泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

椿の海の記

2024-06-29 18:50:46 | 読書
 少しずつ読み進めていました。また、ゆっくりとしか読めない本でもあります。
 石牟礼道子さんの4歳のときの体験記、なのですが、『苦海浄土』と同様に文体が独特で比類がありません。
 エッセイでもなく、あえて言えば詩と小説が混ざったもの。音楽で言えば「交響詩」でしょうか。
 とにかく4歳のときをこんなにも記憶しているのかと驚きます。
 近くにあった「娼家」のこと。そこに務める女性たちを「淫売」と呼ぶ人の「淫売」に込められた気持ちを読み、それによって大人への好悪を決めていたこと。
 一番美しいと言われていた子が殺されたこと。
「娼家」から聞こえた「おかあさーん」という声。
 自ら花魁の格好をして、道を練り歩いたこと。
 髪結さんが「トーキョー」へ行こうと試みたけれど、親に連れ戻されたこと。
 深く焼酎を飲んだ父から杯を受け、飲み、1週間に渡って吐いていたこと。そのとき、もう「不幸」を感じ取り、小川に身を投げたこと。
 数を怖がる子であったこと。数には終わりがないので。
「花のように美しい子」と自分を比べ、生まれ持った差があると知ったこと。
 家業の道作りが負債を出し、家と土地を没収されて没落したこと。
 他にもたくさんのエピソードがありますが、特に印象深いのは道子のおばあちゃんのこと。
 祖母の「おもかさま」は、長男を若くして亡くし、夫には妾を作られ、正常な意識から追い出された人でした。
「神経殿(どん)」とも呼ばれた祖母は、目の見えない人でもありましたが、夫の気配を察知すれば雪の日も裸足で家から出てしまう。道子もまたおもかさまを連れ戻しに外に出ました。
 そんな祖母に、心無い子たちから石を投げられたこともあります。
 そんな祖母を、娘二人と孫との三人でおさえ、伸び放題の髪を洗う場面も印象深いです。
「無限の共感」と言った人がいましたが、後に『苦海浄土』を描く少女は、すでに魂への憧れも芽生えていたのでしょうか。
 目に見えないけれどもいる、人よりも位の高い存在への敬意。山から山桃を取ったなら、まず山の神様にお礼を伝えなければならない。そう教えられて育てられました。
 椿の咲く海岸沿いには、たくさんの神様たちがいました。神様たちとともに生きているのが当たり前でした。
 水俣は、清らかな水が豊かに流れていました。その水資源が目当てで、「会社」は電気を発電するためにやってきたのでした。
「神様」への畏敬はいつしか「会社様」へ移っていきます。
「会社様」は、化学肥料を作るために出た水銀を、生き物にとって有毒と知りながら川に流しました。
 挙げ句の果てが、水銀の毒に侵された魚たちをドラム缶に生きたまま詰め、海岸沿いに埋めることでした。
「椿の海」は、コンクリートの下に生き埋めにされてしまいました。
 それで終わったわけでもなく、今でも被害者からの救済の申し立ては続いています。国による詳細な調査がないためでもあります。
 石牟礼さんが書いて証明して見せたのは、いくら生き埋めにしようとも、ここに生きていた世界があったということ。
「前の世界」が何であったのかを知らなければ、「今の世界」が良くなったのか悪くなったのかもわかりません。
 昔だけが良かった、という話でもないでしょう。
 電気も必要だし化学肥料も必要です。でも、だからと言って犠牲にしていい生き物や土地があるわけではありません。
 ものすごい力技の一冊と言うべきでしょうか。
 ずいぶんと「神」が軽くなってしまった現代において、錨のような重さを備えた作品です。
 共感力と記憶力と描写力の賜物。
 どこか、この本を良さを伝えられそうな箇所を探したのですが、どこか一部を切り取ってみても、どこも違う気がします。
 もうすっぽりとこの『椿の海の記』にはまり込むしかありません。
 それでいいのだと思います。

 石牟礼道子 著/河出文庫/2013
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白い紫陽花

2024-06-22 17:28:01 | 写真
アナベルが咲いていました。
花言葉は「辛抱強い愛」。
私の好きな花の一つです。
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6月の富士山

2024-06-22 17:18:59 | 写真
 毎週土曜日は朝ラン。
 いつもの多摩湖堤防で、富士山が見えました。
 6月に見えるのはほんと珍しいです。
 いいことあるかもしれません。
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しずかなところはどこにある?

2024-06-19 18:16:11 | 読書
 大きな耳を持ったキツネが主人公。
 キツネは、大きな音が苦手でもありました。
 穴を掘って、掘って、地中深くに静かに暮らしていました。
 住んでいる森は大きな音でいっぱいだったから。
 大きな音にいつもびくびくしている自分が見られるのを恥ずかしく思ってもいました。
 そんなある日、キツネは静かなところを探そうと勇気を出して森に出かけました。
 意外と身近なところにあるんじゃないかなあ?
 すると、見つかりました。あちらにもこちらにも。
「どくのあるベニテングタケのかさのした」
「そっととじためのおく」
「はっぱのうえでそろりとうごくガガンボ」
「よつばのクローバーがはさまれたほんのページ」
「ひとやすみしているちょうちょのしょっかくのさきっちょ」
「めがさめてしんしんとゆきのふるあさ」
 キツネは、さらに見つけた。
「おもいでのなか」
「すずらんのかおり」
「まっくらなところ」
「ひるまのひかり」
「だれかによんでもらうおはなし」
「ゆらゆらゆれるいなほ」
「やさしいことばのなか」
「ひんやりしたまどガラス」
 キツネは、さらに地中深く掘っていきました。
 すると、大きな岩にぶつかり、その上からダンプカーのとても大きな音が響いてきました。
 キツネは泣いてしまいました。大きな声をあげて。
 すると、地中のお隣から「しずかにしてくれー!」と言ってミミズが顔を出しました。
 ミミズもまた大きな音が苦手なのでした。
 そこでキツネは、地中から出て、森で叫びました。
「しずかにしてくれー! おおきなおとは もう たくさん」
 それから、森は大きな音をあまり出さなくなりました。
 大きな音が苦手だった他の生き物たちと、キツネは仲良くなりました。
 特にミミズとは友達になって、楽しくおしゃべりするようになりました。
 そんなお話です。
 この絵本を読んで、あー私にもあったなあと、思いつくままに「しずかなところ」を書き出してみました。
「打ち鳴らされたゴング」
「黒板に書き付けられたチョークからこぼれる粉」
「日記帳の空白に下された万年筆のインク」
「コーヒーから立ち上る湯気と香り」
「ピッチャーマウンドとホームベースの間」
「映画館の照明が消えるとき」
「親しくなった人とする食事」
「マラソンのゴールテープ」
「走って風になれたとき」
「開店前の本屋」
「屋根を軽々と越えていく虹」
「本を開いた人の耳」
「つやつやして甘酸っぱいリンゴのかけら」
「絵の前」
「音楽の奥」
「真夏の夜のよく冷えたスイカ」
「風に揺れるコスモスの細くしなやかな茎」
「お昼寝」
 まだまだありそうです。
「しずかなところ」は、「物理的な静寂」だけを意味しなかった。その発見が、この絵本の最大のメッセージだと思います。
「しずかなところ」は、「美しいところ」「私を感じられるところ」「大事なところ」「夢中になれるところ」「落ち着くところ」「感心するところ」でもありました。
「しずかなところ」が一つでも多く見つかると、私たちは生きやすくなります。
「しずかでないところ」で生きなければならない人たちに、この絵本は大きな支えとなってくれそうです。

 レーッタ・ニエメラ 文/島塚絵里 絵・訳/岩波書店/2024
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被災物 モノ語りは増殖する

2024-06-12 11:41:59 | 読書
 一昨年の秋、宮城県の気仙沼に行きました。そのとき、時間が足りずに行けなかった場所がありました。
 次回は必ず行く予定にしている「リアス・アーク美術館」。
 この本の新刊案内を見たとき、だから目が止まりました。そして注文していました。
 しばらく店に置いていたのですが、自分が読みたくなったので買いました。
 読むときが来たわけですが、書いている小説に「被災物」が出てきたので。
 というか、この本を読んでわかったのですが、私もまた被災物という呼び水に触発されて、小さな物語を紡ぎ出したのだと。
「被災物」とはなんでしょうか?
「被災者」という言葉があります。人が震災にあったとき、その人を被災者と呼びます。
 同じように、物が被災したとき、その物を被災物と呼ぶようにしたのです。
「瓦礫(ガレキ)」という言葉がやたらと使われました。
 人々の経験したことのない出来事や見たことのない物が現れたとき、手持ちの言葉でそれをとらえようとします。
 でも、経験したことのない出来事や物を、どうして手持ちの言葉で表現できるでしょうか?
「瓦礫」とは、手持ちの国語辞書(岩波国語辞典第8版)によれば「かわら、コンクリートのかけらや石ころなどの集まり。建物・家具などの残骸。また、役に立たないもの。価値のないつまらないもの、その集まり」とあります。
 大津波によって被災した物たちが、どうして「瓦礫」なのでしょうか? どこがつまらないものなのでしょうか?
 私も感じていました。現地に足を運び入れ、歩いて風を肌に受け、匂いを嗅ぎ、音に耳を澄ませれば、それらの一つ一つは大切な「おらほ」(気仙沼の方言で「私たち」という意味です)の「我が家」でしかありません。その人の足であったであろう車に船。生活に欠かせなかったであろう足踏みミシンや本。決して「瓦礫の山」は存在しなかった。それが存在したとするならば、よく見ること(視力があるという意味ではなく)のできない人たちの頭の中にだけ。
 リアス・アーク美術館は、被災物を収集し、展示しています。
 ただ展示しているだけではありません。収集した日時と場所とともに「モノ語り」が葉書に認められて添えられてあります。
 例えば、63ページにある「ぬいぐるみ」。

 2012•3•23 気仙沼市内の脇2丁目

 うちの子がね、大切にしてた”ぬいぐるみ”があったのね。
 それをね、すぐ帰れると思って、うちに置いてきてしまったのね……
 うちの子がね……ポンタが死んじゃったって、泣くの。あの子にとっては、たぶん親友だったんだよね……
 あれから、うちの子、変わってしまってね。新しいのを買ってやるからって、おばあちゃんが言うんだけど……いらないって、ポンタじゃなきゃダメだって言うのね。

 この「モノ語り」は、モノの持ち主が語ったものではありません。収集した学芸員が想像して書いたものです。
 この試みは「さがしています」(アーサー・ビナード作・童心社)を思い出しました。「さがしています」は、広島の原爆資料館にある「被爆物」のモノ語りを、アーサー・ビナードさんが聞き取ったもの。
「被災物」と違うのは、被災物のモノ語りは、そのモノにまつわる人間に共通する記憶が語られているところです。
「被爆物」は、その持ち主が明確なので、モノ語りは一つの形に収束していきます。「被災物」は、持ち主がはっきりせず、言ってみればみんなのものに変わっていますので、モノ語りは接した人の数ほど増殖していきます。共通しているのは「傷んでいる」ということ。人によってなのか自然によってなのかの大きな違いはありますが。
 この本は、以上のようなリアス・アーク美術館にある被災物に接した人たちの応答がまとめられたものです。
 ワークショップという形で被災物への応答は行われました。人によって触発されるモノも違います。応答の仕方も、詩だったり踊りだったり文だったりします。
 被災物に接して何が出てくるのか? それは記憶の語り直しでした。「記憶のケア」とも言われています。
 深いところに潜り込んで見つけられなくなっていた記憶の断片。それらは被災物が呼び水となって鮮やかに意識に上がってくる。
 語ったり書いたり歌ったり踊ったりして意識をなぞることでその人の生き直しが生まれる。
 さらに興味深かったのは、被災物が恵比寿につながっていくこと。
 恵比寿は七福神の一つです。あの突き出した腹に大きな耳たぶ、釣竿と鯛を持っているあの神様。
 知らなかったのですが、恵比寿様の謂れはこんな感じでした。古事記という日本の国造りの神話に登場するイザナミとイザナギの第三子(蛭子・ひるこ)は、3歳になっても歩かなかったので海に流されてしまいました。それでも蛭子は生き残り、漂着した浜の人々によって手厚く守られ、やがて祀られるようになった。蛭子は恵比寿となり、海の神となり、豊漁の神となり、転じて商売繁盛の神ともなった。
 足が悪いということで、通常恵比寿様は座っています。が、気仙沼にある恵比寿像は立っており、かつ鯛ではなく鰹を抱えています。立っている方が縁起がいいとか何とか大阪人に言いくるめられたそうです。気仙沼人の人の良さと、鰹に変更してオリジナルにしてしまう図太さが伝わってくるエピソードではあります。
 恵比寿とは、海からくるモノの総称でした。だから魚も貝も石も海藻も漂流物も水死体も被災物みんな恵比寿。
 被災物をありがたい恵比寿に近づけられるかは、被災物に接した一人一人の語りにかかっています。
 語りが生まれれば聞き手もまた生まれます。本が生まれれば読者が生まれるのと同じで。
 そこにつながりも生まれます。
 被災物のワークショップに参加した人たちは、モノ語りの流れに乗って、気仙沼へ旅に出ます。鎮魂と、今ある命を祝うために。
「被災物」に接して語ること。それはそのまま傷ついている自分を修復することにつながっているように感じました。
 その作業を、私自身が行なっているということも感じました。だからこそ読む必要に迫られました。
 この作業(私にとっては小説を書くこと)には終わりがないことも感じます。
 モノ語りは増殖していくから。増殖してつながる相手を求めるから。
 もしこの世に「傷ついたもの」がいなくなれば、その必要もなくなるのでしょうが。
 私は私に訪れたモノ語りを書き続けます。
 気仙沼に行ったら、ぜひリアス・アーク美術館へ足を運んでください。
 私も、必ず、近々、行きます。
 そしてまたモノ語りの芽を持って帰ってくるのでしょう。意識するにせよ、しないにせよ。持って帰ってくるつもりでないものもくっついてきて。
 それが現地に行く貴重さでもあるのでしょうね。

 姜(きょう)信子・山内宏泰・志賀理江子・川島秀一 他著/かたばみ書房/2024

 
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ペロー童話集

2024-05-11 18:11:31 | 読書
 この本は、花巻の林風舎で買い求めたものです。
 林風舎は、宮沢賢治の親戚の方が営まれているお店で駅のすぐ近くにあります。私も行きました。
 一階は土産物中心で、絵葉書や衣類や複製原稿やしおりや工芸品などが販売されています。私は絵葉書と「デクノボーこけし」を買いました。
 そのとき店員さんと少し雑談しました。二階がカフェで、ちょうどピアノの生演奏もしているのでぜひどうぞと言われ、二階へ。賢治の肖像画の近くで、ピアノの演奏に体を酔わせながら、ロールケーキとコーヒーをいただく、という貴重な時間を過ごしました。
 会計後、書籍もあったので見ました。宮沢賢治の記念館と似たような並びでしたが、この「ペロー童話集」は記念館にはなく、目が留まりました。
 で買うとき、店員さんに聞いてみました。「なんでこの本が置いてあるのですか?」と。
「天沢退二郎さんだからです!」
 と言われたのですが、私はすぐ合点せず、解説を待ちました。
「宮沢賢治研究の大家のお一人です」とのこと。それでああ、と納得しました。この本の訳者が天沢さんなのです。
 帰りの新幹線で早速読み始めました。
「眠りの森の美女」「赤頭巾ちゃん」「長靴をはいた猫」「サンドリヨン」「おやゆび小僧」など。
 どこかで読んだことがある、だけど少しずつ違う。
 この本は1697年にフランスで刊行されたものです。グリム童話が出るのは、そのほぼ100年後のこと。
 グリム童話は、ずいぶん前ですが読みました。その微かな記憶が、「ん?」となったようです。
 一言で言えば残酷だなあ(グリムもかなりエグいですが)。でもこのお話集には「教訓」が付いています。作者のおせっかいというか。
「教訓」あってのお話なので、「お話」と割り切ることもできます。
 例えば赤頭巾ちゃんは、誰にでもいい顔をしたために、狼に食べられてしまいます。いい人、誰にでも可愛い人では、殺されることもあるよ、というお話。
 それに「妖精」が至る所に現れるのも印象的です。「妖精」は、人の未来が見えるようです。
「人喰い鬼」も出てきます。鬼畜は、今も昔も変わらない。
「サンドリヨン」は、「シンデレラ」の原形。どんなに恵まれない環境にいても、その人の気持ちさえ折れなければ、チャンスは巡ってくる、という感じでしょうか。
「おやゆび小僧」は、飢饉で苦しむ木こりの両親によって、子供三人が森に捨てられますが、一番下の一番小さくて馬鹿にされていた子が、上の二人だけでなく最後には家族をも救うというお話。
 宮沢賢治は「グスコーブドリの伝記」で、飢えに苦しむ木こりの両親が家にわずかな食料と子供を残し、銘々に森に入って餓死する話を書いています。
 賢治はグリムやアンデルセンを愛読しており、明らかに意図的な「反=グリム」童話を作っていました。これは天沢さんの指摘で、なるほどそういうつながりか、とわかりました。
「ペロー童話集」自体も、あちらこちらで語り継がれていたお話を集めたもの。お話は語り伝えられて、少しずつ変容していく。
 花巻からこちらに戻ってから、賢治が作詞作曲の「星めぐりの歌」をよく聞いています。というか、エンドレスで頭に流れているというか。
 アイフォンで聞いていますが、実に様々な歌い方、編曲がされており、そのそれぞれが甲乙つけ難い良さを持っています。
「永久の未完成これ完成である」の具体の一つでしょう。
 あらゆる作品には、いわば「元ネタ」が存在しています。
 濃密なつながりの中でしか、新しいものは生まれない。
 新しいものが、次の新しいものを準備する。
 作品はみんなのものです。「透明に透き通って」いなければ、接した人が愛を込めることができない。
 愛が吹き出すこともない。
「お話」の原形たちを読みながら、そんなことを思いました。

 シャルル・ペロー 作/天沢退二郎 訳/岩波少年文庫/2003

 
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あやとりの記

2024-05-11 13:21:36 | 読書
 この本は、昨年熊本に行ったとき買い求めたものです。
 この本の中身をどう伝えたらいいのか、しばし想いに耽りました。
 適当な言葉を私は持っていないというか、どう言っても嘘になりそうだ、というか。
 なので著者の「あとがき」から引用します。
「九州の南の方を舞台としていますが、高速道路に副(そ)う情けない都市のあそこここにも立って、彼岸(むこう)をみつめ、”時間よ戻れ”と呪文を唱えたのです。
 どこもかしこもコンクリートで塗り固めた、近代建築の間や、谷間の跡などから、昔の時間が美しい水のように流れて来て、あのひとたちの世界が、現代の景色を透けさせながらあらわれました」
 物語の中で視点となっている「みっちん」は、5〜6歳の女の子でしょうか。著者の姿と思われます。
 みっちんの祖母と思われる「おもかさま」は、目が見えず、魂が遠くに行ってしまいがちな人。おもかさまとみっちんは仲良しです。
「萩麿」という名の馬がやってくる。萩麿を使って運送業をしているのは「仙造やん」。仙造やんは足が一本しかありません。
 仙造やんと親しくしているのは「岩殿(いわどん)」。岩殿は、火葬場の隠亡。隠亡というのは死者の火葬や埋葬を業とする人のこと。江戸時代の身分制では差別されていました。
 死人さんは燃えると温かくなる。岩殿も、思慮深く温かい人。その人柄に引き寄せられるように、二人の若者が慕っています。
 一人は「犬の仔せっちゃん」。彼女は身に纏ってるぼろの中に、犬の仔を隠している。せっちゃんは見送りの少ない死人さんをいつも気にして、花を摘んで持って来てくれる。
 もう一人は「ヒロム兄やん」。彼は巨人で片目が開かない。力持ちでちんどん屋の幟(のぼり)を持って歩いたりしている。非常に上等な挨拶を欠かさない反面、自分のことを「みみず」だと思い、銭を稼ぐのが下手な自分を嘆いている。
 みっちんの家に物乞いの親子が現れ、みっちんは小銭をその子に差し出すのですが、その子は受け取らず、小銭が雪に落ちてしまう、という場面も描かれていたりします。
 せっちゃんは、どこでもらってきたのか、子を産みます。海岸の洞穴の中で。そこには海神さまがいらっしゃると言われており、一人で産んだのではなく、海神さまに助けられたのだと言って。
 せっちゃんとヒロム兄やんには親がいません。せっちゃんは岩殿をはじめとした支援者たちによって命をつないでいます。が、いじめられることもあります。そのときの方が多いのかもしれません。
 せっちゃんを枝と言葉で痛めつけるガキ大将に向かって、みっちんは赤い小さな火の球みたいになって言ったのでした。
「神さんの罰のあたるぞう!」
 彼らは「ものいうな」を捨て台詞にしてぺっと唾を吐き、後退りしながら行ってしまいました。
「あのひとたち」は「すこし神さまになりかけて」いる人たち。
 みっちんは「魂だけになりたい」憧れを持ち、「あの衆(し)たち」や「位の美しか衆」をいつもどこかに普通に感じて共存している。
 あの衆たちは、コンクリートによって追い出されてしまったのでしょうか。
 でも、この「あやとりの記」に浸ると、現代の景色が透けてしまう。その奥に隠されてしまった昔の時間が美しい水のように流れて来る。
 何をどう読み取って、今に生かしていけるのか。それは読んだ人次第なのでしょう。
 そのままの復活や再生ではなく、現代ともあやとりをしていくものとして。
 宮沢賢治にとって岩手がイーハトーブだったように、石牟礼道子にとっては南九州がイーハトーブだった。
 ただ、石牟礼さんは、イーハトーブが破壊させられるのを見てしまった。理不尽な現代化を。
 許せなかった。どんな理屈にも屈せず、徹底的に人の側に立った。
 その人から湧き出す美しい水がおいしくない訳がありません。
 物語は、魂の飢えを満たすものだと感じています。

 石牟礼道子 作/福音館文庫/2009
 
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宮沢賢治のこと

2024-05-01 16:59:30 | 
 私が花巻に行きたかったのは、そこが宮沢賢治の故郷だからでした。
 大宮から東北新幹線に乗って、よく降りる仙台でもなく一関でもなく、新花巻まで北上して初めて下車。胸がどきどきしていました。
 改札口を出ると、左に売店、右に食堂。右奥にコインロッカーとお手洗い。正面奥に観光案内所と、大谷翔平選手をはじめとした花巻ゆかりの野球選手たちのグローブやスパイク、ユニフォームなどの展示コーナーがありました。ロッカーに荷物を預け、まずは野球選手たちの備品を眺める。大谷選手のスパイクのデカさに驚きました。
 で、観光案内所で、宮沢賢治の記念館に行きたいのですが、と相談すると、係の人は親切に地図とバス・電車の時刻表を手渡し教えてくれました。
 記念館にはバスで行けるのですが、本数は少ない。ちょうどいいバスがなかったので帽子を被り、歩いていくことに。
 歩いて20分弱。入り口が右手に見えました。ちょっとした山道のように、屋根付きで木製の階段が伸びている。交通整理のお姉さんに「ここを登るんですね?」と言うと、白い歯をこぼして「はい」と笑顔。登りました。367段。その通路に左下に、一段ずつひらがなが。なんだろうと思って読み始めると、それは「雨にも負けず」なのでした。
 記念館に行くまでの道にも、地元の子供達の描いた賢治の作品の一場面(「よだかの星」や「どんぐりと山猫」)が描かれていて飽きさせません。
 たどり着いた見晴台での一枚がこちらです。



 左奥に見える山が早池峰山です。
 見晴台で涼んで、息を整え、歩き始めると左手に山猫軒が。



 こちらは記念館に行った後お邪魔しました。
「どなたもどうかお入りください。決して遠慮はありません」が効いています。
 レストランと土産物屋です。カツカレーにりんごアイスとコーヒーをいただき、いくつかお土産も買いました。
 腹を空かせた山猫はいなかったようです(自分のことか?)。

 記念館の左手前にあるのが、冒頭の「よだかの星彫刻碑」です。賢治の作品の中で、おそらく「よだかの星」が一番好きなので。
 そしていよいよ記念館。入り口右手にいるのがこちらです。



 猫の事務所ですね。
 玄関を入ると、正面がカフェで右に券売所と入り口、左が土産物。チケットを買って、中へ。
 会場は「科学」「芸術」「宇宙」「宗教」「農」「宮沢賢治のフィールド」と分かれていますが仕切りのないワンフロアでした。分け隔てることのなかった賢治らしい作りをイメージしたのでしょうか。
 盛りだくさんでした。
 実物を見るとやはりお会いしている感じが増します。
 チェロもあった。妹のトシのバイオリンも。顕微鏡も、名刺も。
 一番引かれたのは原稿でした。



 これは「業の花びら」という題。このように黒字に白枠の棚に展示物がぎっしり詰まっています。賢治の細胞をのぞくかのように。
「銀河鉄道の夜」もある。「永訣の朝」もある。その二つは複製が販売されていたので買いました。原稿を買うなんて初めて。
 で、「業の花びら」ですが、何度も何度も書き直しています。原稿を見るとよくわかります。後の一つの言葉と結びついて。



 この写真に載っている言葉は「農民芸術概論綱要」の「結論」部分。



「農民芸術概論綱要」は、賢治が30歳のとき書いたもの。
 盛岡高農の研究生を経て、花巻農学校の教諭になったのが25歳、それから5年後の3月に教職を辞している。なのでこれからの指針であり、賢治の考えでもありました。
 序論には有名な「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」の一文があります。
 農民芸術の興隆、本質、分野、主義、製作、産者、批評、綜合ときて、結論に、賢治の愛されている理由を発見しました。
「永久の未完成これ完成である」
「農民芸術概論綱要」何度読んだでしょうか。他にも、すばらしいとしか言いようのない箇所がたくさんあります。
 ただ、「永久の未完成これ完成である」に、収斂していく感じです。これか、これだったのかというような。
 原稿を見ればわかるように、どんどん変わっていっています。そう、作品は変化していく。
「永久の未完成」であるからこそ、小学生たちでさえ、賢治の作品に触発されて独自の世界をまだ小さい胸の中に作ることができる。
 しかもただの未完成ではない。「永久の未完成」
 土がどんどん生まれ変わっていくように。人がどんどん生まれ変わっていくように。
「綜合」にはこんな文もあります。
「まずもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばろう
 しかもわれらは各々感じ 各別各異に生きている」
「無方の空」
 こんな表現見たことなかった。あちらでもこちらでもない、方向などない、無方。



 この絵本は、昨年の秋、仙台の金港堂本店(4月30日に閉店されました)で行われていた古本市で買ったもの。
「やまなし」 クラムボンがかぷかぷ笑うあれです。
 思えば賢治との出会いはこの「やまなし」が最初でした。
 小学校の3、4年でしたでしょうか。教科書に載っていました。
 なぜ覚えているかと言えば、登校中に友達と「クラムボンってなんだろね?」と話し合った記憶があるからです。
 答えは出ませんでした。正解という完成形はないのでした。
 今日読んで思ったのは、「クラムボン」は、カニから見た人のことなのではないかと。
 クラムボン(人)は、カニから見ればかぷかぷ笑うし殺される(津波や戦争や疫病や飢饉などで)。なぜ笑ったり殺されたりするのかはわからない。
 カニにとっては大きな魚が泳ぎ、その魚を一瞬にして鳥がさらう。カニたちはおびえる。カニたちは死を見てしまった。
 そこに父さんカニが来て、鳥はカワセミで、うちらとは関わりないので大丈夫と安心させる。それが5月のこと。
 12月になって、カニの兄弟は大きくなり、吹き出す泡の大きさを競っている。そこにトプンと落ちたものがあった。カニ兄弟はまた鳥だと思って怖がる。
 父さんガニが落ちたものをよく見ると、それはやまなしだった。熟してとてもいい香り。カニ親子は流れるやまなしを追っていく。
 やまなしは枝に引っかかって止まった。そのやまなしの上に月光の虹がもかもか集まっている。
「おいしそうだね」と言う子カニに、父さんカニは「2日すればひとりでに落ちておいしい酒になるから待とう」と教えて家に帰っていく。
 中身をどう受け止めてもいいのです。この絵本もまた一つの農民芸術。
 言葉だけの表現にこれほど想像力を刺激される。
 農民芸術の「製作」にはこんな文もあります。
「無意識即から溢れるものでなければ多く無力か詐偽である
 髪を長くしコーヒーを呑み空虚に待てる顔つきを見よ
 なべての悩みをたきぎと燃やし なべての心を心とせよ」
「無意識から」ではなく「無意識即から」。この言葉の正しさに感嘆します。「即」は近くという意味でしょうか。できるだけ近く、という謙虚な言葉遣い。
 さらに「髪を長くし」って、そこまでかと思いますが、父さんカニのような「まあ待て待て」という成熟を待つ姿勢の大事さもよく伝わってきます。
「なべての悩みをたきぎと燃やし」
 賢治が「業」や「修羅」とまで自分に言わざるを得ないのは、今でいうところの性的マイノリティーであったからと言われています。が、本当のところはわかりません。ただ人一倍悩み苦しんでいて、その苦しみを享受し、作品に昇華するエネルギーに変えていたのは確かだと思います。

 


 花巻駅の夕焼け。そんな賢治が生きて歩いていた花巻に行けて、歩けて、走れて、本当によかった。
 やっとたどり着いたという感慨があります。
 小学生のとき、おそらく人生初めての文学の体験を私は賢治で味わっていた。
 夏休みは宮城の気仙沼に遊びに行きました。そのとき、一関から大船度線に乗って行くのですが、途中観光名所の猊鼻渓の手前に陸中松川駅があります。そこをよく通っていたわけですが、そこにも賢治はいました。教師を辞した後、東北砕石工場技師として働いていました。この事実も初めて知りました。
 賢治は37歳で結核のため亡くなってしまうのですが、最期まで農民たちの肥料相談を受けていたそうです。
 土壌を作る人だったんだなと思いました。私も、知らず知らず立っていたその土壌を。



 花巻駅のすぐ近くにこの壁画があります。「未来都市銀河地球鉄道」と言います。花巻の名所の一つで、完走証のデザインにもなっています。



 これは「銀河鉄道の夜」に出てくる「白鳥の駅」。バス停の一つで、ここから歩いてすぐイギリス海岸があります。



 写真左手前に白い泥岩があり、イギリスのドーバー海峡に似ていると賢治が言ったことから。今は水量が増えて見えませんが、賢治の命日である9月21日に、ダムの水量を調整するなどして川の水位を下げる試みをしているそうです。
 かつては生徒たちを連れて、賢治は胡桃の化石を拾ったりしていました。
 記念館のある胡四王山も賢治がよく登った山で、またそば屋の老舗である「やぶ屋」もよく通った店。そこにはマラソン後、食べに行きました。
 そんなふうに、賢治が今でもそこかしこに息づいている花巻。生家は空襲で消失しましたが、同じ場所に今でも宮沢さんは建て替えられた家に住んでいます。そのご家族の方が営んでいる林風舎にも行きました。「デクノボーこけし」など買いました。少しの雑談も楽しく、ピアノ生演奏もすばらしかった。



「生徒諸君に寄せる」にあるように、私もまた「諸君の未来圏から吹いて来る透明な清潔な風」を感じたわけです。
「新しい時代のコペルニクスよ
 余りに重苦しい重力の法則から
 この銀河系統を解き放て」

 まだまだ余韻が続きそうです。
 それほど私には大きな旅でした。
 
コメント (2)
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イーハトーブ花巻ハーフマラソン大会

2024-05-01 15:20:34 | マラソン
 4月28日の日曜日、岩手県の花巻を走りました。
 初参加です。
 ツーショットしてもらったのは、地元花巻の「フラワーロール」ちゃん。高校生たちでしょうか。スマホ持って近づいたら「撮ります?」と声をかけていただき、「お願いします!」と。ちなみに参加賞のTシャツにもフラワーロールちゃんは描かれており、レース後に着て町を歩くほど気に入ってしまいました。
 全国のマラソン大会のエントリー情報をいつもチェックしているのですが、この大会を見たとき、胸が高鳴りました。心は「出たい」と言っていたし、足は「走りたい」と訴えてもいましたので、すぐエントリーしていました。
 花巻でマラソン大会が行われていることも知りませんでした。今年で12回目です。
 花巻に引かれたのは、もちろん宮沢賢治の故郷だからです。賢治のことは、後で書きます。



 当日は晴れ。スタート時の気温は21℃くらい。ゴール時は24℃くらい。
 ときより吹く風が気持ちよかったけど、直射日光を浴びていると暑い。日陰は涼しいのですが、スタートして競技場を出ると、9割は田んぼ道。遮るものは何もありませんでした。
 永遠に続くかと思われる田んぼの中の一本道。遠くには奥羽山脈が見えます。山裾には花巻温泉街がありますが、その近くでUターンするコースでした。
 折り返し手前で少しきつめの凸凹を往復する他は、なだらかな坂もあり、競技場に入る前も上りでしたが、高知や熊本に比べたら優しい感じでした。
 花巻東高校をはじめとした高校生たちがボランティアで活躍していました。受付から会場案内、コース誘導、給水に給食、ゴミ集め、ランナーへの励ましも。応援してくれる市民の方たちはそれほど多くなかったので、余計に高校生たちに助けられたという印象が強いです。
 暑さ対策はしていきました。ネッククーラーにアームクーラー。さらに昨年から導入している登山用の手袋。どれも水をかけると冷たくなります。日焼け防止にもなります。
 給水で必ず水を飲んでは首筋、腕、手にも水をかけました。それと高校生たちの応援を支えにして、無事完走できました。



 参加者は2477人で、種目別の40代男子は345人でした。種目別で77位ということは、上位22%くらい。まあ、いつもだいたいこの上下にいます。
 ここより上を目指すのであれば、月間の走行距離を伸ばすことでしょう。今は約100キロ前後ですが、それは生活によります。もっと走れる状況になれば走るでしょうが、生活の全体のバランスがあります。疲れすぎたり、怪我したら元も子もない。
 私にとって走ることは大切でずっと続けますが、基本的に健康のため、頭のため、創作のためです。なので元気に頭もすっきりして書けているのであれば、それ以上のことはランに求めません。といっても欲は出るものですが。
 2年前に仙台で出したハーフマラソンのベストタイム(1時間37分13秒)よりは2分ほど遅かったけど、1時間40分を切れたのだから上出来です。
 暑さがなかったらもっと速かったと思うけど、「たられば」がないのがマラソン。
 どんな状況であってもベストを尽くす。それがマラソンの醍醐味であって、達成感の源です。
 ゴール後はおにぎりとおそばとりんごジュースでおもてなししていただきました。
 ゴール後にあったかいそばって初めてではないでしょうか。さすが岩手。
 そばは大好きです。やはり本場のそばは一味違っておいしかった。そば自体の香りやこしもそうですが、つゆがまたふくよか。釜石と電車でつながっているからか、しっかり海のもの(昆布に鰹節)も活かされていると感じました。
 りんごジュースがまた最高でした。りんごも毎日食べるほど私の大好きな果物です。

 走ってからもう3日が経ちますが、本当に行ってよかった。
 ランが私を花巻にまで連れて行ってくれました。
 これからもどこに連れて行かれるのか、楽しみにしています。
 次は11月の神戸を予定していますが、抽選になるようなのでまだわかりません。
 それにしても私は暑さに弱いですね。それもまたよくわかりました。
 花巻でも、今まで経験したことのない寒暖差の激しさだそうです。
 夏場は長く、強く走ることはできません。
 こまめに、朝の涼しい時間を活用して、リズムよく、いい汗をかいていきたい。
 健筆を支え、次の新しい場所、秋の大会へとつなげていけるように。
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矢車菊

2024-04-20 18:39:03 | 写真
この花、本当に好き。繊細ですがまっすぐ立ちます。いろんな色を持っています。
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花水木

2024-04-20 18:27:59 | 写真
桜の返礼でアメリカから来た。独特な葉と花の模様。ずっと見ていられる。
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私の名前は

2024-04-20 18:24:22 | 写真
雑草じゃなくて春紫苑です。
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サクラ散ってもタンポポが

2024-04-20 18:19:46 | 写真
花は桜だけじゃないよ
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高知から花巻へ

2024-04-20 17:36:02 | マラソン
 高知龍馬マラソンからもう2ヶ月が経ちました。そのときの写真をあげておきます。
 フルマラソンの後は、当然のことながら疲れが出ます。回復するまで約1ヶ月はかかるのではないでしょうか。
 私の感覚ですが。働きながらでもあるので、個人差はもちろんあるでしょう。
 その間、書店では棚卸しがあり、そのための整理があり、春休みになって接客に追われつつ、年度末で納品も増え、さらには杉花粉で自由を奪われ。
 結構大変でした。それらを無事乗り越えて、春。




 最近の新緑の美しさには、改めて目を奪われます。
 杉花粉もおさまって、穏やかな天候の下で、痛みもなく思い切り走って、おいしい空気を胸いっぱい吸えるのは、本当に心地よく、生き返る思いです。
 その中で出会った花々の写真は、後でまとめてあげます。
 で、次の大会が1週間後に迫ってきました。



 初めて参加します。
 岩手の花巻も初めて。
 私が何より惹かれたのは、宮沢賢治の故郷だということです。
 私はいろんな作家の影響を受けてきましたが、なかでも宮沢賢治は重要な人の一人です。
 どこまで賢治の世界を自分のものにできるかわかりません。
 ただ、行きたい。走りたい。
 そう強く感じたので参加してきます。
 賢治も過ごした花巻を歩くだけでもいい。
 記念館などたくさんゆかりの場所はありますので、今から楽しみです。
「銀河鉄道の夜」は3回は読んだでしょうか。
 特にうつ病でどうしようもなかったとき、言ってみれば自分が生まれ直し始めた一番初めに読んだのが宮沢賢治であり、「銀河鉄道の夜」でした。
 私はジョバンニをからかい、川に溺れたザネリだった。川に飛び込んだカンパネルラはザネリを救出し、自分は帰ってこれなかった。ジョバンニは、カンパネルラを一生の友と信じていたけれど、途中で別れざるを得なかった。
 読むたびに救われる。掬われる。
 震災や人災の絶えない現代。賢治の祈りは、もはやみんなの祈りになっている。
 自分に何が吸収できるのか。自分に何が創作できるのか。現代、そして未来に必要なものとして。
 行ってみなければわかりません。
 行ってきます。
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わかちあう

2024-04-06 17:10:38 | 写真
こちらも柳瀬川沿いの桜並木。
右手前にお花見の席取りのシートが置いてあります。
小道の奥には小さくなってしまいましたが、人が写っています。
カメラを向ける奥様と、その旦那様でしょうか。
東京都写真美術館で木村伊兵衛の没後50年を記念した写真展を開催中(5月12日まで)です。
観てきたのですが、実に人々の表情が生き生きとしています。
さりげなくて、誰もポーズをしていなくて。
それで思ったのです。ああ、人を写すのもいいなあと。
なのでこれからの写真には人が入ってくるかもしれません。
さりげなく。
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