江戸時代の浮世絵の中でも、広重の「東海道五十三次」と葛飾北斎の「富嶽三十六景」の二つはおそらくもっともメジャーな存在だろう。
さてあえて広重と書いたが、我々がガキの頃は安藤広重と教わったものだが、今では歌川広重と書くケースが多い。
もちろん同一人物だが、そのことについて書くのは今日の本題ではない。まずは東海道五十三次だが、時代によっていくつかのバージョンがある。
左のこれは「隷書版」と呼ばれるもので日本橋を描いたもの。おそらく読者の皆さんにはトップ写真の日本橋が思い出されるはず。
構図はもちろん、かたや大名行列、かたや庶民の往来と、まったくモチーフも異なる。興味深いのは、おそらく磯マグロを天秤で運んでいる行商人がいるほか、あきらかに「剣菱」のマークの入った酒樽を運んでいる人がいること。
そう、当時の浮世絵はブロマイドや旅行ガイドであっただけでなく、広告の要素もあったわけで、そのあたりがわかるかと。
その意味でいうと、鞠子宿のこちらも有名だ。とろろの「丁子屋」を描いていて、今でも、そのまま現存するお店でもある。
東海道を旅する人にとって、鞠子でとろろをというのは定番になっていたはずだ。
逆に謎になっているのが、箱根の絵・・・湖畔にそそり立つ断崖絶壁だが、現実にはこんな山はない。おそらくはデフォルメのなせるわざだろうが、この絵は五十三次の中でももっとも有名なもののひとつだろう。
謎といえば、蒲原の雪景色だ。静岡県にあり、今ではほぼ一年の中で降雪などはない。仮に降ったとしても、こんな雪景色にはならないわけで、ガキの頃に学校の先生から「地球温暖化」の証拠だという話を聞いた記憶がある。
だが、前後に位置する他の宿場の絵を見ても、こんな風景はないわけで、今では、これは心象風景との説もあるやに聞く。
このあまりに有名でありながら、謎もたくさんある浮世絵は真剣に見ようと思うと、まだまだ深いことになりそうだ。
実際、箱根の風景はどこの山だろうなんてことを探すブログなどもたくさんあった。
逆の視点でいうと、現代人の我々は東海道が、名古屋から関ケ原を通って京都につながっていたように思うが、実は東海道は関ケ原や米原は通っていない。
同様に中山道が高崎を通っていたと聞くと、えっ? とも・・・思う方も多いだろう。現代人の感覚なら、名古屋から塩尻を通り、甲府を抜ける方が早いだろうと・・・
話を戻そう。こんなことをたまたま思いつきながら、東海道五十三次の浮世絵・・・少し勉強してみたくなった小生である。
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