった。右の写真をご覧いただこう。
なんと、広重の家は狩野永徳の家の隣だったのだ。おお・・・これは、なんという・・・どうだろう、今で言えばピカソの家の隣がダリのようなものか(←ちょっと大げさ)
いや、実際に歴史に残る作品の数々を描いた二人が隣家だったというのはものすごいことである。こんなことも、歴史を尋ねる楽しみである。
そういえば、東海道五十三次の蒲原(静岡県)の絵は、深雪風景である。現在の蒲原あたりでは、まず雪は降らない。
もちろん、たまたま広重が行ったときはそうだったのかも知れないが、中学生の時の先生が、あれを指して「地球は温暖化しているんだ」と言っていたのを思い出した。
当時は、温暖化についてポジティブな立場で語っていたが、今思えば・・・である。逆に寒いからこそ、狭い家のちまちました生活が成立したわけで、マッチ箱のような広重の家から、世界的に有名な作品が生れたことに思いをめぐらせるとまことに興味深い。
路地を抜けると、大通りの喧騒が都心の今を伝えてきた・・・
もちろん、今回歩いたのは東京の方であるが、路地沿いに立て看板が見つかった。何だろうと思って近寄ってみると、歌川広重住居跡とあった。
おお、ここがかの有名な東海道五十三次を作った、あの広重のいたところなのか・・・と感慨にふけった。と書くと、読者にはあれは「安藤」ではなかったかと突っ込みが入るかもしれない。
そう、我々は、あの海苔茶漬けの付録や切手でおなじみの、あの絵の作者を「安藤広重」と記憶している。それで正しいのだ。
実は、安藤は彼の本名、そして絵描きとして名門の歌川門下に入り、後に歌川姓を名乗ることを許されたというのがこの名前なのだ。
厳密にいうと、ここは歌川になってから住んだところで、かの五十三次は、霊岸島にいた頃の作品だというから、当時の名前は安藤だったことになる。
なんとも歴史マニアの小生には嬉しい発見だったが、もっと嬉しい発見だったことがあった。右の写真をご覧いただこう。
なんと、広重の家は狩野永徳の家の隣だったのだ。おお・・・これは、なんという・・・どうだろう、今で言えばピカソの家の隣がダリのようなものか(←ちょっと大げさ)
いや、実際に歴史に残る作品の数々を描いた二人が隣家だったというのはものすごいことである。こんなことも、歴史を尋ねる楽しみである。
そういえば、東海道五十三次の蒲原(静岡県)の絵は、深雪風景である。現在の蒲原あたりでは、まず雪は降らない。
もちろん、たまたま広重が行ったときはそうだったのかも知れないが、中学生の時の先生が、あれを指して「地球は温暖化しているんだ」と言っていたのを思い出した。
当時は、温暖化についてポジティブな立場で語っていたが、今思えば・・・である。逆に寒いからこそ、狭い家のちまちました生活が成立したわけで、マッチ箱のような広重の家から、世界的に有名な作品が生れたことに思いをめぐらせるとまことに興味深い。
路地を抜けると、大通りの喧騒が都心の今を伝えてきた・・・
でも私も思いっきり引き込まれて読んでいて、最後の一文で現実に戻りました。。。
こんな街並みになってしまうとは、広重には想像も出来なかった事でしょうね 。
こういうスポットを見つけるの、けっこう好きなんですよ~
もちろんすぽっとさんも好きですが・・・